生まれてこなければよかった 2020年3月15日(日) 日本キリスト教団 徳島北教会 主日礼拝 説き明かし |
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マルコによる福音書14章18-21節 (新共同訳) ![]() |
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▼生まれてこなければよかった レント(受難節)に入りましたので、礼拝で読む聖書の箇所も、イエスが十字架での死に向かって追い込まれてゆく重苦しい場面になることが多くなります。 今日お読みいただいたのも、イエスが逮捕される夜に弟子たちととった、彼の地上での人生最後の夕食、キリスト教会では「主の晩餐」と呼ばれ、一般社会では「最後の晩餐」とよく呼ばれている食事での一場面です。 聖書では、今日読んだところのすぐ後に、いわゆる「聖餐式」の制定の言葉として式文に引用されている箇所が出てくる。そのような場面で、イエスが裏切り者の存在を一同に知らせるところを皆さんにお読みいただきました。 イエスの発した言葉の中には謎めいた意味不明のもの、と言うと語弊が生じますが、言い換えると「解釈に困る」言葉がいくつかあります。その中でも今日の聖書の箇所に収められたイエスの言葉は、非常に難解なものの1つではないだろうかと思います。 それは神学的に解釈が難しいというよりも、「あのイエスが、こんなことを言うのか」、「イエス様、あなたはどういうつもりでこんなことを言ったのですか?」と問いたくなるようなセリフです。 イエスは「はっきり言っておくが、あなたがたのうちの一人で、わたしと一緒に食事をしている者が、わたしを裏切ろうとしている」(18節)と言います。すると、弟子たちは心を痛めて、「私じゃないですよね?」とイエスに確認する。するとイエスは「わたしと一緒に鉢に食べ物を浸している者がそれだ。人の子は聖書に書いてあるとおりに、去って行く。だが、人の子を裏切るその者は不幸だ。生まれなかった方が、その者のためによかった」(20−21節)と言います。 この「生まれなかった方が、その者のためによかった」という言葉が私には非常に強い衝撃を持って迫ってきます。 イエスなら、たとえ罪人であろうと裏切り者であろうと、「生まれなかった方がよかった」というような言葉をその口から発して欲しくはなかったという思いがあります。 すべての人が赦されるのではなかったのか、イエスはすべての人を愛してくれているのではなかったのか。そう思うと、このイエスの裏切り者に対する一言が非常に残念な気がするのです。 ▼裏切り者への寄り添い なぜイエスがこのような言葉を発したのか。他の言い回しでの翻訳はないのかと、いくつかの日本語訳に当たってみましたが、どの翻訳も大体、「(この裏切り者は)生まれなかった方がよかった」、「生まれてこなければよかった」という呪いの言葉と読めるような訳し方になっているのですね。 ただ1つだけ、本田哲郎さんというカトリックの神父さんが書かれた訳だけはちょっと違ったニュアンスで訳されていました。本田哲郎神父の訳でマルコの14章21節を読んでみたいと思います。 「人の子は、自分について聖書に書かれているとおりに、去っていく。しかし、人の子を売りわたす当人には、なげかわしいことだ。その人にとっては、自分が生まれて来なければよかった、と思うほどだ」。 本田神父は、大阪市の西成区にある「釜ヶ崎」と呼ばれる街に住み込んで、日雇い労働者やホームレスの方々に奉仕する一方で、聖書を翻訳したり、釜ヶ崎についての本を出したりしている、日本のカトリックの中でも異色の神父さんですけれども、もとはバチカンまで行って聖書の研究もしていた、昔は学究肌だった方なんですね。 その本田神父が日本語に訳すと、この部分は呪いの言葉ではなく、「裏切る本人にとっては、自分が生まれて来なければよかったと思うほどだ」という風に、裏切り者の苦しい心情に寄り添うような言葉になっているんですね。 ただ、この読み方はあまり多くの聖書学者に支持されているとは言い難いです。私はそんなに学者のようにスラスラとギリシア語を読める訳ではありませんが、それにしても、やっぱりこの部分は「裏切り者には呪いあれ!」