神は聞いている。神は見ている。


2020年7月5日(日) 

 日本キリスト教団 徳島北教会 主日礼拝 説き明かし

 牧師:富田正樹

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聖書の朗読&お話(約24分)



 創世記16章1-16節 
(新共同訳)
 アブラムの妻サライには、子供が生まれなかった。彼女には、ハガルというエジプト人の女奴隷がいた。サライはアブラムに言った。
 「主はわたしに子供を授けてくださいません。どうぞ、わたしの女奴隷のところに入ってください。わたしは彼女によって、子供を与えられるかもしれません。」
 アブラムは、サライの願いを聞き入れた。アブラムの妻サライは、エジプト人の女奴隷ハガルを連れて来て、夫アブラムの側女とした。アブラムがカナン地方に住んでから、十年後のことであった。
 アブラムはハガルのところに入り、彼女は身ごもった。ところが、自分が身ごもったのを知ると、彼女は女主人を軽んじた。
 サライはアブラムに言った。
 「わたしが不当な目に遭ったのは、あなたのせいです。女奴隷をあなたのふところに与えたのはわたしなのに、彼女は自分が身ごもったのを知ると、わたしを軽んじるようになりました。主がわたしをあなたとの間を裁かれますように。」
 アブラムはサライに答えた。
 「あなたの女奴隷はあなたのものだ。好きなようにするがいい。」
 サライは彼女につらく当たったので、彼女はサライのもとから逃げた。主の御使いが荒れ野の泉のほとり、シュル街道に沿う泉のほとりで彼女と出会って、言った。
 「サライの女奴隷ハガルよ。あなたはどこから来て、どこへ行こうとしているのか。」
 「女主人サライのもとから逃げているところです」と答えると、主の御使いは言った。
 「女主人のもとに帰り、従順に仕えなさい。」
 主の御使いは更に言った。
 「わたしは、あなたの子孫を数えきれないほど多く増やす。」
 主の御使いはまた言った。
 「今、あなたは身ごもっている。
 やがてあなたは男の子を産む。
 その子をイシュマエルと名付けなさい
 主があなたの悩みをお聞きになられたから。
 彼は野生のろばのような人になる。
 彼があらゆる人にこぶしを振りかざすので
 人々は皆、彼にこぶしを振るう。
 彼は兄弟すべてに敵対して暮らす。」
 ハガルは自分に語りかけた主の御名を呼んで、「あなたこそエル・ロイ(わたしを顧みられる神)です」と言った。それは、彼女が、「神がわたしを顧みられた後もなお、わたしはここで見続けていたではないか」と言ったからである。そこで、その井戸は、べエル・ラハイ・ロイと呼ばれるようになった。それはカデシュとベレドの間にある。
 ハガルはアブラムとの間に男の子を産んだ。アブラムは、ハガルが産んだ男の子をイシュマエルと名付けた。ハガルがイシュマエルを産んだとき、アブラムは八十六歳であった。




▼おはようございます

 おはようございます。先週から徳島北教会はこの教会堂での礼拝を再開し、私も今日からここで礼拝に参加できるようになりましたことを、心から嬉しく思っています。しかし、元々教会とは物理的に距離のある人や体調の優れない人もいて、ここに来ることが困難な人もおられます。なので、zoomによるオンラインでの繋がりも引き続き行っていきたいと思っています。
 さて、今日も旧約聖書のアブラハムの物語からお読みしました。創世記16章をまるまるお読みいただいたわけですが、まだアブラハムがアブラムと呼ばれていた頃の話です。
 アブラム(すなわちアブラハム)は信仰の父、サライ(つまり後のサラ)は信仰の母と呼ばれるようになるわけですけれども、今日お読みした聖書の箇所では、この夫婦よりもむしろサライの奴隷のハガルを通して、神様の本当のご意志、神の愛とはどういうものなのかということが明らかになります。
 そして、そのことによって、私たちが当たり前と思っている信じ方が本当にそれで良いのかと問い直されるような聖書の箇所でもあります。改めて読んでみましょう。

