キリスト教会の落穂拾い


2019年12月29日(日) 

 日本キリスト教団 徳島北教会 年末礼拝 説き明かし

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聖書の朗読&お話(約18分00秒)



 レビ記19章9-10節 
(新共同訳)
 穀物を収穫するときは、畑の隅まで刈り尽くしてはならない。収穫後の落ち穂を拾い集めてはならない。ぶどうも摘み尽くしてはならない。ぶどう畑の落ちた実を拾い集めてはならない。これらは貧しい者や寄留者のために残しておかねばならない。わたしはあなたたちの神、主である。



▼落穂拾いの絵

 早いもので、もう2019年も終わりの時を迎え、本日は今年最後の主日礼拝、日曜礼拝となりました。今日は、徳島北教会の正面に掲げられている、ジャン・フランソワ・ミレーという方が描いた『落穂拾い』という絵画の話からしてみようと思います。
 教会の正面に掲げられているこの絵は、実際のミレーの作品のレプリカの陶板画(陶器の板に焼き付けられた絵)ですね。Kさんが会社でいただいてきたものというお話を伺いましたが、オリジナルは現在はフランスのパリのオルセー美術館にあるそうですね。
 1857年の作品だそうで、本日お読みしました旧約聖書のレビ記19章9から10節の聖書の言葉を下敷きにしていて、地主たちが刈り取った穀物畑に残された落ち穂を、貧しい小作農の人たちが拾い集めている様子を描いたものです。ミレーという人は、他にも『種まく人』といった作品もあって、農民画と呼ばれる絵をいくつか描きました。『種まく人』も「良い地にまかれた種は……」という新約聖書の言葉を連想させます。
 『落穂拾い』に関する聖書の言葉は、実はレビ記19章の今日の箇所だけではなく、他に同じレビ記23章22節にも「畑から穀物を刈り取るときは、その畑の隅まで刈り尽くしてはならない。収穫後の落ち穂を拾い集めてはならない。貧しい者や寄留者のために残しておきなさい。わたしはあなたたちの神、主である」と繰り返されています。
 また、申命記の24章19節から22節にかけては、「畑で穀物を刈り入れるとき、一束畑に忘れても、取りに戻ってはならない。それは寄留者、孤児、寡婦のものとしなさい……」という言葉が記されてあり、おリープやぶどうの実を摘む時にも、適当に残しておけよと告げられていて、最後にそれらの言葉は、「あなたは、エジプトの地で奴隷であったことを思い起こしなさい。わたしはそれゆえ、あなたにこのことを行うように命じるのである」と締めくくられています。
 奴隷状態だった民を解放してくれた神は、自分が奴隷だったときの貧しさや不自由さを思い出しなさいと教えるのですね。そして、今はなんとか食べることができているあなたも、自分の先祖たちが奴隷だったことを思い出し、今奴隷のような状態の人に対して、思いやりを持つことを忘れてはいかんよと教えています。
 「四角い畑を丸く刈る」とでも言いましょうか。畑を刈り取る時も、オリーブやぶどうを収穫する時も、ざっくりとやる程度にしておきなさいよ、と。旅人や寡婦、家族のいない子どもたちは、あなたが刈り尽くさなかった残りのものを拾って食べるだろうから、その分を考えて、わざとさりげなく適当な刈り方をしておきなさい、と。
 聖書の言葉は、土地を持っていて豊かな収穫を刈り取ることのできる農家に向かって語りかけていますが、ミレーは、落ち穂を拾い集めてその日その日の食事を食べるしかない、その人たちの方に注目して描いています。
 そして、そのことによって、神さまが助けたいのはこういう人たちなんだということを描き出しています。神さまはどんな人をも見捨てない。それが神さまのご意志なんだ、ということをミレーはこの絵によって証言しているのですね。
 この絵を描いた当時、ミレー自身もかなり貧しい生活を経験していたそうです。ですから、聖書が地主たちに向かって語っているのに対して、自分は落穂拾いをしている農夫の立場で描こうと思い立ったのかもしれません。

▼毒麦のたとえ

 そして、この絵を視る私は、また別の視点から考えてみたくなります。というのは、聖書の中にはやはり何箇所かで、人間のことを種や麦の穂に喩えている所があるからです。
 例えばマタイによる福音書には、「毒麦」のたとえと呼ばれているお話があります。これはよく知られたイエスの「種を蒔く人」のたとえの後に続いて記されているんですけれども、マタイの13章24節以下に、「天の国は、ある人が良い種を畑に蒔いたことに喩えられる」と言う所があるんですね。
 良い種が蒔かれている。けれども人々が眠っている間に、敵が来て毒麦の種を蒔いて行きます。なので、畑には良い麦も毒麦も一緒に生えた状態になります。ところが畑の主人は、「毒麦と一緒に良い麦も一緒に抜いてしまうかも知れないから、刈り入れの時まで両方とも育つままにしておきなさい」と言う話です。毒麦は若いうちは普通の小麦とよく似ていて区別がつきにくいのですが、育って穂が実ると見分けやすくなるそうなのですね。
 そういう譬え話でイエスは、人間の中にも色々な奴がいるけれども、神さまは皆同じように生かしてくださっているのさ(刈り取りの時は近づいているんだけどな)、ということを言っていたわけですね。
 そして、このような譬え話を使って、長い間キリスト教会では「自分たちの教会は良い麦だが、自分たちと考えの違う教会は毒麦だ」とか、「毒麦というのは教会に来ない、救われない罪人たちのことを言うのだ」とか、好き勝手なことを唱えてきました。
 そういうわけで、聖書の中には人間を種や麦に喩えるお話が書かれているので、ついつい私も畑の話や絵を観たりすると、これは何のたとえとして読めるかなぁということを考えてしまうのですね。

