神に逆らってでもあなたを癒したい


2020年8月2日(日) 

 日本キリスト教団 徳島北教会 主日礼拝 説き明かし

 牧師:富田正樹

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聖書の朗読&お話(約21分)



 マルコによる福音書2章1−12節 
(新共同訳)
 数日後、イエスが再びカファルナウムに来られると、家におられることが知れ渡り、大勢の人が集まったので、戸口の辺りまですきまもないほどになった。
 イエスが御言葉を語っておられると、四人の男が中風の人を運んで来た。しかし、群衆に阻まれて、イエスのもとに連れて行くことができなかったので、イエスがおられる辺りの屋根をはがして穴をあけ、病人の寝ている床をつり降ろした。
 イエスはその人たちの信仰を見て、中風の人に、「子よ、あなたの罪は赦される」と言われた。
 ところが、そこに律法学者が数人座っていて、心の中であれこれと考えた。「この人は、なぜこういうことを口にするのか。神を冒瀆している。神おひとりのほかに、いったいだれが、罪を赦すことができるだろうか。」
 イエスは、彼らが心の中で考えていることを、御自分の霊の力ですぐに知って言われた。「なぜ、そんな考えを心に抱くのか。中風の人に『あなたの罪は赦される』と言うのと、『起きて、床を担いで歩け』と言うのと、どちらが易しいか。人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう。」
 そして、中風の人に言われた。「わたしはあなたに言う。起き上がって、床を担いで家に帰りなさい。」
 その人は起き上がり、すぐに床を担いで、皆の見ている前を出て行った。人々は皆驚き、「このようなことは、今まで見たことがない」と言って、神を賛美した。。」




▼中風の人

 皆さん、おはようございます。今日は、本来は平和聖日という日に当たっているんですけれども、コロナウイルス絡みのことですっかり追われていて、教会の暦のことを全く失念しておりました。
 なので、今日は全く違うテーマでお話をさせて頂きますが、ご容赦くださいますようお願いいたします。平和聖日については2週間後の、8月16日(大日本帝国の敗戦の日の翌日)に行いたいと思います。
 今日は、マルコによる福音書から、イエスが「中風の人を癒す」というところをお読みいただくことになりましたが、ここはここでなかなか面白い物語です。
 マルコによる福音書は、30歳ごろになってからのイエスの活動の始まりからを書いている福音書です。クリスマスの誕生物語もありません。1ページ目で洗礼者ヨハネの洗礼を受け、荒れ野で修行をし、洗礼者ヨハネが逮捕されたのきっかけにガリラヤ地方に戻ってきて、4人の漁師を弟子にし、そこから2ページ目に入って、早速最初の活動:人々の病気を治すという活動を始めます。
 そして、私たちが今日読んだのは、その病気治しの活動の真っ最中、3ページ目にある「中風の人を癒す」という物語です。
 「中風」というのは、昔風の呼び方で、今はそのような名前でこの症状のことを呼ぶ人はまずいなくなっているんじゃないかと思いますが、いかがでしょうか。
 手足や顔が麻痺して動かなくなったり、言葉がうまく喋れなかったりする症状のことなのですが、現在ではこれは原因がはっきり特定されていて、要するに脳の血管障害(もう少し具体的には、例えば脳内出血であるとか、脳梗塞であるとか)によって、脳の一部が麻痺してしまい、半身不随になるとか、言語障害といった後遺症が残るのですね。
 ところが古代人はCTスキャンやMRIといった検査方法がありません。頭の中の血管で何が起こっているかということは診断できませんから、彼らにわかるのは、何故だかわからないけど、時々パッタリ倒れるお年寄りがいる。そして、そのまま亡くなってしまう人もいる。
 けれども、奇跡的に目を覚ます人もいる。その代わり、体の半分が動かなくなってしまっている。顔も引きつってしまって表情が歪んでいる上に、本人は喋ろうとしているのに、うまく言葉が出てこないで、ただ呻いている。
 この表に現れる症状だけを見て、古代人たちは「これは神の罰に打たれたに違いない」と判断します。何かはわからないけれども、この人は何か神の怒りにふれる罪を犯して、そして神に罰されたのだと。それが2000年前の診断です。

