神さまがしたことじゃない

(贖罪論のちょっとした修正のご提案)


2020年3月8日(日) 

 日本キリスト教団 徳島北教会 主日礼拝 説き明かし

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聖書の朗読&お話(約34分)



 イザヤ書53章1-5節 
(協会共同訳)
 私たちが聞いたことを、誰が信じただろうか。
 主の腕は、誰に示されただろうか。
 この人は主の前で若枝のように
 乾いた地から出た根のように育った。
 彼には見るべき麗しさも輝きもなく
 望ましい容姿もない。
 彼は軽蔑され、人々に見捨てられ
 痛みの人で、病を知っていた。
 人々から顔を背けられるほど軽蔑され
 私たちも彼を尊ばなかった。
 彼が担ったのは私たちの病
 彼が負ったのは私たちの痛みであった。
 しかし、私たちは思っていた。
 彼は病に冒され、神に打たれて
 苦しめられたのだと。
 彼は私たちの背きのために刺し貫かれ
 私たちの過ちのために打ち砕かれた。
 彼が受けた懲らしめによって
 私たちに平安が与えられ
 彼が受けた打ち傷によって私たちは癒やされた。
。 



▼レントに入りました

 受難節(別名レント)に入りました。
 先月の26日(水)が「灰の水曜日」と呼ばれる日で、その日には教会によっては灰でおでこに十字架を描いて、悔い改めの季節を始める儀礼が行われます。そして、来月の4月12日(日)のイースターまで、自己反省の時、あるいは何かの課題に挑戦し、自分の弱さを克服する時とする人もいます。
 それは今の時代においては、強制とか義務とかではなく、そうしたいと思う人がすれば良いようなものではありますが、1年に1度、一ヶ月半くらいの時期、自分を振り返り、反省する時があっても体や心の健康には良さそうなものではあります。
 私自身は今まで、レントだからといって特別なことはしては来なかったのですが、今年はイースターまでお酒を飲むのは控えようかなと思っています。主に健康上の理由ですけれども、せっかくクリスチャンなのですから、「レントですから」と言って何かを控えるということもやってみようかなという素直な気持ちにやっとなってきたところです。
 かと言って、絶対に飲まないんだという固い態度を維持するというわけでもないんですけどね。先日の教え子の結婚披露宴ではたらふく飲みました。
 それにイースターは春の祭典、春の訪れをお祝いするお祭りでもありますから、それまでちょっと控えめにしていたお酒をその時に思い切り飲むのも楽しいだろうなあと。我慢していた分だけ美味しいのではないかなと楽しみにしている気持ちもあります。
 いずれにせよ、レントというのは、イエスが十字架につけられ、殺されるに至るまで、苦しみを受けられた、その苦しみが何のため、誰のためであったのかに思いを馳せつつ過ごすというのが、その由来ですから、そこだけは外さずに意識して、その事を忘れないために何かをする、という程度で緩やかに日々を過ごすことができたらな、と思います。
 新型コロナウイルスの感染を恐れて、世の中が暗く、重苦しい自粛ムードに陥りがちな時であり、レントでもありということではありますが、殊更に陰気になるのではなく、あくまでイースターを楽しく迎えるために、今の時期を乗り越え、生き切るという態度で進みたいと思います。

