あの方が生きておられるから


2020年4月12日(日) 

 日本キリスト教団 徳島北教会 イースター礼拝 説き明かし

 牧師:富田正樹

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聖書の朗読&お話(約29分)



 ヨハネによる福音書21章1-14節 
(新共同訳)
 その後、イエスはティベリアス湖畔で、また弟子たちに御自身を現された。その次第はこうである。
 シモン・ペトロ、ディディモと呼ばれるトマス、ガリラヤのカナ出身のナタナエル、ゼベダイの子たち、それに、ほかの二人の弟子が一緒にいた。
 シモン・ペトロが、「わたしは漁に行く」と言うと、彼らは、「わたしたちも一緒に行こう」と言った。彼らは出て行って、舟に乗り込んだ。しかし、その夜は何もとれなかった。
 既に夜が明けたころ、イエスが岸に立っておられた。だが、弟子たちは、それがイエスだとは分からなかった。イエスが、「子たちよ、何か食べる物があるか」と言われると、彼らは「ありません」と答えた。
 イエスは言われた。「舟の右側に網を打ちなさい、そうすればとれるはずだ。」そこで網を打ってみると、魚があまり多くて、もはや網を引き上げることができなかった。
 イエスの愛しておられたあの弟子がペトロに、「主だ」と言った。シモン・ペトロは「主だ」と聞くと、裸同然だったので、上着をまとって湖に飛び込んだ。他の弟子たちは魚のかかった網を引いて、舟で戻って来た。陸から二百ぺキスばかりしか離れていなかったのである。
 さて、陸に上がってみると、炭火がおこしてあった。その上に魚がのせてあり、パンもあった。イエスが、「今とった魚を何匹か持って来なさい」と言われた。シモン・ペトロが舟に乗り込んで網を陸に引き上げると、百五十三匹もの大きな魚でいっぱいであった。それほど多くとれたのに、網は破れていなかった。
 イエスは、「さあ、来て、朝の食事をしなさい」と言われた。弟子たちはだれも、「あなたはどなたですか」と問いただそうとはしなかった。主であることを知っていたからである。
 イエスは来て、パンを取って弟子たちに与えられた。魚も同じようにされた。イエスが死者の中から復活した後、弟子たちに現れたのは、これでもう三度目である。




▼小さな癒しを

 おはようございます。オンライン礼拝も2回目となりましたが、皆さんはお元気に過ごされていますでしょうか。
 皆さんと直にお会いできないので、私自身とても寂しい思いをしております。職場である学校も生徒の登校は禁止されておりますし、自分も不用意に人と集まったりすることは自粛しないといけないかなと思っていますし、どうしても職場と自宅の往復だけになり、気が塞ぎがちです。
 けれども、ある日、家にあったコーヒー豆が切れたので、あるコーヒー屋さんに新しい豆を買いに行きました。持って帰った挽きたてのコーヒーの匂いを嗅ぎながら、束の間の幸せを感じました。
 小さなことですが、これまで当たり前だと思っていたようなことに、小さな幸せを感じることができるのは、ありがたいことだなと思います。
 こういう時でないと感じることのできない日常の幸せというものがあるのだなと気付かされました。
 皆さんも、緊張感で疲れ切ってしまいそうになったら、ちょっとコーヒーを入れるとか、ちょっとお茶を入れるとか、ちょっとお花を眺めるとか、そういったことで自分の心に積極的に癒しを取り入れることをお勧めしたいと思います。