▼道具にされた女性

 1節に「アブラムの妻サライには、子供が生まれなかった」とあります。古代のイスラエル人の社会では、子供が生まれないということは女性としての存在価値を全く認められない、妻としての存在意義がないとされるような屈辱的な状況でした。当時は、子供を産む、それも男の子を産んで家系を存続させるということが女性に課せられた至上命令だったんですね。ですから、アブラムの妻サライは自分という存在が全く家族の中でも部族の中でも承認されない、非常に苦しい状況にあったわけです。
 そこで彼女は自分の奴隷であるハガルというエジプト人女性をアブラムのところに連れて来ました。当時、女性も生まれた時から自分の奴隷をつけてもらえて、身の回りの世話などをさせていたようです。そしてその奴隷は外国人であることが多かったようなのです。
 2節でサライは、「主はわたしに子供を授けてくださいません」と言います。これは、前のページで神がアブラムに「あなたから生まれる者が後を継ぐ」(創世記15.4)と約束したことを、サライがもはや信じていないことを示しています。
 神の約束が果たされないことにしびれを切らしたサライは、アブラムに「どうぞ、わたしの女奴隷のところに入ってください。わたしは彼女によって、子供を与えられるかもしれません」(16.2)と言います。
 これも、奴隷制というものを実感を持って受け止めきれない私たちにはにわかに信じがたいことではありますが、女性の奴隷を夫の側女(あるいは日本風に言うと妾?)にし、その側女と夫が交わって、できた子供はこの夫の嫡子として取り上げられる、という仕組みがあったのですね。
 つまり、子供というのは、妻と夫の愛し合った結果できるものという感覚ではなく、あくまで大切なのは、夫の嫡男であることであって、女性というのは正妻であろうと側女であろうと、子供を埋めればそれで良いという感覚がこの社会を支配していたということなんですね。
 それに加えて、奴隷のハガルは自分の望んだ人を夫にすることもできず、主人の夫と強制的に関係を結ばされて、子供を産まさせられるという非情な運命を受け入れさせられるわけです。
 そして、アブラムはハガルの住んでいる天幕(テント)に入り、ハガルと関係を持ち、ハガルは妊娠しました。

▼本当の加害者

 4節の後半にはこんなことが書いてあります。「ところが、自分が身ごもったのを知ると、彼女は女主人を軽んじた」。ハガルはサライにはできなかった子供が自分にはできたことで、サライなんかくだらない奴だという態度を露わにして、見下すようになったのですね。これはサライにとっては、これまで以上に強い屈辱になりました。
 考えてみれば、このような女性同士の争いになるのは、当事者の女性同士の問題ではなく、根本にあるのは、女性がいわゆる「産む機械」にされてしまっている、男性中心的な社会のせいで、本当の加害者はアブラムなどが代表している男性側にあるんですね。
 にもかかわらず、男性は「女同士というのは、どうしてこう妬み合ったり、意地を張り合ったりするんだ」と高みの見物のような顔をして、批評をしているだけというのがありがちな実態であります。
 サライが5節で「わたしが不当な目に遭ったのは、あなたのせいです」とアブラムに行ったのは、そういう意味では真っ当なことなんですね。「悪いのはアブラム、あなたなんだ」とサライは勇気を振り絞って夫に言ったわけです。
 ところが、アブラムは自分たちが構成している男性中心主義的な社会に原因があるということがいまいち理解できないんですね。それで、これもありがちな反応ですが、6節で「あなたの女奴隷はあなたのものだ。好きなようにするがいい」と言います。
 「好きなようにするがいい」というのは、言っている本人はうんざりと仕方なく言わされているような様子ですが、考えてみれば一人の妊娠した女性を「好きなようにしろ」と言っているのですから、この男は無自覚なまま、かなり残酷なことを言っているのですね。
 そして、「サライは彼女につらく当たったので、彼女はサライから逃げた」(16.6)とありますが、この「つらく当たった」という言葉は、「残酷な仕打ちをした」と訳してもいい激しい言葉なんですね。つまりサライは、妊娠している女性を虐待したわけです。それはハガルがそこから脱出せずにはおれないほど酷かったということなんですね。しかし、大半が砂漠であるような土地で、部族の群れを離れて一人で彷徨うことになるというのは、確実に死を意味します。ハガルはもう我が子と一緒に死んでもいいと思うほどに、苦しんで逃げ出したと思われるんですね。

