イエスはあなたを独りにしない


2020年4月5日(日) 

 日本キリスト教団 徳島北教会 棕梠の主日礼拝 説き明かし

礼拝堂(メッセージ・ライブラリ)に戻る
「キリスト教・下世話なQ&Aコーナー」に入る
教会の案内図に戻る







聖書の朗読&お話(約25分)



 詩編22章1-6節 
(新共同訳)
 わたしの神よ、わたしの神よ
 なぜわたしをお見捨てになるのか。
 なぜわたしを遠く離れ、救おうとせず
 呻きも言葉も聞いてくださらないのか。
 わたしの神よ
 昼は呼び求めても答えてくださらない。
 夜も、黙ることをお許しにならない。
 だがあなたは、聖所にいまし
 イスラエルの賛美を受ける方。
 わたしたちの先祖はあなたに依り頼み
 依り頼んで、救われて来た。
 助けを求めてあなたに叫び、救い出され
 あなたに依り頼んで、裏切られたことはない。




▼パンデミック

 おはようございます。レントの最後の週の日曜日を迎えました。この日曜日は一般には「棕櫚の主日(パーム・サンデー)」と言われていて、イエスがエルサレムの街に入った時、群衆が棕櫚の葉のついた枝を振って歓迎したということを記念する日とされています。
 私たち日本では少数派であるクリスチャンが「レントだから節制しよう」と言うよりも、はるかに多くの人々があれやこれやのことを自粛する世の中になってしまいました。
 そして、この感染症のパンデミックというのは、ただウイルスが恐ろしい、感染して病気になるのが怖いというだけではなくて、この不安感や自粛ムードに朝から晩まで包まれて、精神的にほとほとまいってしまうという点でも、かなりダメージを受けますね。皆さんの中にも「神経的にまいってしまったよ!」と感じておられる方が多くいらっしゃるのではないかと思います。
 人が集まるイベントや集会は相次いで中止となり、学校も休校措置を取り、外出を自粛するよう求められ、キリスト教会も礼拝を取りやめたり、空っぽの礼拝堂で礼拝をやっている様子をインターネットで中継するだけの礼拝にしたり、といった教会がたくさんあります。
 教会というのは、元々聖書のギリシア語で「エクレシア」と言い、「エクレシア」とは本来「集まり」、「集い」のことです。
 非常に単純化してあっさり言ってしまうと、「エクレシア」が集まることができなかったら、「エクレシア」ではありません。けれども、集まることによって、ウイルスは伝染してゆき、被害を広げます。この社会に大きな被害をもたらす感染症を、教会が広げることに加担してはなりません。
 ですから、私たちは「集まる」という本来の姿を、今は放棄してでも、社会に協力しなくてはならないという試練の時を過ごしています。
 幸いにして、現代は通信技術が発達して、多少距離があっても、姿と声を伝えることができるようになり、お互いに思いを伝えることは可能にはなりました。
 実際に顔と顔を見合わせて行うコミュニケーションには劣りますが、それでも何も無いよりははるかにましなはずです。このような道具を使って私たちは互いに繋がっているということを確認し、離れていてもお互いにキリストの体の一部分として共に生きているのだということを覚えたいと思います。
 そして、その繋がりと交わり、声の掛け合いによって、少しでもお互いの疲れと不安を労い合いたいと思います。

▼全くの孤独の死

 さて、レントの最終主日にお読みした、旧約聖書の詩編第22編は、イエスが十字架で唱えていたのではないかと言われている箇所です。
 この22編を最初から順番に読んでゆくと、要所要所が福音書のイエスの受難物語に引用されているのが分かります。
 例えば、さっきお読みした2節には「わたしの神よ、わたしの神よ、なぜわたしをお見捨てになるのか」とありますが、これはイエスが十字架につけられた状態で、神に対して叫んだ言葉としてよく知られています。
 また、9節には「主に頼んで救ってもらうがよい。主が愛しておられるなら、助けてくださるだろう」という言葉があります。これも、「神の御心ならば今すぐ救ってもらえ」という言葉がマタイによる福音書にはありますし、19節の「わたしの着物を分け、衣を取ろうとしてくじを引く」というのも、ローマの兵隊たちがイエスの衣を引き裂いて、布をくじ引きで分けるという場面に反映されています。
 特に最初の「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになるのか」という叫びが非常にインパクトが強いために、イエスは十字架の上で苦しみながら、この詩編22編の言葉を必死に唱えていたのだと、(例えば日本のキリスト教作家の遠藤周作さんのように)仰る人もいます。
 けれども、一番さめた解釈の仕方をするならば、おそらくそうではなく、福音書の記者たちが十字架の場面を描くときに、詩編22編を下敷きにして創作したと考えるのが最も合理的ではないかと私は考えます。
 つまり、十字架につけられたイエスの様子を描いた福音書の記事は、詩編22編をもとに描かれた想像の産物で、イエスの十字架上での言葉は誰も聞いてはいない。
 イエスの弟子たちは一人残らず師匠を捨てて逃げたのであり、イエスの処刑を近くで見ていた人はいない。イエスは全くの孤独の中で苦しみ、死んでいったというのが真相だと考えられるのです。