▼贖罪論に対する疑問

 さて、イエスの受けた苦しみを思い起こすと言いますが、イエスが何のため、誰のために苦しみを受け、死んだのか。それを説明する神学的な理屈のことを「贖罪論(しょくざいろん)」と言います。「イエスは私たちの罪を贖って(あがなって)くださった」という考え方です。
 「贖う」というのは、「購う」(購入の「購」)という漢字で書くこともでき、犯罪者を買い戻す。つまり保釈金を払って犯罪者を釈放してもらうという意味の言葉でもあります。
 そこで、「贖罪論」に従って考えれば、私たち人間があまりに罪深いので、イエス自身が保釈金になって、その対価を自分の命で払い、私たちは神さまの罰から逃れる事ができた……イエスは私たちが受けるべき罰を身代わりに受けることによって、私たちを助けてくださったのだ……という教理だと一般に思われています。
 ところが、この教理にはいくつか問題点もあるという事が、最近になって指摘されるようになりました。
 まず、神さまは、人間の罪を贖うために、1人の人間を残酷な方法で殺すという身代わりを本当に必要とされるような方なんだろうか? という疑問です。みんなが赦されるために、誰かの命を差し出せと。それは今の言葉で言うとスケープ・ゴートと言いますが、そういう事を要求するような神を信じているって、本当に正しい事なのか? 良い事なのか?
 しかも、イエスは神の子だと言われていますが、果たして神さまは自分の愛する子を殺すことで、自分の怒りをなだめるというような、いわば現代の言葉で言うDVや虐待死のような事を望んでいたのだろうか? それは実はあの時代の信者たちによる大きな誤解だったのではないだろうか? 今、私たちはそれから2000年近くの時を経て、この解釈をやり直す必要があるのではないだろうか?
 確かに、イエスが死ぬ事で、人間に罰が与えられることは無くなった。もう2度とイエスのような犠牲者を出すことは出さないようにしよう、という理屈もわかるのですが、それにしても、もっと根本まで問題を掘り下げて、そもそも神さまが最初からスケープ・ゴートなんて必要としていたとか、あるいは神さまが我が子を手にかける事を必要としていたとか、そういう発想というか信仰自体が、今見直されるべきなんじゃないだろうかという話なんです。
 そもそも神さまがそれを必要としていたという発想を未だ克服してないから、私たちも自分たちの生活の中で、スケープ・ゴートを作るのは悪い事だとか、DVや虐待はやっちゃいけないんだという事が徹底できないんじゃないか。どこかでそういうものが人間社会には必要だと思って許容しているんじゃないか。だって、神さまがスケープ・ゴートを血祭りにあげたり、我が子を手にかけて問題を解決するという方法をとってしまっているんだから。
 でも、神さまって本当にそんな事を望んでいたの? そういう疑問が今の神学の界隈では話題になってきているのですね。

▼イザヤ書53章の手がかり

 今日の聖書の箇所、イザヤ書53章は、イエスが十字架で亡くなった後、残された弟子たちがイエスの死の謎を解こうとして、その解釈に用いた箇所としてよく知られているところです。
 あの、愛に満ちた、神の存在そのものをそばにいれば感じることのできたような素晴らしい人物であった師匠であるイエスが、なぜこんなにあっけなく逮捕され、残酷極まりない方法で殺されてしまったのか。なぜ神さまはイエスを助けようとされなかったのか。弟子たちはもうわけが分からなくなってしまっていたと思いますね。
 そこで、必死になって彼らは神さまの意図を探ろうとします。で、神の意図をどうやって知ろうとするかというと、それはもう預言者として神の言葉を直接感じ取る事ができる才能を持っている人以外にとっては、それは聖書だということになります。凡人にとっては神の意図を知るには、聖書に書かれている事を読む以外にない、という事です。ですから彼らは必死になって聖書を調べたわけです。
 そしてその結果、彼らは、いくつかの手がかりを得た。その一つが今回のイザヤ書53章だったというわけです。この記事は彼らの時代より500年以上も昔の人たちが書いたものですが、その記事は後のイエスのことを予言しているのだと彼らは解釈したんですね。
 もう一度、今日の聖書の箇所を読んでみましょうか。

 「わたしたちの聞いたことを、誰が信じえようか。
 主は御腕の力を誰に示されたことがあろうか。
 乾いた地に埋もれた根から生え出た若枝のように
 この人は主の前に育った。
 見るべき面影はなく
 輝かしい風格も、好ましい容姿もない。
 彼は軽蔑され、人々に見捨てられ
 多くの痛みを負い、病を知っている。
 彼はわたしたちに顔を隠し
 わたしたちは彼を軽蔑し、無視していた。
 彼が担ったのはわたしたちの病
 彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに
 わたしたちは思っていた
 神の手にかかり、打たれたから
 彼は苦しんでいるのだ、と。
 彼が刺し貫かれたのは
 わたしたちの背きのためであり
 彼が打ち砕かれたのは
 わたしたちの咎のためであった。
 彼の受けた懲らしめによって、わたしたちに平和が与えられ
 彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた」。(イザヤ書53章2-5節)