▼イエスが現れる

 さて、改めて皆さん、イースターおめでとうございます。イエス・キリストの復活をお祝いする日です。おめでとうございます。
 今日お読みしました聖書の箇所は、ヨハネによる福音書での終盤の部分で、イエスがガリラヤ地方に里帰りした弟子たちの前に現れるという場面です。
 ヨハネによる福音書では、イエスが復活した後、弟子たちに現れる場面は、どれもとても印象的で、俗っぽい言い方をすると「絵になる」描かれ方をしています。
 最初のイエスの登場は、お墓の前でマグダラのマリアに現れます。マグダラのマリアはイエスに声をかけられても最初は気がつかず、声の方を振り向いても、それがイエスだと気がつかず、イエスが「マリア」と呼んだときに初めてわかって、「私の先生」と言うと、「私にすがりつくのはよしなさい」と言われるという場面ですね(ヨハネ20.17)。
 2回目は、おそらくエルサレムの市内で隠れていたのだろうと思われますが、男性の弟子たちのところに現れます。復活日の夕方、家に鍵をかけているのに、突然イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言います(ヨハネ20.19)。これは実はこんな長ったらしい言葉ではないんですね。ヘブライ語で「シャローム」と言っただけです。つまり「こんばんは」です。家の戸口の鍵をしっかり閉めているのに、「こんばんは」と突然現れるから、「お化けだ〜!」とびっくりしたという話ですね。
 その時、弟子の1人であるディディモと呼ばれるトマスという人がいなかったので、イエスが復活したことを疑うんですが、もう一度イエスはトマスのために同じように「こんばんは」と現れて、脇腹の傷を見せ、「あなたの指をここに当てて、私の手を見なさい。あなたの手を伸ばし、私の脇腹に入れなさい」という有名な言葉を言いますね。
 そして、今日お読みしたところが、4回目。21章の14節には「三度目である」と書いてありますけれども、これはマグダラのマリアを除いて、男性の弟子たちに現れたのは3度目であるという意味なんですね。

▼パンと魚

 今日お読みした聖書の箇所で、ティベリアス湖(21.1)と書いてあるのは、よく知られたガリラヤ湖の別名ですね。イスラエルの北部にあるガリラヤ地方の美しい湖で、琵琶湖の大体3分の1くらいの面積の湖です。この湖があるおかげで湖畔の街や村は水が豊かにあって、農業や漁業が盛んだったんですね。そして、ここにも出てくるシモン・ペトロという弟子も、漁師でした。彼はイエスの最初の弟子ですけれども、イエスが「ついてきなさい」と声をかけたのも漁師の仕事の最中だったと伝えられていますね。
 そのペトロと他の弟子たちがガリラヤに戻ってきたのは何故だったのでしょうか。イエスが2回も自分たちの前に現れたのに、その本当の意味や意義がわからず、エルサレムが居場所が無くなって故郷のガリラヤに戻ってきたのでしょうか。
 いずれにせよ、ペトロが「わたしは漁に行く」と言って舟に乗り込む姿は、彼が自分が生まれ育った場所で、長年それで生活してきた仕事をもう一度やってみたということを示しているのかも知れません。漁師というのはペトロの人生の原点ですからね。
 ところが、ペトロたちが湖に網を下ろしてみても、何もとれません。夜どおし漁をしても何もとれず、朝を迎えた時、岸辺に誰かが立っているのを彼らは見つけました。でも、それがイエスだとは誰も気づかなかったと書いてあります。
 その男の人は「何か食べるものがあるか」と声をかけます。弟子たちは「ありません」と答えます。すると男の人は、「舟の右側に網を打ちなさい。そうすればとれるはずだ」と言いました。それで弟子たちが言われた通りに網を打ってみると、引き上げることのできないくらいたくさんの魚がとれたと言います。