▼たくさんの落ち穂

 そして再び『落穂拾い』の話に戻りますが、「落ち穂」といえば、日本の多くのキリスト教会もずいぶんたくさんの麦の穂を落として行っているなあと連想してしまうのですね。穂を刈り尽くさずに残しておくどころか、ボロボロと取りこぼしているという気がします。
 キリスト教に関心があったり、イエスの示してくれている愛に私の救いが見つかるのではないかなという予感を抱えている人がいても、日本の教会は、ある規格のようなものに合った人にばかり教会にきてもらいたがるようなところがあるように、私は感じています。
 若くて、安定した収入があって、品が良くて、何より教会の奉仕がすぐできる人、そういう人を有り難がる教会が多い。その反面、教会の組織の維持や活動の継承にすぐに役立ちそうにない人は、あまり歓迎されない傾向が正直に言ってあると思われます。そして、すぐに役立つ人にはどんどん奉仕が増やされ、消耗し切ってしまうということも起きています。
 また、発達障害の人は礼拝の厳粛さを乱すから出て行って欲しいとか、LGBTの人は矯正してから教会に来て欲しいとか、本当にひどいことを言われている人がたくさんいるのですね。「伝道、伝道」と言っている割には、結構人をとことんまで傷つけて追い返すということをやっている教会はあるのです。
 もっとも、そういう人間一人一人よりも教会の体面の方が大事という人は、自分がどれだけ人を傷つけているか自分では気付いていない場合が多いので、こんなことを言っている私自身も実は大いに人を傷つけ、教会やイエスの福音から人を遠ざけている面もあるかも知れません。私自身も自分自身の中で克服しなくてはいけない面がたくさんあるでしょう。ですから、そういうことには敏感になり、自分で自分を常に監視し、検証していたいとは思います。

▼落穂拾いになりたい

 しかし、もう少し欲張りなことを言わせていただくならば、私たちの教会は、たくさんの麦の穂を取りこぼしながら行ってしまうのではなく、むしろ落ち穂のような人を拾って行けるような教会でありたいと思うのですが、いかがでしょうか。
 この世の中で傷ついている人や、見捨てられている人はたくさんいます。人に見せられない傷や話せない病などを体や心に負っている人もいます。そういう人は「イエスという人物は好きだし、尊敬もしているけれども、教会には行きにくい」とおっしゃいます。教会は敷居が高いとか、自分は罪深いと責められてしまうのではないかと恐れている人がいます。
 そして勇気を振り絞って教会に足を運んでみたならば、その傷に塩を塗られるような思いをしたり、「あなたはここに相応しくない」という暗黙のメッセージを受け取って帰ってしまう。そんなに残念なことはありません。
 しかしその残念なことが、今の日本の教会の、すべてとは言いませんが、多くの教会で起こっています。伝統を守りたい、教義を守りたい、厳粛さを守りたい、今まで続いてきた活動を守りたい……様々な「守りたいもの」のために、教会にとって都合の良い人を選別してしまう体質が知らず知らずのうちに身についてしまっている教会があるのです。
 でも、私たちはそのような教会になりたくありません。
 そして、「もし教会に居場所が無くなってしまったように感じたのなら、うちの教会においでよ」と言いたいのです。世の中の落穂、教会にも居場所が無くなった落穂、そういう人に、「もしよろしければどうぞいらっしゃい」と言えるような教会を目指したいのです。

▼人のためにある教会に

 イエスは「安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない」(マルコ2.27他)という言葉を発しました。安息日というのは、本来人間に休息を与え、生きるエネルギーを回復するために定められたものでした。しかし、次第に安息日に守るべき決まり事の方が大事になってしまい、そのためには人が死んでも仕方がないという状況になってしまっていたときに、イエスは「安息日が人のためにあるのであって、人が安息日のためにあるのではない」と言ったのですね。
 この言葉の根本に立ち返り、私たちも「人のための教会」でありたい。教会のための人が必要とか、あるいは、「教会のためにはこの人はいらない」などと切り捨てることは絶対にしたくありません。
 キリスト教会が落ち穂を拾わずにいるなら、私たちが拾いましょう。そのような気持ちでいるのですが、皆さんはいかがお感じになりますでしょうか。続いて分かち合いが行われますが、皆さんのお考えをお聞かせ頂ければ幸いです。
 本日の説き明かしは以上といたします。






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