大切なLifeを丁寧に生きよう


2020年5月17日(日) 

 日本キリスト教団 徳島北教会 主日礼拝 説き明かし

 牧師:富田正樹

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聖書の朗読&お話(約17分)



 フィリピの信徒への手紙4章8-9節 
(新共同訳)
 終わりに、兄弟たち、すべて真実なこと、すべて気高いこと、すべて正しいこと、すべて清いこと、すべて愛すべきこと、すべて名誉なことを、また、徳や称賛に値することがあれば、それを心に留めなさい。
 わたしから学んだこと、受けたこと、わたしについて聞いたこと、見たことを実行しなさい。そうすれば、平和の神があなたがたと共におられます。




▼オンライン礼拝

 おはようございます。今日も一緒に礼拝の時を持てることを感謝しています。教会というのはもともとギリシア語で「エクレシア」という言葉であり、その意味は「集まり」「集い」なので、本来なら顔を合わせて、一緒に食事でもしながらというのが、本来のあり方なのですけれども、このオンライン会議システムを使った礼拝も、皆さんの顔が一斉に見えますし、声も結構ちゃんと聞こえるし、意外と礼拝堂で行う礼拝よりも良い面もあるのではないかと思ったりしますね。クリスチャンとして、牧師として、そんなことを言っては不謹慎でしょうか?
 けれども、実際コロナがなかったとしても、いろいろ事情があって物理的に集まることのできない人もいたりするわけですし、そういう時のオンライン礼拝というのは、たとえリアルの礼拝堂で礼拝を行えるようになったとしても、これを同時並行で行ってゆくというのは、良いことではないかと思います。

▼どこにでもありそうなスローガン

 さて、今日は2020年度の徳島北教会の総会が礼拝の後に行われます。そこで、この年度の教会の指針の言葉を提案させていただくことになります。今年度私が提案しようとしている教会指針は「大切な命を丁寧に生きてゆこう」という言葉です。
 あんまり教会らしくないスローガンです。どこにでもありそうな言葉なんですが、どこにでもありそうな言葉になってしまったのは、私のコピーライターとしての才能の無さによるものですが、教会らしくないのは、いかにもキリスト教らしい用語を使いたくないと思ったから、こうなってしまったんですね。
 クリスチャンにしかわからない言葉で教会指針を決めたくない。教会の前の掲示板に書いていても、誰が読んでも意味がわかるようにしておきたいという思いで、ここ数年そのようにしています。
 まあ、わかりやすい言葉ではありがたくないと思う人もいるかもしれませんし、何が良いのか、何が悪いのかというのは、よくわからないところもあるのですが、とりあえず今年は「クリスチャン用語は使わない」という方針で考えてみました。

▼生命・生活・人生

 「大切な命を丁寧に生きてゆこう」という言葉は、「命は大切だ」ということを前提としているわけですが、これはもちろん、私たちそれぞれ自分の命を大切にする、自分をぞんざいにしないということだけでなく、自分以外の人の命もその存在も大切にしようということであるのは当然です。
 そして、「命」というのは英語では「ライフ」と言いますけれども、英語のライフというのは、実は広い意味を持つ言葉なんですね。
 命、生命、生物という意味でも「ライフ」という言葉を使いますし、普段の日常の生活のことも「ライフ」です。また、人が生まれてから死ぬまでという意味での人生、生涯も「ライフ」です。
 今回の教会指針の「命」というのは、このような「ライフ」という言葉の広がりを念頭に置いていると思っていただけるとありがたいなと思っています。生命を大切にするということは、生活を大事にすることであり、それは人生全体を大切に生きるということなんだと思うわけです。

▼今生の命が大事

 それに加えて、この「ライフ」というのは、現在の、この今生の命を大切にしていこうという意味も含んでいます。
 宗教というのは、ともすれば現在の命よりも来世の命、あの世の命を重要視しがちな面があります。
 キリスト教に於いても、「救い」とは一体何かというのは、人によって色々なことが言われます。「救い」とは死んだあと、天国に行くことなんだ、信仰して洗礼を受けることが天国に行く条件なんだということを言う人がいます。最近はどうもそういう信じ方を若い人に勧めるような教会が増えてきているように感じます。
 しかし、はっきりと言っておきますが、聖書の中にはそんなことは一言も書いてありません。死んだあと、この世での行いに従って、右と左に分ける、羊と山羊に分けるように分けるんだ、ということは書いてありますが(そのようなマタイの記事自体も、どこまで真に受けるべきなのかは、それはそれで論議はありますが)、少なくとも「洗礼を受けたら天国に行ける」などということは書いてありません。
 あまり私たちの教会で大きく話題になることはありませんが、「洗礼を受けることが天国ゆきの切符だ」という考えははっきり言って間違っていますよと言っておきたいと思います。

▼来世のことは心配しない

 もう一つはっきり言ってしまうとすれば、この世の命が終わって死ねば、みんな神様のもとに帰って、お疲れ様、ゆっくりおやすみということであって、この世でどんな暮らし方をしたかとか、世界の3分の1の人が信じている宗教の洗礼を受けたかどうかということで、天国に行けたり行けなかったりということはありません。
 寿命の長さも不平等、生まれる場所も不平等、社会的条件も遺伝的な条件も不平等、そんな中で、生まれてから死ぬまでのありとあらゆる人生の瞬間の言ったこと、やったことを全部総合して、「ハイ、あなたは天国。ハイ、あなたは地獄」という二者択一に分割できるなどというのは、実に馬鹿馬鹿しいナンセンスな宗教観です。
 亡くなった後のことはご安心ください。どんな宗教の信者であろうが、民族であろうが、どんなに良いことをした人であろうが、悪人であろうが、あるいは人間であろうが、犬であろうが、猫であろうが、亡くなった後は、私たちが神と日本語では呼んでいる、大いなる命と愛の源に帰って行きます。もちろんは私は見てきたわけではありませんが、私はそのように考え、信じています。
 逆に言えば、死んだ後の安楽を願うためなどに、洗礼を受けないでいただきたい。そうではなく、今生きているこの人生のために洗礼を受けてクリスチャンになっていただきたいと思うのです。

