三位一体のシンプルマインド


2020年2月2日(日) 

 日本キリスト教団 徳島北教会 主日礼拝 説き明かし

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聖書の朗読&お話(約34分)



 コリントの信徒への手紙(二)13章13節 
(新共同訳)
主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなたがた一同と共にあるように。 



▼三位一体は三位一体


 おはようございます。今日は、神様の「三位一体」というのはどういう事なのかについて、お話をしてみたいと思います。
 「三位一体」というのは、「父なる神」「子なる神(すなわちイエス・キリスト)」そして「聖霊なる神」という3つが、3つでありながら、実は1つなんだという教理ですね。そして、「3つで1人」、「1人で3つなのだ」というのがよくわからないと言われる、困った教理でもあります。
 私が洗礼を受けたのは、高校2年生の時ですけれども、教理的なことなどほとんどわからないうちに洗礼を受けたんですね。今でも、教理などわからないまま洗礼を受けても何も問題はないと思っていますけれども、とにかく少なくとも三位一体というのは全然わかりませんでした。
 関西学院大学で聖歌隊という合唱のクラブに入って、そのクラブにはたくさんクリスチャンの先輩がいたので、その1人に「先輩、三位一体ってどういう事なんですか?」と質問した事がありますが、その時の答が、「うーむ、三位一体はね、三位一体なんだよ」という微笑み返しだったんですね。「はあ……」と私は言ったまま、なんだか腹が立ってきまして、「わかりました」と言ってその場を離れました。
 今思えば、あの時の訳のわからない気持ちが原動力になって、「これは自分で調べて、自分で考えるしかない」と踏ん切りがつき、結局、神学部に入って、キリスト教を専門とする仕事に進み、ということになるきっかけになったのではないかなと思います。

▼魅力的だけど難解な仮説

 今日お読みしましたコリントの信徒への手紙(二)の13章13節は、「主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなたがた一同と共にあるように」という、皆さんよくご存知の言葉です。
 毎回の礼拝の終わりで牧師が唱える祝祷の言葉は、ここから引用されていますが、ここを見ると、なるほど、「イエス・キリスト」と「神」と「聖霊」という3つが三位一体の神様だという事がここでも示されているのだな、と人は思いがちです。
 ところが、実は神様が「父なる神」と「子なるキリスト」と「聖霊」という3つの姿を持っているという事を書いているように思えるのは、ここの箇所くらいなもので、聖書のどこを読んでも三位一体のことを他に書いているところはないんですね。
 つまり、今日お読みしたところで、あたかも三位一体っぽい事を書いているように見えるのは、たまたまここではそう書かれているというだけで、このコリントの信徒への手紙を書いたパウロさんも、別に「父」と「子」と「聖霊」の3つが神だという確固たる教理が頭にあって書いたわけでもないわけです。
 そもそも「神は父であり、子であり、聖霊である」という事を最初に論じ始めたのはテルトゥリアヌスという古代の神学者ですが、この人はこの手紙のパウロさんよりも150年近く後の人です。聖書が書かれてだいぶしてから、神という存在を3つに整理して把握しようというアイデアというか仮説が出てきたわけです。
 ところがその後200年以上にわたって、この三位一体論というのが論争に論争を呼び、細かい部分では様々な解釈ができて、いくつもの分派ができていったのですけれども、一応、325年の1回目のニケアでの公会議(全キリスト教会の代表の会議ですね)から、381年の1回目のコンスタンティノープルでの公会議にかけて、つまり大体4世紀いっぱいかけて、「神の実体は1つだが、位格は3つとして存在している」という定まった言い方が一応確立しました。その後も論争は続いていますけれども、一応これを信じるかどうかで、正統と異端の区別もつける、と多数決で決めたんですね。
 今でもこの教理は異端を識別する標識ともされていて、例えば統一教会やエホバの証人やモルモン教は三位一体を否定するので、「だから彼らは異端なのだ」というふうに簡単にまとめられる事もあります。
 ただ実際には、正統と呼ばれている主流派のキリスト教会の中でも、三位一体論に疑問を感じているクリスチャンはたくさんいます。わからないから保留にしている人も多いです。特に、下手に神学部や神学校などに入って勉強などしてしまうと、テルトゥリアヌス以来、いろんな人がいろんな事を言って三位一体を説明しようと試みてきているので、余計にわけがわからなくなってしまいます。
 なので、三位一体というのは、シンプルだけど難解だ、わかりにくいというところで考えるのをやめてしまう人が多いわけです。