▼死なないでくれ、生きてくれ

 ところが7-8節に、そのような命がけの脱出を試みたハガルのところに、主の御使が出会いに来たと書いています。「サライの女奴隷ハガルよ。あなたはどこから来て、どこへ行こうとしているのか」(16.8)この物語の中で、ハガルのことをちゃんと名前で呼んだのは、この天使が初めてです。アブラムもサライもハガルのことを「わたしの女奴隷」、「あなたの女奴隷」としか呼んでいません。初めて神がハガルを一人の人間として認め、「ハガル」と名前で呼んだんですね。
 しかも、この時点では主なる神は、まだアブラムの氏族の神なのに、外国人・異民族であるハガルに、直接主の御使が語りかけるというところにも、この神が「越境する神」というか、「境界線を超えてゆく神」であることがよく顕れていると見ることができます。
 天使は「あなたはどこから来て、どこに行こうとしているのか」と訊きますが、ハガルはどこから来たのかということしか答えることができません。すると天使は「女主人のもとに帰り、従順に仕えなさい」と言います(16.9)。つまり、この主の御使は、「再び、主人であるサライのもとで、困難を味わいながら生きなさい」と言っているわけですね。
 これは残酷な命令のように思えます。しかし、「そこしかハガルと赤ん坊が生き延びる可能性はないのだから、そこに戻ってとにかく生き延びなさい」と告げているようにも受け止められます。つまり、主の御使は「死なないでくれ。生きてくれよ」と告げているのですね。

▼神は聞いておられる

 10節で、更に続けて天使は言います。「わたしは、あなたの子孫を数えきれないほど多く増やす」。これは、エジプト人であり、外国人・異民族の子であるハガルをも祝福するということですね。そして、11節の終わりでは「あなたは男の子を産む。その子をイシュマエルと名付けなさい。主があなたの悩みをお聞きになられたから」と言っています。
 「イシュマエル」という名前の由来は「主があなたの悩みをお聞きになられたから」という風に説明されていますが、その通り「イシュマエル」というのは「神は聞かれる」という意味なんですね。「神は聞かれる」あるいは「神は聞いておられる」。神はハガルの嘆き、悩みをちゃんとお聞きになっているよということですよね。
 そして御使は、そのイシュマエルという男の子がやがて非常に逞しい人に育つことを予言します。12節の後半に「彼は兄弟すべてに敵対して暮らす」と言われていますが、これは、イシュマエルの子孫だとされるアラブ系の人たちが、イスラエルと対立するようになった原因を説明するために入れられている言葉だと考えられます。現在もイスラームの人たちは、自分たちがイシュマエル(アラビア語で「イスマーイール」と言いますが)の末裔であると言っているんですね。ユダヤ教とは異なるけれども、大きな勢力になるだろうということを、ここで御使は予言しているわけです。