▼救い

 「救い」とは、いま生きているこの人生の問題です。何を救いと受け止めるのかは人によって違います。また、劇的な救いであるのか、まったりと救われてゆくのかも人によって違います。
 人生の物語がガラリと書き変わってしまう人、自分が何のために生まれてきたのかを悟る人、自分が導かれているとわかる人、生まれてきてよかった、生きていてよかったと感じて救われる人もいます。
 救いの形は色々ありますが、一言で言えば、救いというのは、生きているこの世の人生の間に起こる。生きている間に救われる。あるいは救われながら日々を感謝して生きてゆくということ。それを祈り求めて生きてゆくことが大事だと思うんですね。また、今生きているこの世の人生が救われなくては、何の意味があるんだとも思うわけです。
 今日お読みした聖書の箇所は、この世の人生をどのように生きてゆけばいいのかということについての、使徒パウロによるアドヴァイスが書いてあります。
 もう一度読んでみます。
 「終わりに、兄弟たち、すべて真実なこと、すべて気高いこと、すべて正しいこと、すべて清いこと、すべて愛すべきこと、すべて名誉なことを、また、徳や称賛に値することがあれば、それを心に留めなさい。
 わたしから学んだこと、受けたこと、わたしについて聞いたこと、見たことを実行しなさい。そうすれば、平和の神があなたがたと共におられます」(フィリピ4.8-9)。
 真実なこと、気高いこととありますが、この「気高い」というのは「崇高な」と訳すこともできます。真実なこと、崇高なこと、正しいこと、清いこと(あるいは純粋なこと)、愛すべきこと、名誉なこと、そして徳(つまりモラル的に優れていること)や称賛に値することは、それを心に留めなさい(つまり、意識していなさい)ということですね。
 そして、後半の部分は、ちょっとパウロという人は、自信過剰なところがあるので、よく他の部分でも「わたしに倣いなさい。わたしの真似をしなさい」と言うんで、まあ仕方ないなとは思いますけれども、「わたしから学んだこと、受けたこと、わたしについて聞いたこと、見たことを実行しなさい」と言っています。
 パウロの自信過剰なところはまあ割り引いたとして、ここで大事なのは「実行しなさい(実践しなさい)」と言っていることですね。この世の中で、非常にポジティブな価値を持っていることに心を留めて、しかもそれを実践するような生き方をしなさいよと言っています。
 「そうすれば、平和の神があなたがたと共におられます」よと言うことなんですね。この世における生活を、このような価値観を実行に移せるような生き方をしてくださいね、ということです。

▼ゴミための中で真珠を探す

 真実なこと、崇高なこと、正しいこと、清いこと、愛すべきこと、名誉なこと、道徳的に優れていることや称賛に値することを実践できるような人生を目指せ、というのは、言ってみればきれいごとの羅列です。
 私たち人間は、今現在決して美しい素敵なものに囲まれて生きているとは言えない状況です。新型コロナウイルスの影響で明らかになったものはいくつかありますが、そのひとつには人間の醜さというものがあるのではないでしょうか。
 感染が拡大し、死者も増えてゆく、これに対応するために自粛をしろ。そういって国民が協力して我慢しようと決めたところで、政府の要人たちはこんな機会を使ってでも何億という金儲けを企て、どさくさ紛れに危険な法律を通そうとする。国家のリーダーがこれで、子どもたちには道徳教育を施せという、あきれ果てた様相があらわになっているわけです。
 国民も我慢、我慢を強いられているせいか、苛立ちや怒り、敵意や憎悪といったものが抑えきれなくなっている人が増え、インターネットのような匿名が許される場所では、以前にも増して、口汚く他人を罵ったり、絡んで行ったりということがひどくなりました。
 私たちは日々、嘘や隠し事、醜いもの、汚れたもの、モラル的に劣っていることや、とても称賛できないようなものに囲まれて、こんなことでいいのかと思わされるような日々を生きています。
 パウロがここで言っているような、真実、崇高、正しさ、清さ、愛、名誉、徳、称賛といったものを、この世で見つけるのは本当に難しいです。ゴミための中で、小さな真珠を見つけるようなものです。
 けれども、誰かがこれを言って、誰かが求めなければ、その真珠のような価値は見つけられないままに、本当に人間の世の中は終わってしまうのではないでしょうか。
 そして、それは、誰かが何とかしてくれるだろうではなく、いつか何とかなるだろうではなく、私たちがそのような価値を求めて、少しずつでもできることをやってゆくことで、平和の神が共にいてくださるようになるだろうということなのではないでしょうか。
 もちろん私たちは聖人君子ではありません。私たち自身が不完全な者です。しかし、求め、目指すことがなければ、一歩も進みません。小さな一歩でも良いから、この素晴らしい価値観を実行に移してみること。そこからしか世界は変わらないと思います。
 あえてきれいごとを言う、言葉だけではなく行いにおいても、小さな一歩を踏み出してみる。そのことで、平和の神と共にこの世を歩んでゆく喜びが得られる。私たちは救われるのであります。
 本日の説き明かしは以上をさせていただきます。






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