▼「3」

 しかし、思えばこの三位一体というアイデアは、確かにわかりにくいけれども、とてもシンプルなところが魅力的です。神様をシンプルにわかりやすく人に伝えたいという思いは多くのクリスチャンが持っています。だからこそ、これまで多くの人たちがこれに取り組んできました。
 でも、シンプルにしすぎて「1つで3つ。3つで1つ」と言ってしまうと、普通に考えたら1つのものが3つであるというのは、言葉上、論理的におかしいので、そのままでわかるはずがないですよね。
 それを更に、「父は神であり、神は父である。子は神であり、神は子である。聖霊は神であり、神は聖霊である。しかし、父は子ではなく、子は聖霊ではなく、聖霊は父ではない」という風に言われると、余計にわけがわからなくなるわけです。
 そして更には、「不合理ゆえに我信ず」という諺まで(これもさっきのテルトゥリアヌスが言ったという事にしている人がいますが、実際には彼はそういう言い方をしておりません)引き合いに出して、「わかるから信じるのではない。わからないから信じるのだ」と言う人まで出てきて、余計に「困ったな」ということになるんですね。
 でも、神という存在を3つの要素で説明しようというアイデア自体は、やっぱりとても素敵で魅力的なんですね。これは理由はわかりませんけれども、人間というのは、「3」という数字が好きなんですね。人に何かを伝えるときは、3つのポイントに絞って話しなさいとよく言われますよね。それがなぜかはわかりませんが、人間の脳は「3」という数字が好きみたいです。
 だから、やっぱり三位一体というアイデアそのものは魅力的で、ついつい神学者はそれをうまく説明しようと何度も何度も試みてしまうのですね。

▼お面

 私は三位一体を自分なりに理解するのに、「ペルソナ」というラテン語がキーワードだなと思っています。
 先ほど私は、「神の実体は1つだが、位格は3つとして存在している」と、ちょっと訳のわからない事を言いました。特に「位格は3つ」という「位格」というのがわからない。この位格というのをラテン語で言うと「ペルソナ」です。このペルソナが語源となった英語が「person」です。「person」というのは一般に「人格」と日本語に訳される事が多いですが、元々の「ペルソナ」は「お面」という意味です。
 そう考えると割とわかりやすいと思いませんか? 「神様は3つのお面をかぶって人の前に現れる」というわけです。
 「実体」というのはラテン語で「スブスタンツィア」と言います。英語では「substance」です。これは実体とも訳されますし、本質とか内容とか正体と言ってもいいと思います。だから、神様の正体は1つなんだという事です。
 でも、その1つの正体というのは、人間では認識できないんですね。神様の正体はわからないという事です。
 その代わり神様は3種類のお面をかぶって出てきます。それが1つは「父」としてお面、次が「キリスト(救い主)」と呼ばれるイエスとしてのお面、そして3つ目が「聖なる(つまり神の清らかな霊)」としてのお面です。そういうお面をかぶって、神は私たちの前に姿を表している、これなら皆さんも前から知っていたでしょう? という理屈なんですよね。
 それでは次に、この3つのお面、3つのペルソナのそれぞれについて、21世期のクリスチャンらしく批判的に検証していきましょう。

▼パパなる神

 まず、「神は父である」という仮説なりアイデアですが、このアイデアはもう使い古され過ぎていて、これ以上使うのはやめた方がいいような考え方です。
 「神は父である」というのは、単にイエスが神のことを「アッバ(パパ:Dad)」という風に読んでいたからです。イエスも2000年前の古代のユダヤ人で、神は男性だということを疑問に思わなかったのでしょうけれど、私たちは現代に生きていて、イエスのその思い込みでさえも疑っても良いのですね。
 神は果たして男性でしょうか? 女性かもしれませんし、あるいは、そんな人間の性と同じような分類を神に当てはめる事自体が的外れなことかもしれません。
 古代のユダヤ人は、神が男性である事を疑ったりはしなかったでしょう。あの人たちにとっては、一家の主は男で、一族の長も男で、何をするにしても男の方が上で、女というのは人間という種族のちょっと欠陥品であるというような捉え方さえしていた節があるのですね(今のユダヤ人がそうだという意味ではありませんよ)。
 ですから、他の神々をあえて削除して、自分たちは一神教で行くんだと決めた時に、その神が女であるということは考えられなかったでしょう。そのユダヤ人でさえ、神を自分の「パパ」と呼ぶことまでは畏れ多くてやりませんでした。しかし、イエスはその神を「パパ」と呼んだんですね。それだけでも革命でした。
 詳しい話はまた別の機会にしますけれども、イエスの時代のユダヤ教の神というのは、律法を破ったり、逆らったりすると、生きている間に恐ろしい罰を与えたり、呪ったり、死んだ後も地獄に落として永遠の火で焼いたり、とにかく恐ろしいDVオヤジみたいな神のイメージでした。それを、「すべての罪を赦してくれる、慈愛に満ちた、尊敬できる、優しいパパ」というイメージに切り替えてしまったのがイエスという人です。それだけでも革命です。革命的だったからこそ、イエスは殺されたんですね。

