キリスト教に何ができるというのか


2019年11月24日(日) 

 日本キリスト教団 枚方くずは教会 主日礼拝 宣教

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聖書の朗読&お話(約30分)



 ヨハネによる福音書9章1-3節 
(新共同訳)
 わたしは虫けら、とても人とはいえない。
 人間の屑、民の恥。
 わたしを見る人は皆、わたしを嘲笑い
 唇を突き出し、頭を振る。
 「主に頼んで救ってもらうがよい。
 主が愛しておられるなら、助けてくださるだろう。」 



▼自己肯定感

 皆さんは、「自己肯定感」という言葉をご存知ですか?
 自己を肯定する感覚。自分はこれでいいんだと自分で思える心といいますか。自足する心といいますか。自分の現在の状態に満足し、自分を承認できる気持ちのことですよね。
 日本人はよく自己肯定感が低いと言われることがありますが、私は政府が調査した青少年の自己肯定感についてのデータを見たことがあります。日本の10代と20代の人の自己肯定感は、同じ世代の他のいくつかの先進国と比べても、かなり低い数字にとどまっています。また、日本の10代、20代の死因のトップは「自死」あるいは自殺というデータについても私は聞いたことがあります。
 つまり、日本の10代、20代の若い人たちの多くが、生きる望みを失っていて、自分の人生や、いまの世の中を、生きるに値しない、生きていても意味がない、生きたいと思わないような場所だと捉えているということなのでしょう。
 しかし、これほどまでに日本の若者が自分の存在や命を尊いものだと思えず、こんな自分はダメだ、生きるに値しない、あるいはこの世は生きるに値しない場所だと思ってしまうようになったのはなぜでしょうか。
 私はある意味、簡単ではないかと思っています。
 1つには、日本が経済的にはもう豊かでも先進国でもないという単純な事実です。以前には「頑張ればなんとかなる」という信仰のような信念のようなものが、ある程度実感があったような気がしていました。特に太平洋戦争直後に生まれた世代の人々は、戦後の高度経済成長の裏づけもあって、「頑張ればなんとかなった」人々と言えるでしょう。
 ところがいまの若者の中で頑張ってなんとかなる人はわずかです。頑張っても正規雇用のチャンスは増えない、頑張っても給料は上がらないのに、物価は上がり、税金は増える。頑張っても年金が無いので、何歳まで働かないといけないかわからない。
 「お前何しに生まれて来たか。税と利息を払うため〜♫」
 という歌が昭和の半ばごろにありましたが、まあそういう感じ。何を頑張ろうと努力が報われる感覚が無いので、努力をするのも嫌になります。それでも「頑張れ! 努力をしろ!」と企業や学校は過去の栄光にしがみついた信念で若者に求めるので、そりゃあ生きているのも嫌になって、人生なんかやめてしまおうかなと思っても、何の不思議もないと思います。
 私は、こんな世の中で努力は報われるんじゃないかと信じて真面目な顔をして毎日を過ごしている若い人を見ていると、「この子は相当恵まれた暮らしぶりの家庭に生まれているのに違いない」と思います。そしてむしろ、「こんな世の中でまともになんかやっとれるか〜」というような顔を適当にごまかして生き延びている子どもを見たほうが、「まあこんな風になるのが逆にまともな感覚じゃないの?」いう風に思ってしまいます。

▼人を生かす言葉

 人に生きがいややりがいを持たせるものは何でしょうか?
 それは報酬や承認といったものだと思います。
 きれいごとを抜きで言いますが、何らかのご褒美がないと人間は生きていられません。何を求めることもなく、何を受けることもなく、ただ与えるだけ、という生き方を何日も何年も続けることは、はっきり言って人間にはできません。それができるというのは絵空事であり、それができた人というのは、実は他の人には分かりにくいような次元での報酬や承認を受けているので、それを心の栄養に生きてゆけるんですね。
 人間は、ただ食事をしておれば生きられるというものではありません。それは旧約聖書やイエスが「人はパンのみにて生くるにあらず」と言っていたとおりで、「神から出るひとつひとつの言葉」、すなわち愛と信頼関係が言葉をとって現れたものを共有することによって、初めて魂の栄養が満たされてゆくのが人間という生物の特質です。この愛と信頼に満ちた嘘のない言葉をたっぷりと浴びることが、人を本当に生かすのです。
 食べることはもちろん大事ですが、それと同時に愛と信に満ちた真実の言葉が、人の魂を養い、人に生きる意味と喜びを与えてくれます。そうすれば人は生きてゆけます。