▼最低の人生の終わり方

 しかし、私はこのイエスの救いようのない死に様に直面した時にこそ、イエスの愛がいかに激しく深かったかということを感じさせられます。イエスがいかに人間として最低の経験をしたかということ、その情けも容赦も無いところに、イエスのこの世で苦しむ人への愛を感じます。
 イエスの死に様は、恥と孤独と苦痛に満ちています。
 当時の十字架刑、これはローマ帝国の全土で皇帝への反逆者を処刑するために使われていたようですけれども、受刑者は着ているものを全て剥がれて素っ裸にされるんですね。女性の受刑者は腰巻きくらいは許されたという話も聞きますが、男性はすべて着ているものを全部剥がされてしまい、群衆の晒し者にされます。真っ裸で気持ち悪がられたり、笑い者にされたりするのです。こんなに侮辱的なことはありません。これから自分が死ぬという時に、その自分が最低の侮辱を受け、恥を欠かされるのです。
 また、イエスは誰にも付き添ってもらえずに死にました。男性の弟子たちは全員逃げてしまいました。ペトロだけがイエスが逮捕された時、尾行してきたと言いますが、そのペトロも「お前はあのナザレ人イエスと一緒にいた者だろう」と一般人に問い詰められて、それを否定して逃げ去ってしまいます。
 したがって、イエスの周囲には、誰一人イエスの親しい人々はいなかったと考えるべきでしょう。群衆は完全に寝返って、「イエスを殺せ」と残虐な群集心理に煽られて叫んでいますし、誰も彼の弁護をする人はいません。彼は全くの孤立した状況で、死んでゆくことになりました。
 そして、十字架刑による肉体的な苦痛。手首と足首に太い釘を打ち込まれることだけでも想像を絶する痛みですが、この状態で十字架を立てられますと、自分の体重がその傷にかかります。苦しみから逃れようともがくと、なお痛みが増すという生き地獄のような苦痛です。
 この苦痛と出血に加えて、脱水症状の苦しみも受刑者を襲います。このため、何時間もかかって苦しみ抜いて、受刑者は死に至ります。朝、十字架につけられて、日没前に息を引き取らなかった場合は、棍棒で向こう脛を殴られて、骨を折られます。痛みのショックで絶命するまで殴ります。
 人生の色々な楽しかったことも、懐かしいことも全部ぶち壊してしまうような恥と孤独と苦痛にまみれて、全く救いのない死に方をする。どんなにかイエスの心は絶望に包まれていただろうと想像しますが、どうすることもできない。イエスはそのような最低の人生の終わり方をした人なわけです。

▼イエスはあなたを独りにしない

 しかし、イエスはこの人間として最低の目に遭った人だからこそ、私たちはイエスを信頼できるのだと思うのです。
 簡単なことだと思いますが、私たちは、自分より楽な立ち位置にいる人が「あなたの苦しみはよくわかりますよ」と言っても、いまひとつそんな言葉は信頼できないのではないでしょうか。「お前さんには私の苦しみなんてわからないよ」と思ってしまうものではないでしょうか。それは正直な気持ちです。仕方がないと思います。
 けれども、イエスほどの苦しみに遭った人を前にしたら、私たちは「あんたより私の方が辛いんだ」とは言えないでしょう。どう考えても、イエスより恥をかいて、イエスより孤独に、イエスほど苦痛を味わいながら人生を終わる人はいません。イエスと同じくらい苦しんで亡くなってゆく人はいるでしょう。イエスはその人間の死の最低ラインを経験した人です。
 そして、単に「そのような人が過去にいたのだ」というだけではなく、「その人は今も私と一緒に苦しんでいるのだ」という思いに共感できた時、その共感がイエスを信じる気持ちに繋がってゆきます。
 イエスは単に昔、こんなに苦しんで死んだ人がいるらしいというだけのことではなく、「今も苦しんでおられるのだ。だから、私は決して独りぼっちで苦しんでいるわけではないのだ」と思えるようになれば、それはもう既に信仰なのです。
 パウロの手紙を読むと、パウロが見たイエスの幻は、十字架につけられたままのイエスだったと証言していることがわかります。つまり、パウロは十字架から解き放されて、自由になった栄光に満ちた王イエスの姿ではなくて、今も十字架にかけられたまま苦しんでいるイエスだったのですね。その姿にパウロは大きな衝撃を受けました。

