旅する礼拝


2020年6月21日(日) 

 日本キリスト教団 徳島北教会 家庭礼拝 説き明かし

 牧師:富田正樹

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聖書の朗読&お話(約20分)



 創世記12章1-9節 
(新共同訳)
 主はアブラムに言われた。
 「あなたは生まれ故郷
 父の家を離れて
 わたしが示す地に行きなさい。
 わたしはあなたを大いなる国民にし
 あなたを祝福し、あなたの名を高める
 祝福の源となるように。
 あなたを祝福する人をわたしは祝福し
 あなたを呪う者をわたしは呪う。
 地上の氏族はすべて
 あなたによって祝福に入る。」
 アブラムは、主の言葉に従って旅立った。ロトも共に行った。
 アブラムは、ハランを出発したとき七十五歳であった。アブラムは妻サライ、甥のロトを連れ、蓄えた財産をすべて携え、ハランで加わった人々と共にカナン地方に向かって出発し、カナン地方に入った。
 アブラムはその地を通り、シケムの聖所、モレの樫の木まで来た。当時、その地方にはカナン人が住んでいた。
 主はアブラムに現れて、言われた。
 「あなたの子孫にこの土地を与える。」
 アブラムは、彼に現れた主のために、そこに祭壇を築いた。
 アブラムは、そこからベテルの東の山へ移り、西にベテル、東にアイを望む所に天幕を張って、そこにも主のために祭壇を築き、主の御名を呼んだ。
 アブラムは更に旅を続け、ネゲブ地方へ移った。





▼旅する礼拝

 おはようございます。今日、本当に久しぶりに顔を合わせて礼拝をすることが、マスク越しにではありますが、できますことを嬉しく思います。
 さて、新約聖書を読んでいますと、礼拝というのは「2人、または3人が集まるところにイエスがいる」と書かれているように、まずは集まるということが大切であるという風に考えられます。
 「教会」とは「教会堂」のことではなく、神さまを信じ、イエスを頼りにして集まる、その「人の集い」のことです。教会堂・礼拝堂はその大切な集いを守る器です。
 私たちはその器を大いに拠り所にしているわけですけれども、教会の本質は、その器の中に集う、人間の集まりであることは覚えておきたいと思います。
 「徳島北教会」という名前は、人の集まりの名前であり、礼拝堂の名前ではありません。
 そして、今日は旧約聖書のアブラハム、元の名をアブラムといい、今日読んだ箇所はまだアブラムと呼ばれているところですが、アブラムもまた、定まった神殿という場所ではなく、旅する行先で礼拝を行ったことが書いてあります。
 私たちは、コロナウイルスのために一堂に会することができない時には、礼拝堂ではないところで、インターネットを使って集まり、またこうして場所を提供してくださるご家庭にお世話になって家庭礼拝を行います。また、少し先には野外礼拝も計画しています。
 ひとところに留まらず、旅をするように礼拝に出て行くフットワークの軽さも、私たちの教会の良いところではないかと思いますが、このように、ひとところに固定してしまうのではなく、あちこちどこでもその都度の必要に応じた形で礼拝ができるところが、今日お話しするアブラハムの礼拝と重なり合うところがあるのではないかと思っています。

▼信仰の原点

 また、今日アブラハムの聖書の箇所を引用しようと思ったのは、今日が「父の日」であるということでも、アブラハムを連想してのことでした。アブラハムは聖書の中でも「信仰の父」であるとか、イスラエル民族にとっての「父祖」であるとも言われているからです。
 イスラエル、つまり後のユダヤ人にとっての父祖である同時に、そのユダヤから分かれ出たキリスト教会、またさらにその後に分かれ出たイスラームにとっても、アブラハムの信仰はその源流だと言うことで、この3つの一神教を「アブラハム宗教」と呼ぶこともあります。
 新約聖書でも、パウロの手紙の中に、アブラハムがまず信仰によって義とされたという言葉がありますので、アブラハムが信仰の模範だという考えがキリスト教の中にも受け継がれています。
 もっとも、彼が息子のイサクを殺して生贄に捧げようとしたことについては賛否両論がありますし、これについては簡単に信仰の模範の物語とは言い難い面もあります。
 しかし、今日お読みした「アブラムの召命」の場面は、アブラハム(アブラム)が神の呼び出しに応えて、安住の地から離れ、さすらいの人生を始めるところに、私たちの信仰の原点を見出すことができます。