▼神は見ておられる

 そこでハガルは御使に答えて言いますね。「あなたこそ、エル・ロイ(わたしを顧みられる神)です」(16.13)。この名前の由来も13節の後半で説明されています。「それは彼女が『神はわたしを顧みられた後もなお、わたしはここで見続けていたではないか』と言ったからである」(16.13)とありますね。
 ハガルは主なる神を「エル・ロイ」と呼びましたけれども、これは「見ている神」という意味なんですね。「神はわたしを見ておられる」、「見ていてくださる」ということです。
 ですから、このハガルと主の御使の対話は、「イシュマエル」と「エル・ロイ」という2つの名前によって、いかにハガルのような、異邦人で奴隷でしかも女性であるという三重苦を抱えた人のことを、主なる神が「聞き、見ている」のかということを読み取ることができるわけです。

▼今も変わらない女性蔑視

 このように、一見、創世記の前半に収められたアブラム(アブラハム)の物語は、イスラエルの祖先であるアブラハムが主人公の男性中心的な物語のように受け取られがちですが、きちんとその周囲の人々の物語まで読んでゆくと、そのような男性優位社会の中で、女性たちがどのような困難を負わせられたか、そして主なる神がそのような女性たちの苦難にどんな風に耳を傾け、顧みられているのかということを学ぶことができます。
 そして、これが3000年以上も昔に起源を持つ物語であるにもかかわらず、実は現代の私たちの生きている世の中でも大差なく流れている不公平の体質と相通じているということを、私たちは自覚しないといけません。
 日本で厚生労働大臣が、女性のことを「産む機械」と表現したのは、まだ記憶にも新しい2007年(1月27日)のことです(たった13年前ですね)。島根県で行われた自民党の県議会員の集会で、「15-50歳の女性の数は決まっている。産む機械、装置の数は決まっているから、あとは一人頭で頑張ってもらうしかない」と、第一次安倍内閣の厚生労働大臣:柳澤伯夫(やなぎさわ・はくお)という人が言いました。翌年の阿部改造内閣ではこの人は「多くの女性票を失った」ということで、内閣からは外されましたね(Wikipedia参照)。
 また、これはつい最近の報道ですが、国連人口基金というところが出している、2020年版『世界人口白書』というデータブックで、ここ20年間で、出生前後に「消失した」女児が1億4000万人以上いることが明らかになったそうです。出産の直前にお腹の中の子供が女の子であるとわかった時点で堕胎させられたり、産まれた赤ん坊が女の子だと、育児放棄(ネグレクト)して死なせてしまったりというようなことがなされているんだろうです。それをしているのが日本がトップというわけではありませんが、生まれる命を選別している社会があって、「男の子が生まれて欲しい」という大人の都合で選別された命が億単位で意図的に消し去られているという現在の世界の、それが現実なのだということに、身震いするような恐ろしさを感じるのは私だけでしょうか。

▼私も男です

 このような男性優位、男性中心的な世の中を作ってしまっているのは、男性側です。また、ほとんどの男性は、自分がそのような特権を居心地の良さというものに気づかず、当たり前のようにのほほんと生きています。
 かくいう私自身も男で、これまで自分が男性であることで、優位に立って生きていることを当たり前のように気づかずに生きていた面が大きいですし、自分が傍観者としてこの男女間の格差に加担していることも、うっすらと気づきながらも、どうにもならないような気がしたまま、この年齢まで生きてきてしまいました。
 しかし、こうして改めて聖書を読むと、主なる神が、しっかりと女性の負わされている苦難に耳を傾け、しっかりと見ておられる。そして、あえてその社会の中に戻って生きなさいとおっしゃっていることがわかります。
 男性としては、自分の鈍感さを恥じ、悔い改め、自分たちが特権にあぐらをかいていることに敏感になり、女性がもっと尊重され、生きやすい世界になるように、自分に何ができるのかと考えて、実践してゆかなければなりません。そのような問いかけを聖書から痛烈に受けるものです。
 苦しみや悩みの中にある人の嘆きが、しっかりと神に耳を傾けていただき、眼差しを向けられているのと同じように、その苦しみや悩みの上に鈍感にあぐらをかいている人のその有り様も、神にしっかりと聞かれ、見られているのだと思うのです。
 本日の説き明かしは以上といたします。





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