▼もう父とは呼ばない

 けれども、今という時代は、人間の性に関する研究が進んで、必ずしも人間のセクシュアリティやジェンダーと言ったものが、男性と女性という2つにきっちりと分離できるものではないという事がわかってきました。
 また、今までのキリスト教の「父なる神」というイメージ作りが、せっかくイエスが提唱した「優しいパパ」としての神さまイメージを台無しにして、結局は人間社会のマッチョな男性中心主義や父権主義を擁護するに終わってしまっている事も、先進的な研究者の手によって明らかにされてきました。
 この世の中で父親に虐待され、暴力を振るわれ、家庭を壊されて、傷つけられて育った人に中には、「神は父である」という一言を聞くだけでキリスト教に対して虫唾が走ると言う人もいます。
 ですから私は、もういっその事、神を「父」と呼ぶのをやめてしまってもいいのではないかなと思います。逆に「父」であることにこだわる理由の方が乏しくなってきているのではないでしょうか。
 イエスは神のことを「パパ」と呼びました。それだけでも格段に、革命的に神を思い描くためのイメージ作りは進歩しました。けれども、もう一歩進めて、もう父親のとしての神のイメージは拭い去ってもいいのではないでしょうか。
 神は「父」でもあれば「母」でもある。あるいはそれ以外の存在でもある。神さまは要するに神さまなのだと、それで良いのではないでしょうか。

▼神としか言いようのない人

 次に「子」なる神:イエス・キリストです。
 聖書学の研究によれば、イエスという人が自分のことを「神の子」だとか「救い主」だと思っていた可能性は低いようです。少なくとも、彼の活動の最初の方では、自分とは違う他の誰かが自分の後にやってきて、神の国をもたらすと考えていたようで、後になって、十字架にかけられて殺される直前あたりから、ひょっとしたら自分が「選ばれた者」なのかもしれないと思うようになっていた可能性はありますが、それにしても、ヨハネによる福音書に書いているように、天地創造の始まりから神と一緒にいて、一部始終を見ていて、そして今から2000年前に天から降りてきたということは、科学的には「無い」と言えそうです。
 けれども、私たちはイエスという人物はやはり特別な存在だと感じた最初の弟子たちや、生前のイエスには会ったことはないけれども、「十字架のイエスを私は見たんだ」と言うパウロの証言などの感覚を信頼しています。
 そして、私たちもイエスを特別な存在として、聖餐式のたびにイエスが復活してここにいてくださるということをイメージする共同体として、教会という組織を運営してきて、その伝統をこれからも伝えていこうとしています。
 聖餐式で想い起こすのは、他の誰でもいいというわけではありません。それはやはり、イエスという人でなくてはいけません。別に他の人を思い出す食事会をやるのは、いくらでもやっていいのですが、聖餐式というのはイエスを思い出す食事で、イエスの記憶をいつまでも伝達するために私たちは聖餐式を行い、そういう特別な食事を行う集いが「教会」と呼ばれてきているのですね。
 その「イエスは特別な存在だ」という最初の弟子たち、使徒たちの感覚・感性を信頼して、それじゃあ我々もそんなイエスを蘇らせる食事を続けてゆこうじゃないかと賛同するメンバーの集まりが教会の原点なわけです。
 「イエスは特別な存在だ」というのは、感性の問題ですので、それ以上に何とも説明のしようがないと言えばないですが、あえて噛み砕けば、「イエスの言葉(教え)と行動(癒しや食事や弱い者、低い者をどこまでも愛してゆこうとする愛の行い)において、人々は神を感じた」ということではないでしょうか。
 イエスは人間です。それは間違い無いのです。しかし、イエスに触れた時、人は「私は神に愛されているんだな」ということを確信したのでしょう。
 三位一体の教理が確定する前後、人々は色々な説明を考えました。例えば「イエスは実は人間ではなく神の化身なのだ」とか、「イエスの肉体に神の霊が宿ったのだ」とか、あるいは「イエスは人間のように見えただけで、実は神そのものなのだ」とか。そういう論議はいくらやってもキリがありません。古代人の言葉感覚で言っていることですから、尚更わけがわかりません。
 私は今を生きている自分流の表現で言えば、「神は自分を愛してくれているんだ」ということを、イエスに出会った人は、感じる事ができた、その感情の体験が最初にあったんだろうと思います。神の愛がこの人の言葉に、行いに、生涯に、そのまま結実している。この人は只者ではない。この人こそが本物だ。そう感じたことから、「神としか言いようがない人だ」という結論に至っているのだろうと思います。
 更に言い換えれば、神のわざはイエスにおいて結実している。神の想いはイエスという人間に身を結んでいる。神はイエスという人間の行いにおいて、しっかりと自分自身の意図を表したんだ。そんな風にしか私の今の表現力では言えません。