▼共に食べる大切さ

 ここまで読んで、私は気付きました。「ああ、これは5000人に食べ物を与える奇跡物語と同じだな」と。5000人というのは、昔風にそこに集まっていた人々のうちの男性が5000人だったという数え方なので、実際にはもっとたくさんの人のことを指しますけれども、そのようなたくさんの人たちのために食べ物を用意しなさいとイエスが弟子たちに言います。すると、弟子たちはパン5つと魚が2匹だけしかないと言います。そこでイエスが食べ物を増やしたという奇跡物語ですね。これを思い出させるように、今日のガリラヤ湖畔の話もできています。実際、今日の聖書の箇所でも、イエスと弟子たちが食べる朝ごはんはパンと魚です。
 この5000人の給食の話は、実は受難物語を別にすると、4つの福音書全てに載っている数少ない物語です。ヨハネによる福音書では6章に納められていますけれども、他の3つの福音書全てにこの物語が記されています。初期のクリスチャンたちにとって、いかに一緒に食べるということが大事であったかということがよくわかりますね。
 これはちょっと余談になりますが、レオナルド・ダ・ヴィンチの有名な『最後の晩餐』という絵がありますね。あそこに描かれている食事はパンと魚です。私たちがよく知っている「主の晩餐」、「最後の晩餐」は聖餐式のもとになっているので、パンとぶどう酒だと思い込んでいるのですが、ダ・ヴィンチが描いたのはパンと魚なんですね。それは何故かというのが、今でも謎として色々に論じられています。
 ただ、言えることはイエスとの食事を再現するとなると、パンと魚だという伝承の方を大切にする初期のクリスチャンのエクレシアもあったということなんですね。パンと魚でデザインされたエンブレムを自分たちのシンボルマークとしてモザイク画で描いている古代の教会もあるんですね。
 ですから、今日読んだここの物語で出てくる「パンと魚」というのは、ただ単にそれをイエスが食べたという記録ではなくて、あのイエスの食事、イエスと多くの人たちが一緒に食べた愛餐の食事を思い出せよ! というこの福音書記者のメッセージが隠されているわけです。

▼見えないけれど見える

 さて、そのような奇跡が起こってから、弟子たちは初めて岸辺に立っている人物がイエスだとわかります。
 これも不思議な話です。先にちょっと触れたマグダラのマリアのイエスとの再会もそうですが、間近で声をかけられたり、姿を見たりしても、イエスだということがわからない、という風に書かれているんですね。
 これはルカによる福音書に収められている、エマオに行く途中で2人の弟子がイエスに会った話とも似ているんですが、この話でも、弟子たちは、一緒に半日歩いて親密に話をしても、相手がイエスであるとわからないんです。そして、食事を一緒にする場面になって、イエスがパンを割いた瞬間に、「あ、イエス様だ」とわかる。でもその瞬間イエスは見えなくなる、という不思議なお話です。
 今日のヨハネによる福音書の物語でも、イエスがイエスであると気づいたのは1人の弟子で、他の弟子たちは朝食を一緒に食べる頃にはわかっていたけれども、わかったから「あなたはどなたですか?」と問いただそうとはしなかったと書いてあります(21.12)。ということは、やはりイエスの顔かたちを見て、声を聞いて「ああ、やっぱり先生だ」と確認したのではなくて、「言わなくてもわかるだろう」という悟り方であったように描かれているのですね。
 ですから私たちは、もうそろそろここで、私たちが読んでいる物語は、実際にあったことを単純に記録している日誌のような文章ではなく、ある大切なメッセージを私たちに伝えようとするお話なのであるということに気づかないといけません。
 ペトロはガリラヤの故郷に戻り、自分の生活の原点としての漁師を再び始めようとしました。しかし、そこでパンと魚による食事の記憶へと引き戻され、食べることの中に、その場にイエスが再び蘇るということを体験したという物語です。
 物語の最後に「弟子たちに現れたのは、これでもう三度目である」と記されていますが、これは大胆な推測かも知れませんが、おそらくペトロが3度イエスのことを知らないと言ったことと関連があります。今日の聖書の箇所の先を読んでゆくと、そのことを強烈に連想させる箇所が出てきます。しかし、今日はもう時間がありませんので、そこまでは触れません。
 ただ私は、ここで「もう三度目である」と言っているのは、「3度イエスに出会い直しても、まだイエスが今も生きていることがわからないのか、ペトロよ」とヨハネ福音書の記者が暗にペトロを批判しているように思えてなりません。
 