▼さすらい

 アブラムは神の召命(呼び出して使命を授ける)を受けて、旅を始めます。
 ここにはひとところに安住して、土地や財産や人間関係を頼りにして、安定した生涯を送ろうという発想ではない生き方が象徴的に表されています。
 アブラムの場合ははっきりとカルデヤのウルという街を捨てて放浪の旅に出るという選択をしますが、ここで私たちが学ぶべき大切なことは、彼はこの世の財産や人間関係が最終的に頼るべきものだと考えるのではなく、それよりも、神の導きの方を大切にして生きることを決断したということです。
 優先順位を神と共に歩むということに置いたということですね。
 そして、このことは逆に「わたしたちの人生も根本的にはさすらいと言えるのではないのか」と問いかけてもくるのです。
 誰もの人生が初めから終わりまで安定した、なんの変化も不安も無いなんてことはあり得ません。さまざまな変化があり、時には嵐に揉まれたり、時には土砂崩れに遭ったり、道無き道を進まなくてはならない時が、多かれ少なかれ人にはあるのではないでしょうか。
 そして、時には頑張って積み上げた財産がすってんてんになったり、信頼していた人に裏切られて絶望にはたき落とされるといったことも起こりえます。
 そんな時に、人間は何を拠り所にして生きていけば良いのか。それは単純に、永遠に変わらない神の導きを信頼するしかないのではないでしょうか。

▼祝福の仲介者

 この旅立ちにあたって、神はアブラムに、アブラムの氏族が将来大きな民族として成長することを約束してくれます。
 しかし、それと同時に、アブラムの氏族が負うべき使命も示します。
それは3節の後半にあるように「地上の氏族はすべて、あなたによって祝福に入る」ということです。
 アブラムとその子孫だけが優先的に祝福を受けて栄えて終わりというわけではなく、アブラムとその子孫が神との仲介役を果たして、他の民族も皆神の祝福を受けるように、アブラムたちは遣わされるのだということを言っています。
 このあたりは現在のアブラムの子孫であるユダヤ人たちが、この役割をちゃんと果たしているかどうかと言いますと、今のイスラエル国の有様を見れば、おおよそかけ離れているのではないかと思われます。
 しかし、本来のアブラム/アブラハムの信仰を受け継ぐ者は、自分たちによって神の祝福が地上の他の人々に行き渡るようにするものだ。そのためにあなた方を選んでいるんだからね、と言われているわけですね。

▼神殿の腐敗

 そしてアブラムはカナン地方にさすらってゆくうちに、あちこちに聖所を作り、礼拝を捧げます。
 聖所というのは神社のようなものではなくて、天幕つまり羊の皮などで作ったテントによる仮の礼拝所のことです。この仮の礼拝所をその都度作って、旅を続けながら、礼拝をしてゆくわけです。
 イスラエルの礼拝は、王国を作って、エルサレムに神殿を建設した頃から堕落が始まったと指摘する人がいます。神殿に住み、そこから宗教政治を行い、特権階級が生じて、民に重税を課したり、不正な利益を受け取ったり、権力争いの温床になりました。
 そもそも旧約聖書の中には、王制というものに対する批判的な意見が記されています。特にサムエル記上には、民が「周りの強い国々のように我々の国にも王を立てよう」と言いますが、預言者サムエルがそれに反対する場面があります。「王様なんかを立てると、その王様があなたがたから税金や土地を没収して、自分に近い家来に配分したり、軍隊や奴隷を徴用したりする。『あなたたちは王の奴隷となる。その日、あなたたちは、自分で選んだ王のゆえに泣き叫ぶ。しかし、主はその日、あなたたちに答えてはくださらない』」(サムエル記上8.17-18)と言うのですね。
 けれども、民は「王を立てろ、王を立てろ」と言ってやまないんですね。それでサムエルは仕方なくサウルという人を王として選んで立てることにしました。
 ですから、イスラエルが王国になったのは、仕方のない事情とは言えるけれども、預言者たちはそれを良いことだとは言ってなかったのですね。
 そして、実際、イスラエルは王国になって、神殿を中心にした宗教になって、そしてだんだんと腐敗していったわけです。

▼その都度の礼拝

 しかし、アブラム/アブラハムの礼拝というのは元来シンプルなものでした。
 アブラムが引き連れていた種族の人口がまだその時代には少なかったということはありますが、神殿という固定された立派な建物もなく、そこに住んで権力を振るう人もなく、その権力の味を覚えて、それを独占しようと争う者もいませんでした。
 アブラムは、行く先々で礼拝をするということに徹底しました。
 私が尊敬する牧師の1人に、関田寛雄先生という方がいらっしゃって、長らく川崎戸出伝道所の牧師や、全国キリスト教学校人権教育研究協議会の会長も務めておられた方ですけれども、その方がその人権教育の研修会で、こんなことをアブラムの礼拝に因んで仰っていました。
 「礼拝の本質は、その都度その都度、生きていく場で神の契約を守るところにあります。それが本当の礼拝なのです」と(関田寛雄牧師(全国キリスト教学校人権教育研究協議会前会長)「アブラハムの生涯に学ぶーすべての民の祝福の基」『人権教育ニュース』p.3)。
 私たちは、個人の人生のさすらいの中で、また教会の集いで出会った仲間たちと共に歩むさすらいの旅の中で、その都度その都度、生きていく場で神との約束を確認します。
 この、その都度その都度神さまの導きはどこにあるのだろうと問い直し、このさすらいの道行きがいつも神と共に歩むものであることを確かめることが、私たちの人生の旅路の杖となります。
 その都度その都度の礼拝を大切にし、神さまと共に一歩ずつ進みましょう。






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