▼フェイクの栄養素

 いまの世の中はフェイクに満ちています。人の魂を生かす本当の栄養となる報酬や承認ではなく、偽物の代用品ばかりが、あたかも人の生活を豊かにするかのように自己宣伝を繰り返しています。
 例えば、お金が儲からないから、ポイントやクーポンで得をしたように見せかける。あるいは、年金が支払えなくて、老後を楽に暮らせないから、長く働くことが生きがいになりますよと言って「人生100年時代」なんて言葉を作ってみる。あるいは、人々に誇りを持たせるためなのかもしれませんが、「美しい日本」といったスローガンを掲げてみたり、テレビでは「日本は素晴らしい、素晴らしい」と、エロとお笑いとスポーツで面白おかしい日本を懸命に演出しています。
 けれども、いまいち本当の意味で国民を、特に若い人に希望というものを与えることはできていないように感じます。何をどのように頑張れば、どんな未来の可能性が開けるのか、それを調べたり考えたりするチャンスも与えることもせず、ただテストのための勉強を繰り返させるだけで、そのテストも民間業者の利権が絡んでドロドロに汚れています。
 勉強しろ。部活を頑張れ。道徳を守れ。学校の教師はそう言うだけで、その努力や頑張りは何のためなのかということを考えてはくれません。これは学校の教師もつらいところはあって、そのようなことを子どもたちと一緒に考えたり、何か個性的なこと、独特なことをやろうとする良い先生は、真っ先につぶされます。そういう体制がもう染み込んでしまっているので、もう日本の教育界にはもうつける薬は無いでしょう。本当の意味で子どもを愛し、国の未来を真面目に考える人が政界には、少なくとも教育行政の世界にはいないので、たぶんもう日本人の教養は地に落ちるでしょう。
 答えを出そうする努力もしていない大人が、子どもに向かって「答えの無い問いが大切だよ」と言ってごまかしている。そんな状況に私には見えます。
 そして、子どもたちや若者は、そんな教育の当然の結果として、バタバタと生きる場所を見失って、この世から退場して行っているのです。

▼神を信じるなら、助けてもらえ

 さて、本日の聖書の箇所、詩篇22編は、イエスの受難物語の大元になった旧約聖書の箇所としてよく知られている所です。「我が神、我が神、なんぞ我を捨てたまいしか」という有名なイエスの叫びは、この詩篇22章から引用されたものです。
 この嘆きの言葉が続く詩編22章の始まりの部分で、特に惨めさが強く漂うのが、今日お読みした7節から9節です。もう一度読んでみます。
 「わたしは虫けら、とても人とはいえない。
 人間の屑、民の恥。
 わたしを見る人は皆、わたしを嘲笑い
 唇を突き出し、頭を振る。
 「主に頼んで救ってもらうがよい。
 主が愛しておられるなら、助けてくださるだろう。」
 何という情けない。「人間の屑、民の恥」。まさに何のために生きているかもわからなくなって、生きているだけ無駄、死んだ方がマシだという気持ちです。
 「主に頼んで救ってもらえ。主が愛しておられるなら、助けてくださるだろう」とは、何と卑劣な言葉でしょうか。これは神の民と言われたイスラエル民族の中でさえ、こんな言葉を浴びせられた人がいるということ自体が、読んでいて情けなくなります。しかし、神を信じる気持ちが無くなってしまっている人間の言うことというのは、どこの国でも同じです。私たち日本に住んでいる者でも、周囲の人の言うことは同じです。
 「お前、神様なんか信じてるのか。そしたらその神様に頼んで救ってもらえ。神様がお前を愛しておられるんなら、助けてくださるだろうよ」。
 まさに私たちは今、この絶望的な社会の中で、「お前たちに何ができる」「お前たちキリスト教に何ができるっていうんだ」と詰め寄られている。そんな状況だと思います。

▼あなたはOK

 そんな状況で私たちは、この世に対して、何らかの希望を示すことができるでしょうか。
 私は逆に、それは私たちにしかできないではないかと思っています。
 私たちキリスト教会は、物を作ったり売ったりする事は出来ませんし、お金を転がして増やすということもやりませんし、政治を動かしたりもしませんし、最新の科学研究を行ってテクノロジーを開発するということもできません。
 しかし私たちは、かつてイエスがしてくれたこと、そして今も日々神が私たちにしてくれていることを、ただ伝えるという事はできます。それは今や私たちにしかできないのかもしれません。それは、「あなたは大切な人だ」と思い続けること、伝え続けることです。
 それは別の言い方をすることもできるかもしれません。「あなたは生きていて良い人なのだ」、「あなたには存在する価値がある」、「私はあなたを認めている」、「私はあなたを肯定するよ」、あるいは英語で言えば「You are OK.」でしょうか。どのような言い方であれ、「私はあなたを承認する」ということを世の中の人に、しっかりと伝え続けることが私たちの使命ではないかと思います。
 そのために心理学や精神医学、カウンセリングや社会学や政治学、経済学、教育学など、さまざまな学問や福祉や医療の人たちとも協力して、「あなたの命は尊いのだ」、「あなたの存在は認められているのだ」ということを納得できるような社会を建設する、その動機を与えるのがキリスト教の役割ではないのかと思うのですが、いかがでしょうか。