▼神への冒涜

 さて、イエスはガリラヤ湖畔のカファルナウムという街(ここはガリラヤ湖の北岸に面している当時としては比較的大きな街で、イエスが最初に住み着いた街ということで「カファルナウム:イエスの街」という看板がかかっていて、街の遺跡全体が公園のような博物館として保護されている場所ですが)、この街に住みついていました。
 彼が家にいるときに、大勢の人が集まってきて、戸口のあたりまで隙間もなくなるほどになったとあります(マルコ2.1-2)。
 そこに4人の男が中風の人を運んできて、イエスに癒してもらおうとやってきたのですけれども、群衆に阻まれて中に入ることができません。そこで、4人は屋根に登って、屋根をバリバリバリと剥がして、病人の寝ている床を吊り下ろしたというんですね(3-4節)。
 すると、イエスは彼らのこの熱意を見て、この中風の人に「子よ、あなたの罪は赦される」と言いました(5節)。こういう言い方をしたということはイエスもやっぱり古代の人だなと思いますね。彼もこの中風の症状は神からの罰だと思っていたから、「あなたは赦される」という言葉遣いをしたんですね。
 ところが、この様子を見ていた群衆の中には律法学者が何人かいて、呟くんですね。「神を冒涜している。神お一人の他に、罪を赦すことなどできるはずがないのに!」と。神が与えた罰を人間が勝手に免除するなんていうのは、神に対する反応だとも受け取れるんですね。こんなことを見逃していると、改めて神の怒りを招いてしまう恐れがあるので、こういうことをしているイエスという男は取り締まらなければならない、という考えにやがて発展してゆきます。
 しかしイエスは、この声を聞いてしまうんですね。そこで逆に彼らに問い返します。
 「中風の人に『あなたの罪は赦される』と言うのと、『起きて、床を担いで歩け』というのをどちらが易しいか」。

▼どちらが簡単か

 ここで皆さんにも質問したいのですが、もし自分がイエスだったら、脳血管障害の後遺症で手足と言葉が麻痺している人と、自分を見ている群衆の前で、「あなたの罪は赦される」と言うのと、「起きて、床を担いで歩け」と言うのとだったら、どっちが簡単だと思いますか?
 同じ質問を高校2年生の生徒さんにすると、ちょっと考えた後、大体「あなたの罪は赦された」と言う方が簡単だという風に答える人が多いです。その理由を聞くと、「あなたの罪は赦された」というのは、言うだけなら言えるけど、「起きて、床を担いで歩け」と言っても、本当にそんな奇跡は起こせないから、と言うんですね。
 確かに、最初にイエスが「あなたの罪は赦される」と言ったときには何も起こりませんでした。ですから、本当に罪が赦されているかどうかというのは誰にもわからないことですね。けれども、「起きて、床を担い歩け」と言っても、何も起こらなかったら、イエスは大恥をかきます。みんなイエスのことをインチキだと言って、去っていってしまうでしょう。
 けれども、この時代の場合、「あなたは赦される」ということを言うのも、神の与えた罰を勝手に免除するという意味では、神に対する反逆ですから、「神の怒りを招くかも」と律法学者たちが遅れたように、神の怒りを恐るなら、口に出すのは非常に難しい言葉です。
 ですから、ここでイエスが「どちらが易しいか」と聞いているのは、まるで無神論者のような大胆さがあります。
 そして続けてイエスは言います。「人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう」。そして中風の人に言います。「起き上がり、床を担いで家に帰りなさい」。すると、この人は起き上がり、すぐに床を担いで、皆の見ている前を出て行った。人々は皆驚き、「このようなことは、今まで見たことがない」と言って、神を讃美した(10-11節)と記してあります。