▼ルーアッハとプネウマ

 長くなりました。最後に聖霊なる神です。
 「霊」というものが、実は古代人の想像力に満ちた表現であるということは、何度かここでもお話しした事があります。そして、それを旧約聖書を書いたユダヤ人の先祖たちは「ルーアッハ」というヘブライ語で言い表しましたし、新約聖書を書いた人たちは「プネウマ」というギリシア語で言い表しました。それらは、確かに「霊」という意味でもありますけれども、同時に「風」とか「息」という意味でもありました。
 つまり、現代人は言葉上「霊」と「風」と「息」は別のもののように認識しますけれども、古代人は、木や草の葉っぱを動かしたり、雲を流したり、時には人の心を洗い流したり、押し出したりする力が「風」であり、動物の鼻や口を出入りするのも命の「風」であり、その「風」が怒りや悲しみや愛や癒しなどの感情や意志の働きそのものだと感じていたのです。
 そして特にその中でも、人間を呪ったり、感染症やできものなどを引き起こしたり、人を精神的に落ち込ませる、悪意のある「風」を「悪い風(悪霊)」とか「汚れた風(汚れた霊)」と呼んだり、逆に神さまの清らかな、人に力を与える力、そして複数の人にポジティブな感化を与える力、そういう心の影響については「聖なる霊(聖霊)」と呼んだわけです。
 私たち現代人は、科学や言語が発展して、世の中の色々なものを細かく分けて把握するようになったので、逆にそういう人や神の霊の働きを風のように感じる感性を失ってしまいました。
 風の動き。それは、80%が窒素で10%が酸素で、後はいろいろな種類のガスが混じった気体が、密度の濃い方から薄い方へ流れてゆく運動で、その圧力によって葉っぱが動いたり、私たちの皮膚の感覚神経もその風圧を感じる事ができる……と、そんな風に科学は解説します。それはそれで間違ってはいません。
 また、ある人が発した言葉や、行いによって感化された人たちが、最初に始めた人と同じ道をついてゆくという、人間同士の感化という心の影響の事も、それは人間の脳神経細胞のシナプスが互いに刺激を伝え合い、快い気分などを発生させて、この行動を起こし続けていこうという動機を与えているのだとか、なんとでも説明がつく世の中になってきました。
 けれども、たとえそうであったとしても、私たちが、風に吹かれた時に感じる感覚、人の言葉を心から受け止めた時、また人の行動に感銘を与えられた時に、私たち自身の心の中に生じる感情や感動を、ありのままに感じて、「ああ、これは『霊』の力が私に働いているのだな」というイマジネーションで捉えるということを、今一度古代人に倣ってやってみていいのではないかと思うのです。
 実験で確認できる物理的な現象だけでなく、私たち自身の感性に素直に生きてみてはどうかなと。私たち人間の間には、目に見えない力が互いに働きあっていて、意味のある偶然の一致なども起こしながら、影響を与え合っている。
 それは人間同士でそうであるように、神の霊もそうやって私たちの心に今も影響を与えてきているのではないかな、と思い浮かべてみる生き方。それが聖霊というものの捉え方です。

▼イメージするためのアイデア

 というわけで、今日はずいぶん長い話になってしまいましたけれども、三位一体論について、私なりの解説を試みてみました。
 わかりやすかったですか? それとも余計にわからなくなりましたか?
 まとめますと、神にはお面が3つあって、その3つのお面を通して人間は神を知る事ができます。
 第1のお面「神」は、私たちには到底把握できない超越した存在があるのだということをイメージすることによって知る事ができます。
 第2のお面「イエス」は、神の想いはイエスという1人の人間に身を結んだのだという最初の人たちの証言を信頼することによって知る事ができます。
 第3のお面「聖霊」は、私たちが今生きているこの人生の中で、お互いの間に流れる心の動きというものがある。その中に神の動きも混じっているのだということをイメージすることで知る事ができます。
 それらは全部、自分の想像力にかかっています。その想像力を活用してイメージを描く手助けをしているのが説き明かしであり、描かれたイメージを維持して伝えてゆくのが教会です。
 一神教の良さはそのシンプルさです。神の働きかけというのは、個々人の人生体験によって、細かく言えばものすごく多様なものでしょう。でも、それをできるだけコンパクトに、シンプルな形にまとめて把握しようとするのが、三位一体論という仮説・アイデアなのです。
 「神がいて、イエスがいて、聖霊が働いている」、そのことが、皆さんが神の働きを思い描く助けになれば幸いです。
 今日の説き明かしは以上とさせていただきます。






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