▼復活のイエスと出会う
 
 復活したイエスと出会うというのは、生物学の法則を破って、死んだ人間の肉体が蘇生したということではありません。2000年前も今も、そのような科学的な法則は変わっていないという前提でお話をします。死んだイエスが肉体を持って生き返ったわけではありません。
 むしろこれらの物語を読んでわかることは、弟子たちがイエスを感じいたのは、そこにはイエスがいない時であった。また姿かたちを見ても、声を聞いても、最初はイエスだとはわからなかった。
 つまり、イエスはいないはずの所にイエスがいると感じられるということ、またイエスではない人がイエスに見えてくることがあるということです。
 そして、今日読んだ箇所から特に言えることは、それは弟子たちが食事をした時だというのです。それも、食べるものが乏しいときに、イエスの名によってそれでも食事をしようとした。その時に、与えられた食べ物を分け合う中で、イエスを見たというのですね。
 弟子たちは失意のどん底の中にいたと思います。「この人なら世界を変えてくれる」と思っていました。にもかかわらず、あろうことか逮捕されてあっという間に処刑されてしまった。この世は変わらない。イエスも私たちもやったことも全てが意味のないことになってしまった。命からがら故郷まで逃げてきたけれども、これから先どうしたらいいのかわからない。
 そんな弟子たちが、もう一度「人間をとる漁師」になってみる。イエスはいなければ、うまくいく筈もない。しかし、イエスの名によって共に食べるということをやってみる、そこにイエスがいるということが感じられたということなのではないでしょうか。

▼お葬式の夜

 あまり格調の高い例ではないかも知れませんが、皆さんはお葬式の夜の宴会が妙に盛り上がるという経験はありませんか?
 私は何度か経験があるんですが、特に盛り上がった記憶があるのは、高校時代の同級生が大学生になってバイクに乗っていて、トレーラーと正面衝突して下敷きになって死んだ時のことです。
 そのお葬式の夜、私は友人たちと食事をしお酒も飲みましたが、悲しかったはずの食事が段々と話が弾み、亡くなった同級生を巡って面白い話がポンポン飛び出し、笑い転げて大騒ぎをして、しまいには周りの人たちから、「あんたら友達が死んだのに、何笑ってんのや!」と怒られたことがあります。その時の、その同級生が「おいおい、何盛り上がってんねん。俺も入れてくれよ」と言って暖簾をめくって今にも入ってきそうな感覚は今でも忘れられません。
 死んで2日や3日では、その人が死んだということを受け止めることは、なかなかできません。むしろ、死んだ人を思いつつ飯を食うことで、そこには亡くなった人の思い出が、まだその人が生きているかのように蘇ります。
 もちろんイエスの復活というのは、そのような思い出の蘇りだけにはとどまりません。「神の国は近づいた!」と言って、イエスが集めた人々の集まりの中で、この集まりで行われる、イエスと共に食事をする愛餐の時。それが「神の国の始まり」だと見なして、これからもイエスと共に食べる食事を広げてゆこう。そうやってこの世を変えてゆこう。そういうビジョンを分け合い、イエスは今も私たちと共に、神の国実現のために歩んでいるのだと信じること。その信じる気持ちの中にイエスは存在しているのだと言えるのではないでしょうか。
 イエスは死んだ。しかし、私たちの間に今も生きて働いている。そこに悲しみと混じった静かなる喜びを感じるのが、そもそものイースターの始まりではないかということです。

▼再び集って食べる日まで

 今、私たちは共に食べる愛餐の時を持つことができないという、キリスト教会としては根本的な部分をもぎ取られたような状態に押し込められています。
 これは、政府が緊急事態宣言を出したからとか、自粛を要請されているからということが第一にあるというよりは、今拡大しているウイルスの感染のクラスターに教会がなってはいけないという配慮からです。
 しかし、これが教会の本来のあり方ではないということは確かです。私たちは集まってこそ、共に食事をしてこそのキリスト教会なのです。ですから、私たちは今のこの時期を耐え忍んで、1日でも早い収束を願って、祈りつつ、日々を過ごしたいと思います。
 そういう意味では、私たちのレントはまだ明けたという気持ちにはなかなかなれないのですけれども、しっかりとこの時期の鬱々した気分を味わい尽くして、いつか再び私たちが直に顔を合わせ、共に食べる時、盛大に教会の復活をお祝いして盛り上がりたいものだと思います。






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