▼罪を赦す権威

 ここでのポイントは、イエスが「人の子は地上で罪を赦す権威を持っている」という宣言であろうと思います。
 ここでの「人の子」というのが何を指すかは色々な論があります。新約聖書でイエスが時折「人の子」という言葉を使いますが、有力なのは旧約聖書のダニエル書の7章に、世の終わりに「人の子のような者が雲のようなものに乗って現れる」と書いてあるところと関連づけて、イエスが自分のことを「人の子」と呼んでいるという理解の仕方です。
 けれども、これはあくまで「人の子」であって、別に「神の子」と言っているわけでもありません。世の終わりのときに雲に乗ってやってくる者だとイエスが自分で思っていたとしても、やはりそれは「人の子」つまり「人間の子」に他ならないのだということを強調する理解の仕方もあります。
 もしこのように理解するとすれば、イエスは「人間は地上で罪を赦す権威を持っているのだ」と宣言したことになります。
 この聖書の箇所の少し前、前のページ、マルコによる福音書の1章21節以降には、「汚れた霊に取りつかれた男を癒す」という小見出しがついた記事があります。
 そして、その22節にこんな風に書いてあります。
 「人々はその教えに非常に驚いた。律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになったからである」(マルコ1.22)。
 「律法学者のようにではなく、権威ある者のように」ということは、律法学者たちは自らには権威がない者のように語ったということですね。どういうことかというと、「私が教えているのは私の権威によるのではない。神の権威によるのだ」と言って教えていたということですね。
 権威主義者というのはこういうものですね。「私が言っているのではない、神が言っているのだ」と言って、神の権威を借りながら、自分の言いたいことを押し付けてきます。それは宗教だけではなく、どんな組織においても言えることですね。お国のために、組織のために、と自分より大きなものの権威で人を威圧しながら、責任はその大きなものに転嫁して済ませている。
 しかし、イエスは「自ら権威ある者のように」教えたとあります。つまり、彼は借り物の大きな権威(すなわち、神の権威、国の権威などを借りてくるのではなく)、自分の権威で言う。1人の人間として、私自身が権威を持っている者なんだという態度で話したということなんですね。
 今日お読みした聖書の箇所においても、63ページの最後のあたり、2章11節で、「わたしはあなたに言う」とイエスは言っています。この「わたしはあなたに言う」とか「はっきり言っておく」という言葉を新約聖書ではイエスはよく発しますが、これが「私自身の権威で言う」というイエスの態度をよく表しているんですね。
 神の権威を借りて言うのではなく、自分の権威で言う。なぜなら人の子(人間の子)は自分自身に権威があるからだ、いうことなんですね。

▼宗教破壊者

 これは、私たちの時代の人間に言わせてみれば、イエスの人権宣言とも言えるものではないかと思います。「人間には生まれながらにその人自身が持つ権威があるのだ」という宣言です。
 律法学者たちは「人間には価値がない。権威もない。権威をお持ちなのは神だけなのだ」と言いながら、自分たちは神の権威を借りて他人を威圧して語るのに対して、イエスは「人間は神のかたちに作られたのだから(創世記1.27)、神と同じような尊い存在なのだ。だから人間一人一人に既に権威があり、一人一人が自信を持って生きれば良いのだ」ということを、自らの態度を通して訴えていったのですね。
 これは私たちの時代から見れば、偉大なる人間中心主義の宣言です。ヒューマニズムそのものです。
 けれども、古代人にとっては神への冒涜、神の権威の否定、宗教の否定でもありました。イエスは無神論者のようにも見えたと思います。ですから、イエスを黙らせないと、イエスを殺さないと、神の怒りがくだると彼らは考えました。そこでイエスへの殺意が起こり、最終的にイエスは本当に殺されてしまうことになります。
 実はこのようなことは今のクリスチャンの間でも起こっていることです。時代錯誤的な信仰を持っている人は、「人間中心主義」あるいは「ヒューマニズム」という言葉を非常に嫌がります。そして「人間が大事なのではない。神が大事なのだ」と言います。しかし、実際にはそう言いながら、自分が相手に対してマウントを取って、威圧的に相手を言い負かそうとするときに、この神の権威を持ち出すことが多いのです。まさに虎の威を借りる狐です。
 この人たちは、実はイエスが「神の権威ではなく、自分の権威で生きるんだ」ということを教えてくれたことを知りません。人間が人間の権威で生きて良いのだ。「病や災いは神の罰だ」といった迷信からは解放されなくてはならないんだと言ったこと。そして、そんなイエスの命を奪ってしまったのは、神の罰の方を恐れた自分たちのような宗教者だったんだということを知りません。

▼人間賛美

 ある意味で、見方によれば、イエスは「宗教破壊者」です。神に権威があって、人間にはどうしようもないという考え方・捉え方をぶっ壊そうとしている人です。
 けれども、イエスには「人間には自ずから『神のかたち』として作られた者としての権威がある、尊厳がある」という信念がありました。「『神のかたち』として『神にかたどって』作られたのだから、一人一人が神のように権威があるのだ」という人間賛美がありました。
 イエスは、宗教を使って神の罰や呪いを唱えて、人間に重荷を載せるのではなく、神の尊いご意志と愛を信じるなら、人間から罰や呪いを取り除いて解放するのが本来の宗教のあり方ではないかという問いを投げかけてくれています。
 イエスは、たとえ「神に反逆する者だ」と全ての宗教的な人たちに後ろ指を差され、殺意を抱かれても、「それでも私はあなたを癒したい」と病の人を癒しました。それは「神の子」としての権威ではなく、「人の子」としての、「人間」としての誰でもが持つ権威のことでした。
 私たちもイエスのように、イエスと共に、自ら神に分けていただいた権威を持つ者として、自信を持って生きてゆきたいと思う者です。






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