 
 この記事を発見してイエスの弟子たちは、「これはまさにイエスのことを予言しているじゃないか。イエスが苦しみを受けたのは、ここに予言された事が成就したのだ!」と思って驚き、全てが神のご意志通りに実現したのだと思って、かえって喜んだのですね。どん底の悲しみには、実は深い神の意図が隠されていたのだと知って、悲しみが喜びにかえられました。これがキリスト教の始まりのきっかけになりました。

▼人身供儀に対する異論

 現在のリベラルな聖書解釈では、このイザヤ書53章は、実際に預言者イザヤの時代、つまりイエスよりも500年以上前のイスラエルのどこかで、実際に起こったスケープ・ゴートの処刑の事件を描いているのではないかとされています。
 人類は歴史上、様々なスケープ・ゴートを生み出して、見せしめとして吊し上げて晒し者にしたり、全員で暴力を加えて、社会の中にたまった鬱憤を吐き出させたり、神をなだめるための祈願を捧げたりしてきました。
 心理学的には、人間の社会集団は、スケープ・ゴートを必要とするようです。人間が複数集まって生活をしていますと、必ず葛藤や軋轢などのストレスが蓄積してきます。
 それを晴らすために、祭というものが必要とされ、激しい暴力的な祭儀によって、人々の心の中に蓄積した暴力性を発散したり、残酷な儀式によって神々に生贄を捧げ、神々の怒りを宥めよう、神々の欲求を満たそうとする。そのような宗教行為は、近代以前には世界中の大抵の民族には見られるものでした。
 その中で、イスラエル人というのは、最初に「それは人間の命を軽んじることではないか?」「生贄にするのは人間でなくても良いのではないか?」と異議を申し立てた宗教ではないか? と私は思っています。
 と言いますのも、旧約聖書にはアブラハムの物語があり、アブラハムが息子イサクを伴って山に行き、イサクの喉をかき切って神に生贄を捧げようとしたところ、神がそれを寸前で止めた、という物語があります(創世記22章1-19節)。
 これはよく「アブラハムは自分の息子の命を捧げようとするほど信仰が強かった」と言って、信仰深さの見本みたいに引用する人がこれまで多かったのですが、実はそういうことではなく、これは「生贄として人間の命を捧げるのはやめよ」というメッセージが込められた物語であろうと解釈されるようになってきているのですね。
 アブラハムの時代から、イスラエル人は「生贄として人間を捧げるのではなく、他の動物の命を捧げる。人の命を生贄として殺してはならない」という発想に至り、その後は人間ではなく、ヤギや羊や鳩などを生贄として神に捧げるようになったんですね。
 そこで、人間を生贄にすることは無くなった。そういう意味では人命を大切にするという方向に一歩進んだと言えないこともありません。ただ、人間の罪を贖うために、誰かが代わりに罰を受けねばならないという考えは逆に強化されました。この発想を「代罰主義」と言います。「代わりに罰を受ける」から「代罰」ですね。
 それから「スケープ・ゴート」という言葉も、ここから来ています。「スケープ・ゴート」というのは「生贄の山羊」という意味ですね。

