山の上で弟子たちが聞いたこと


2020年7月26日(日) 

 日本キリスト教団 徳島北教会 主日礼拝 説き明かし

 牧師:富田正樹

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聖書の朗読&お話(約16分)



 マタイによる福音書5章1−12節 
(新共同訳)
 イエスはこの群衆を見て、山に登られた。腰を下ろされると、弟子たちが近くに寄って来た。そこで、イエスは口を開き、教えられた。
 「心の貧しい人々は、幸いである、
    天の国はその人たちのものである。
 悲しむ人々は、幸いである、
    その人たちは慰められる。
 柔和な人々は、幸いである、
    その人たちは地を受け継ぐ。
 義に飢え渇く人々は、幸いである、
    その人たちは満たされる。
 憐れみ深い人々は、幸いである、
    その人たちは憐れみを受ける。
 心の清い人々は、幸いである、
    その人たちは神を見る。
 平和を実現する人々は、幸いである、
    その人たちは神の子と呼ばれる。
 義のために迫害される人々は、幸いである、
    天の国はその人たちのものである。
 わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。
 喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。」




▼イエスは山で説教をしたか

 今日は、とても残念ですが、山上で礼拝を行うはずだったのですけれども、悪天候とコロナウイルスの感染が再び拡大しているということで、急遽zoomを使ったオンライン礼拝で行うということになりました。7月に入ってから皆さんと対面で礼拝を行うことができて喜んでいたのですけれども、再びこのような事態になり、残念ですけれども、私たちはオンライン礼拝の経験がありますので、臨機応変に対応してゆくしかないし、できるだろうと思います。
 今日の聖書の箇所は、イエスの「山上の説教」のごくごく最初の部分です。最初は山に登って野外礼拝をやる予定だったので、山の上の説教の聖書の箇所を読もうという、大変単純な発想で選んでおりました。
 ご存知の方もいらっしゃいますように、また聖書にも小見出しが印刷してありますように、マタイによる福音書の5章から7章は、「山上の説教(かつては山上の垂訓と呼ばれておりましたが)」として、イエスが山の上で群衆に語ったとされる教えがまとめられているところです。
 まあ実際にはマタイの5章から7章までの長い話を一気にイエスが語ったとは考えられていませんで、イエスが何回も人々に教えた教えを、マタイが編集して、『イエス説教集』という形でまとめたのが、この5章から7章の部分だとされています。
 それから、このマタイの「山上の説教」に収められているイエスのお話は、ルカによる福音書にもかなりかぶった話が収められております。そちらの方では「イエスは山の上で話をした」とは書いておりませんで、逆に「山から下りて、平らな所にお立ちになった」(ルカ6.17)と書いてあります。なので、「平野の説教」とも言われているんですね。
 そういうわけですから、この「山上の説教」なり「山上の垂訓」が行われた山というのは、一体どこの山なのか、果たしてイエスが本当に山に登って説教したことがあったのか、実ははっきりしないんですね。どうもすいません。

▼山上の垂訓教会

 しかし、それではやはり話が面白くないし、ありがたくもないということなんでしょうか。実はイスラエルのガリラヤ湖畔の、ある丘の上に、昔のカトリック教会の人たちが、「ここがイエス様の説教なさったところだろう!」と決めて、そこに「山上の垂訓教会」という美しい教会をお建てになっています(写真参照)。
 そして、もちろん今も毎日、世界中から来る巡礼者や旅行者のために開いていまして、割合広い敷地の中にはいくつもの50〜60人くらいの人が座れる野外チャペルがあって、巡礼の団体さんは、そこで礼拝をしています。
 敷地内の至る所に綺麗なお花が咲き乱れておりまして、あちこちから讃美歌を歌う団体の声が聞こえてきます。言葉は全然わからないんですが、自分が聞き慣れた讃美歌と同じメロディが流れてきたりすると、なんとも言えない感動が胸に湧き溢れてきまして、「ああ、ここも神の御国なのかなあ」という気持ちになってきます、お天気が良かったら、ですけれどもね。
 けれども、幸いにして私がそこを訪れた時はとても天気が良く、しかも、自然の豊かなガリラヤ地方の丘の上ということで、とても気持ちの良い風が吹いていて、最高のロケーション。まさに神の国というにふさわしい幸せな場所でした。
 こういう場所で弟子たちはイエスの教えを聞いたのかなあと思い浮かべると、幸せな気分になってきます。

▼「心の」貧しい者

 この「山上の説教」では開口一番、イエスは「心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである」と言ったと記録されています。
 実はルカによる福音書の方に記録されている「貧しい人々は幸いである」という言葉の方がイエスの実際の言葉に近い、つまり「心の貧しい」の「心の」は、後からマタイが付け加えたのではないかという考え方をする人もいるんですけれども、実際のところハッキリしたことは言えません。
 確かにイエスは「貧しい人は幸いなり」というパンチ力のある言葉を言いそうですけれども、「心の貧しい人も幸いなり」とも言ってもおかしくなかったように感じます。どちらも言った可能性があります。
 マタイの方に記録されている「心の貧しい者は幸いである」というのは、イエスに従う人たちの中に、必ずしも貧困に喘いでいるというところまでは貧しくはなっていない人たちもいることを配慮したのかもしれません。
 今貧困に喘いでいる人たちのことだけを念頭に置いていたのではなく、様々な社会層や様々な経済力の人がいて、より多様化した人々の集まりが、イエスの周囲に集まっていたのだろうと思われます。
 ですから、イエスは若干トゲのある元々の物言いを和らげる意味で「貧しい者は幸いだ!」という言葉を「心の貧しい者は幸いだ」というふうに言い換えた可能性があります。