▼なぜ十字架のイエスなのか

 私たちは今、イエスの十字架にかかったままの有様を、自分の肉眼で見ることはできません。見ることができたとしても、それは精神医学や心理学的に見れば、幻覚や幻聴、白昼夢のようなものだとして片付けられるでしょう。パウロの見た十字架のイエスでさえも、そのように幻覚と見做されるでしょう。
 ただ大切なのは、幻覚だから意味がないということではなくて、なぜパウロがそのような幻覚を見たのか。なぜパウロが見た幻覚はそのような内容だったのか、ということです。
 パウロが幻覚を見たのは、統合失調症のような状態になっていたからかもしれない。けれども、その中で彼が十字架につけられたままのイエスを見たのは、どういう心理のプロセスでそうなったのかということを考えないといけません。
 パウロがたくさんの無実の人を逮捕して、拷問にかけ、あるいは殺害してきたことの罪意識や自問自答を自分の中に溜め込んでいっていたであろうことは、何人もの聖書学者が指摘しています。
 「自分は殺されるべきではない人たちをたくさん殺しているのでは無いか」、「自分が正しいと信じてきたことは、今やっていることと矛盾しているのではないか」、「神は今、嘆き悲しみながら死んでいっている人と共に泣いているのではないか」などと自問自答していった先に、パウロは精神的に破綻を来たしてしまったのではないでしょうか。
 彼は幻覚を見たわけですが、彼が見たのは、十字架をかなぐり捨てて、力強く笑っているイエスではなく、今も十字架につけられて苦しみ続けているイエスであり、そのようにイエスを痛めつけているのは自分であるという啓示を受けたのであろうと思います。

▼痛みを分かつ真の神

 パウロのように幻覚を見る人は、人数的には少数だと思います。けれども、パウロと同じように自問自答して、「イエスを殺害したこと自体が自分たちの罪だったのではないか」、「イエスのようなスケープゴートを作ることによって、社会を維持していることが、人間が一番深い罪なのではないだろうか」、そして「イエスは何故逃げなかったのだろうか。何故彼は、この世で最も惨めな死に方を選んだのか」と問いを持つ人が何人もいたのでしょう。
 そして、イエスと共に歩んできた人々は悟ったのだと思います。
 「イエスはとことんまで人の痛みに寄り添って、同じ痛みを分け合うために、あえてこの死に様を引き受けたのだ」と。
 人々の前に現れてから一貫して痛み、悩む人に寄り添う人生を貫いたイエスの生涯の完成形が、人として一番酷い死に方、殺され方をすることだった。自ら、最低の絶望を味わうことで、絶望の中で救いを見出せない人のそばに寄り添おうとしたわけです。
 その究極の愛し方に、人々がそれまで彼らが信じていた神とは全く違う、それを超えた神を発見し、そこから最初のキリスト教が始まっていったのであろうと思います。
 幻覚を見る人は、ある種の「選ばれた人」です。一般の凡人はそういう方法ではなく、イエスの最後の食事を再現し、パンをイエスの体に見立て、ぶどう酒をイエスに血に見立てて、イエスが今も共にいるということを味わおうとしました。聖餐を中心とした集い(つまりエクレシア)の中で、イエスの蘇りを体験しようとしたのですね。そこに、イエスの復活があるというわけです。

▼ロング・アンド・ワインディング・ロード

 そのようなわけで、イエスの十字架の出来事、受難という出来事の中に、イエスが私たちを愛そうとした究極の完成形があります。
 私たちは、十字架を離れて、栄光に満ちた勝利者として高笑いしているイエスを有り難がって信じているのではありません。そのようなイエス像は、今、現在苦痛に嘆き悲しんでいる人間を見捨てるものです。
 「イエスを信じる者は、イエスと同じように苦しみから解放され、喜びの人生を歩むようになる」という教えは、「信じているのに、何故私の苦しみは終わらないんですか」という絶望的な疑問のループに捨て置かれてしまうのです。
 イエスを信じればこの世の人生はハッピーになる。本当の信仰はそういう単純な道筋のものではありません。そうではなく、信じたから人生の苦しみや悩みというものは無くなるわけではないのです。しかし、苦しみを一緒に味わおうとする愛の中から、癒しと励ましと救い、そしてそこから深い喜びが生まれてくるのです。それは「長く、曲がりくねった道」、まさに「ロング・アンド・ワインディング・ロード」なわけです。そのことをイエスが共に苦しみ抜いて果てる人生から教えてくれました。
 ですから皆さん、どんなに苦しい時があっても、イエスが共に苦しんでいてくれる。イエスは決して私を独りぼっちにはしない。私が独りぼっちでいないために、私の独りぼっちを解ろうとしてイエスが一人ぼっちで死のうとされたのですから、その気持ちを私は感謝して受け取ろうと思います。
 イエスの死を無駄にせず、十字架のイエスの愛を信頼して、悩みの多いこの人生を一緒に生きて参りましょう。






教会の入り口に戻る

礼拝堂/メッセージライブラリに戻る

ご意見・ご指摘・ご感想等はこちらまで→牧師あてメール