というキツい言葉に読めてしまうんですよね。 私たちが持っている新共同訳のような「人の子を裏切るその者は不幸だ」とかいうやんわりとした言い方でなく、「呪いあれ!」、「呪われよ!」というようなキツい言葉が使われています。 私にとっては、ここでのイエスは、「人の子を裏切る者は呪われよ! その者にとっては生まれなかった方がよかった」という呪いの言葉にしか読めません。 本田神父が「イエスは本当は裏切り者の辛さもわかっていて、それを代弁して、『生まれて来なければよかった、と思うほどだよなあ』と憐みの言葉をかけているというのは、心情的に非常に魅力的なんですが、しかし、逆に本田さんは心情を盛り込んで意訳し過ぎているんじゃないかとも思うわけです。 ▼誰が裏切り者か 私は、ここでイエスが呪いの言葉を吐いたのは、実は人間としては十分ありうることだったのではないかと思います。 自分が一人一人声をかけて集めてきた弟子たち、そして時には野宿もしながら寝食を共にしながら旅をして、様々な危機を一緒に乗り越えてきた仲間の中から、自分を裏切る者が出る。思い入れのある弟子たちだけに、その中から自分を見捨てる人間が出ることほど辛いことはなかったのではないでしょうか。 そして、この場面をよく読むと、イエスは「ユダがそいつだ」とはっきり言っているわけではありません。「12人の1人で、私と一緒に鉢に食べ物を浸している者がそれだ」と言っていますが、この時はみんなそうやって、パンをワインの鉢に浸して食べるという方法で食事をしていたのですから、これでも誰のことを言っていたのかわかりません。しかも、このように言った後、一同が一斉にユダの方を見て非難したというような記事も書かれていません。 さらに、ページをめくって、聖餐式の制定の言葉を通過して先を読んでゆきますと、27節でこのように書かれています。 「イエスは弟子たちに言われた。『あなたがたは皆わたしにつまずく」。「みんな私につまずくんだ」と。 さらに29節から30節にこう書いてあります。 「するとペトロが、『たとえ、みんながつまずいても、わたしはつまずきません』と言った。イエスは言われた。『はっきり言っておくが、あなたは、今日、今夜、鶏が二度鳴く前に、三度わたしのことを知らないと言うだろう」。 こうして読んでゆくと、この食事の時イエスは、別に誰が裏切り者であるかきちんと特定してものを言っているわけではないのではないか。そして、ペトロが出しゃばって「私はあなたを裏切ったりしませんよ!」と言った途端に、「いや、そう言うことを言っている奴が裏切るんだ」と釘を刺したという風に読めるのではないでしょうか。 ▼苦しみを受け入れる嘆きと葛藤 ![]() 考えてみれば、みんなが固く信じ込んでいる信仰や生活スタイルに対して、新しい信仰と生き方の形を持ち込んだ刷新運動を進めてきた結果、次第に敵も増えて、自分の命を狙うグループも現れた。 そのような中で、自分にしたがってきて、自分を守ってはくれているけれども、いまいち頼りないし、自分が命を奪われる時には、まるで1匹の羊がビシッと打たれると、他の羊たちが散ってしまうように、皆逃げ去ってしまうだろう。 そういうことが十分に予想される状況で、「もうすぐ自分は死ぬのだ」という追い詰められた精神状態の中で、「俺を裏切る奴には呪いあれだ! そんな奴は生まれなかった方がよかったんだ!」と、誰に当てるともない憎まれ口を、聞こえるような独り言で口走った。それが周りにいた弟子たちを驚かせた。そしてその驚きの記憶が、後々弟子たちの間でも語り継がれて記録に残ったと考えるのが妥当ではないかと思うんですね。 そこに現れているのは、人間イエスの、とても人間的な嘆きと葛藤の感情です。 自分にとって最後になった夕食の席で、パンをとって「これは俺の肉だ」、ワインをとって「これは俺の血だ」と言う。それは、「俺は聖書に書いてあるとおりにこの世を去っていくけれども、俺が死んでも、俺のことを忘れないでいてくれよ」という思いだったのでしょうね。 この時、「俺は聖書に書いてあるとおりにこの世を去ってゆく」と言ったのは、この前の礼拝でもご指摘があったとおり、おそらくイエスの頭の中にあったのはイザヤ書53章のスケープゴートの記事でしょうね。