▼富裕層のような心でなく

 私たちはこの「心の貧しい者」を目指して生きていたいと思うのですが、いかがでしょうか。
 それは日本語でよく言われる「心の豊かな人」の反対語としての「心の中身が乏しい人」という意味ではありません。そうではなく、「心において貧しい者になれ」と。言い換えると、「豊かな人、つまり富裕層のような心は持つな」ということなんですね。
 「富裕層のような、人に苦労をさせて自分だけ不労所得を吸い上げて、そのくせ貧しい者のために寄付のひとつもしないで生きている。その一方で、自分で使いきれもしないような資産をため込むような、そんな浅ましい人間性を持っちゃいけませんよ。墓場までお金を持って行くことなどできませんからね」というような意味なんですね。
 そういう生き方ではなく、謙遜な思いで、色々お互い苦労もあるし、不足するものもあるけれども、助け合いながら、地道に生きていこうじゃないかという、シンプルな意味です。
 続いて、イエスは「悲しむ者は幸い、その人たちは慰められる」、「柔和な者は幸い、その人たちは地を受け継ぐ」と言っています。もう説明の必要もないほど、私たちの生き方のモデルを示してくれています。
 「悲しむ人は慰められる。それがこの世の当たり前のあり方じゃないか」、「柔和な者が、この世界を未来へと維持させてゆくのだ。それがこの世の本来のあり方じゃないか」とイエスは訴えかけてきているのですね。
 続いて、「義に飢え渇く者(つまり、神の前に偽りのない公平で正しい世界や生き方を強く望む者)」、「憐み深い者」、「心の清い者」、「平和を実現する者」、「義のために迫害される者(すなわち、神の前に真っ当な自分たちであろうとするために、世の中から痛めつけられる者)」は幸いなんだと述べています。

▼迫害されたら喜べ

 そして最後に、彼は「わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大いに報いがある。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである」(マタイ5.11-12)という言葉でこの「幸いである」という一連の教えの締めくくりを飾っています。
 どのような人間が真に幸福な人間なのかについてのイエスの教えは、至極真っ当なものだと私たちは信じることができると思います。けれども、そういう生き方を通そうとすると、この世では必ず迫害も受けるんだけどね、ということを彼は予告しているんですね。
 「そんな馬鹿な」と思いたくなりますけど、富や成功を求めない心を持つとか、悲しむ者こそ慰められるような場所が必要なんだとか、柔和な者こそこの世を受け継いでゆくべきなんだとか、そういった私たちの価値観、世の中では嘲られ、軽んじられます。
 世の中には、「人間というのは富や成功を求めるものだ」とか、「人間社会というのは弱肉強食なんだ」という前提が当たり前のようにあって、それに当てはまらない人間はちょっと頭がおかしいんじゃないかと思われてしまう。それが現実というものですよね。
 でもイエスは、そんな風に私たちが世の中から迫害を受け、嘲笑われる時こそ、「喜べ。それはあなたがたが正しい方向に進んでいる証拠なんだから、躍り上って喜べ」とイエスは言い残しているんですね。

▼少しでも近づけたら

 迫害を受けながら、嘲笑されながら、喜び躍って生きてゆくというのは、現実にはなかなか勇気のいることだと思われます。いや、実際には世の中の友人や家族たちから、「お前が信じている正しいものは、明らかにこの世では変な価値観だ」と言われたら、それでも自信を持ちながらこの道を進んで生きてゆくというのは、非常に困難です。
 「ですよね〜!」と言って妥協したり、あるいは、あまりに真面目に悩んでしまったり、真剣にこの世の状況と対立してしまって、体や心の調子を崩してしまったりしてしまうのです。
 けれども私は、そうやって挫折することもイエス様はお見通しでこういうことを言っているのだと思います。
 心において貧しい人、悲しんでいる人、柔和な人、義に飢え渇く人、憐み深い人、心の清い人、平和を実現する人、義のために迫害される人、そしてイエスと共に歩みたいという意志を持っているだけで、罵られ、悪口を浴びせられ、迫害される人。そういう人こそが幸せになる世界でなくてどうするんだ、とイエスは言って、そして彼自身それを貫いて殺されてしまいました。
 私たちには到底そんな勇気はありませんし、そのような人としての生き方、あり方を徹底することも難しいです。
 でも、少しでもそんな人に近づきたい。こんな人間になれたらいいな。こんな人間が幸せになるような世の中を作りたいな。そんな風に思いませんでしょうか。少しでもそんな人、そんな世の中に近づけることができたら、いいなと思うのです。






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