▼生まれてきた意味

 それらの他の分野の専門家の人々は、「お前たちキリスト教に何ができるのだ」と笑うかもしれません。しかし、一体の今の世の中に、誰が私たちの人生を肯定し、承認し、人生は生きるに足る良いものだと教えてくれる人がいるでしょうか。
 先ほどからも申し上げております通り、今の世の中には、人間から金を吸い上げ、労働を吸い上げ、学業や道徳さえも社会を統制するための道具に成り果てています。私たち人間は、大人も子どもも、何か金銭的な利益を生み出したり、誰かの役に立つ道具にならない限り、存在する価値もないかのように見なされています。
 しかし、命とはそういうものではない。人の存在とはそういうものではありません。そこに生きているだけで全ての人間は素晴らしいし、自分の存在を承認されながら生きる権利が全ての人間にはあるのだと、私たちが言わなかったら、他の誰が言ってくれるでしょうか。
 誰かがそれを主張しないと、世の中の全ての分野の人間の活動がどんなに活発になったとしても、活動することが目的になってしまい、人間一人一人はその活動のための道具になってしまって、誰もが自分の生まれつきの価値も喜びも意義も感じられず、自死する若者は止められず、生きていても死んでいるような人間ばかりになってゆくでしょう。
 人間の活動はただ活発になれば良いというのではなく、そこで生きる人が自分の人生を肯定して生きられなければ、生まれてきた意味はありません。

▼受け継がれた意図

 そんなふうに、人間の全ての活動が無味乾燥で非人間的なものにならないために、それらの活動の動機・出発点に「愛」というものを据えなければなりません。日本の社会には「和」を重んじ、同調する者を歓迎して守り合う性質はありますが、その反面、少しでも同調から逸脱する者を徹底的に叩いて抹殺する性質もあり、一人一人の存在を尊んで肯定する「愛」は決定的に足りません。私はこれを指し示すことができるのは、ただ一人キリスト教だと最近特に思っています。
 もちろん人類の歴史を振り返れば、キリスト教は大きな失敗を犯しながら歩んできました。たくさんの戦争を巻き起こし、虐殺を行い、差別や暴力の原因を作り出してきた過去は否定しようもありません。
 しかし、それらを懺悔して、懺悔して、それでも語る価値のあるメッセージをキリスト教は受け継いでいると私は思います。
 それは、イエスという方が、命をかけて人を愛し抜くという生涯を貫いて、私たち一人一人が愛される値打ちのある存在だということを証してくれたからです。私たちの出発点はそこです。
 世の中の何も信用できなくなっても、イエスが示した愛は、信じて頼る価値があると私は思います。イエスの生涯には保身とか命乞いというものがありません。彼は自分を守るということをしませんでした。自分の命が奪われるということになっても逃げないで、弱く小さな人こそが救われるということを信じて愛することを、最期の瞬間までやめませんでした。
 そんな人がいたということは、その人の愛を信じてみてもいいんじゃないか、そんな愛を示してくれた人が歴史上1人いるなら、あるいは、そんな愛を示そうとして今まで代々のクリスチャン達が頑張ってきたのなら、その意図を信じて頼ってみてもいいんじゃないでしょうか。

▼一体他の誰が

 繰り返し言いますが、一体他の誰がこの世の中で、「あなたは生きていていいんだよ」と認めてくれるでしょうか。誰がそのような無条件の愛を意図して、経済を動かし、政治を、教育を行ってくれるでしょうか。今この末期的な世の中になってみて、今更他にどこを探して見つかるでしょうか。
 それはクリスチャンがやらなければなりません。クリスチャンはそのような自覚を持ってこの世を生きなくてはなりません。人の命を承認し、肯定するのがキリスト教の「愛」です。この愛がなくては人は生きられません。この愛のためにキリスト教会は存在しています。
 私たちにできる事は何でしょうか。あなたにできる事は何でしょうか。今こそ考えませんか。
 祈ります。





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