「あそこに書いてあるとおりに、俺は苦しめられ、殺されようとしているんだ。ああ聖書の預言が今俺に成就しようとしているんだ」と嘆きながらもこの運命を受け入れようと葛藤し、苦しんでいるわけです。 そして実際、イエスはこの後、ゲツセマネのオリーブ畑に行っても、「できることなら、この苦しみの時を自分から過ぎ去らせてください」(マルコ14.35)と嘆きの祈りを捧げたんですね。もちろん最終的には、「しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように」と祈って、この事態を受け入れてゆこうとするわけですけれども。 ▼俺はこんな人生は嫌だ そのようなわけで、イエスは自分がイザヤ書53章に書かれてあるような苦難を受ける人物に、まさか自分がなるとはと驚きつつ、そうなることが神のご意志なのだとしたら、それを甘んじて受けなくてはならないのかという嘆きと葛藤の中で、みんなと食事をしているときに、「この中の人間が俺を裏切るんだ」と言ってみたり、一番最初から一緒にきていたペトロに対して「お前が裏切るんだ!」と絡んだり、「できればこんな目に遭わさないでください」と神に泣き言を言ったり、実に人間臭くイエスはもがき苦しんでいるのです。 このことで言えるのは、イエスは自分がこんな苦しみを受けることになるのを知らなかっただろうということです。こんなことになる運命を神様が予め定めていたのかどうかは知らないけれども、「俺は嫌だ」と言っているわけです。 嫌で嫌で仕方がないんだけど、神様がそれしかないとおっしゃるんだったら、そうするしかなかろうということを、いかに諦めて受け入れるかということに苦しみ抜いているのですね。 イエスにとってはこれは不本意な死に方だった……などと言うと、「イエス様は十字架にかかられるために、この世に降りて来られた」と信じているタイプの信徒の方々には申し訳ありませんが、聖書を読む限り、イエスがそういう目的を了解の上で、予定通りに十字架に向かって行ったとは思えません。 ▼だからこそイエス となると、イエスはやっぱり神の子、あるいはキリストといった立派な存在ではないのでしょうか。 私はそうは思いません。イエスが私たちと同じように、予想だにしなかった悲しい出来事や苦しい経験を、「こんなことになるとは思ってなかったよ!」、「神さま、どうかこの苦しみを私から取り除けてください!」と泣き喚きながら生きざるを得ない人間だったから、イエスは私たちにとって最も信頼に足る人間なんです。 もしそのことが神の計画だったとしても、人間としてこの地上で生きたイエスは、そのことを知らされていなかったんです。イエス自身も「なんで俺が?」と思っていた。だからイエスは苦しかったんです。 でも、それは私たち自身の人生と同じです。私たちの人生にも、時折、自分では全く予想がつかないような出来事が襲ってきて、「なんでこんな目に自分が遭わないといけないんだろう」、「こんな目に遭うなんて、一体何のために自分は生まれてきたんだろう」と思うような困難を経験することがあります。 そんな時、一番信頼できるのはイエスではないでしょうか。なぜなら、イエスなら私たちがどん底の時にも、そのどん底をわかってくれているからです。苦しまなくても良いはずの人が苦しみを受ける。それが人生の現実ですが、その現実を誰よりも知っているのがイエスです。だからこそ、イエスは信頼するに足る人であり、またイエスが私の分も苦しんでくれたんだなということを思えば、私たちの苦しみを贖ってくださった、やっぱりイエスは救い主だなと思えるのではないでしょうか。 たいていの人間の人生には、様々な苦難が待ち受けています。神が望んでおられるのは、苦しみを手軽に取り去ることではないようです。そうではなく、苦しみを共にすることから、喜びや楽しみが生まれてくるということを人間に判らせようとしているのかと思われます。 自らも嘆き悲しみながら、人間として味わい得る苦難の辛酸を舐め切ったイエスに感謝を捧げたいと思います。 |
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