▼人がやっていることに過ぎない

 イザヤ書53章は、そのスケープ・ゴートが実際に人間に行われてしまった残酷な儀式の様子を記録していると考えられます。
 「見るべき面影もなく、輝かしい風格もなく、好ましい容姿もなく、軽蔑され、人々に見捨てられ、多くの痛みを負い、病を知っている」。そんな弱く小さな人間を生贄として刺し貫き(5節)、そのために「彼の受けた懲らしめによって、私たちに平和が与えられた。彼の受けた傷によって、私たちが癒された」と書いてあります。
 このイザヤ53章を書いた人は、生贄の儀式を冷静に分析しながら観察していると思われます。この社会は誰かをスケープ・ゴートにしないと運営できない。その悲しい現実を見つめつつ、「彼が死んでくれたおかげで、私たちが平和を取り戻し、彼が傷つくことで、私たちが癒されるのだ」と感謝の念で見ているのでしょう。
 しかし、ここで一番大切なことは4節の分析ですね。
 4節でこの人はこう書いています。
 「彼が担ったのはわたしたちの病、彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに、わたしたちは思っていた。神の手にかかり、打たれたから、彼は苦しんでいるのだ、と」(イザヤ53.4)。
 つまり、スケープ・ゴートになった人は、神の手によって打たれ、苦しんでいるわけではない、と言っているんですね。そういう風に私たちは思うけれども、そうではない、それは人間がやっている儀式に過ぎないんだ、という分析がこの人にはできているわけです。
 神様が人に罰を求めているわけではない、人が癒されるために、また人の心がすっきりして平和になるように、人間がそういう儀式を必要としているだけなんだという事実を、この人は冷めた目で見抜いています。
 そういう細かいところを、「贖罪論」という教義は無視しています。おそらくイエスの味わった苦しみと死と似たものを、このイザヤ53章に発見してしまったので、有頂天のあまり細かいところを敢えて無視してしまったのではないかと思います。
 でも、元々のイザヤ書の著者は、「それは神さまがしたことじゃない」と言っています。神さまの意図は、身代わりの生贄を求めていることではないんです。それを必要としているのは人間の側です。
 生贄を血祭りにあげれば、みんなの気が済むという罪深い風習を、多くの人間が残念ながら当たり前だと思っているがために、その風習をなくすことができない。そしてイエスもそのような人間社会の鬱憤のために、犠牲となってしまった。それは人間がやってしまったことであり、神さまが望んでいたことではない、と私は考えています。

▼それは罰ではない

 残念ながら、キリスト教がこの「代罰主義」を掲げているせいで、逆に「代罰」を受けるスケープ・ゴートが社会の維持のために必要だという風に多くの人に思わせてしまっているという皮肉な結果になっています。
 イエスが人々の身代わりとして苦しみを受け、死んでしまったのは、人間の犯罪的な代罰主義の結果なのに。イエスは犠牲者であり、被害者なのに、「あれは私たち人間を癒し、救うために、人間の代わりに神の罰を受けてくださったのだ」という教理を作り出して、「神は人間に罰を与える」、「人間は神の罰を受けても当たり前」という考え方を逆に強化してしまったのですね。
 この弊害として、私たちは今でも心のどこかでスケープ・ゴートが生まれてしまうことは仕方ないと諦め、もし本当にどこかでスケープ・ゴートとして虐められたり、排除されたり、殺されたりする被害者が出た場合でも、時折「あの人はイエスのように、私たちの身代わりになってくれた」と、それを崇めたりしてしまう。そのことで、またスケープ・ゴートを作り出す社会の構造を正当化し、温存してしまうのです。
 人が自分の代わりに苦しんでくれることで癒される。
 人が自分の身代わりとして死んでくれることで救われる。
 そういうことは確かにあることです。イエスはそのために、逃げないで、敢えて苦しみを受けて立とうとしてくださったのでしょう。私たちはイエスが私たちの代わりに苦しんでくださることで、私たち自身の苦しみでカチンカチンにこわばってしまった魂が、溶けてくるのを感じることができるのです。
 しかし、その苦しみは、神の「罰」ではありません。私たちの人生の苦しみは神の罰ではありませんし、イエスが苦しんだのも神の罰を身代わりに受けたわけではないのです。
 乗り越えなくてはいけないのは、未だ残るスケープ・ゴートという人間の残酷な風習です。イエスに苦しみを与え、死なせたのは人間側の問題です。私たちは信仰によってこれを正当化するのではなく、信仰によって克服してゆきたい。二度とイエスのような犠牲者を出さないようにしよう。そのように思うのですが、皆さんはいかがでしょうか。






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