流れた血が土の中から叫んでいる


2020年8月16日(日) 

 日本キリスト教団 徳島北教会 平和聖日礼拝 説き明かし

 牧師:富田正樹

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聖書の朗読&お話(約27分)



 創世記4章1−12節 
(新共同訳)
 さて、アダムは妻エバを知った。彼女は身ごもってカインを産み、「わたしは主によって男子を得た」と言った。
 彼女はまたその弟アベルを産んだ。アベルは羊を飼う者となり、カインは土を耕す者となった。
 時を経て、カインは土の実りを主のもとに献げ物として持って来た。アベルは羊の群れの中から肥えた初子を持って来た。
 主はアベルとその献げ物には目を留められたが、カインとその献げ物には目を留められなかった。カインは激しく怒って顔を伏せた。
 主はカインに言われた。「どうして怒るのか。どうして顔を伏せるのか。もしお前が正しいなら、顔を上げられるはずではないか。正しくないなら、罪は戸口で待ち伏せており、お前を求める。お前はそれを支配せねばならない。」
 カインが弟アベルに言葉をかけ、二人が野原に着いたとき、カインは弟アベルを襲って殺した。
 主はカインに言われた。「お前の弟アベルは、どこにいるのか。」
 カインは答えた。「知りません。わたしは弟の番人でしょうか。」
 主は言われた。「何ということをしたのか。お前の弟の血が土の中からわたしに向かって叫んでいる。今、お前は呪われる者となった。お前が流した弟の血を、口を開けて飲み込んだ土よりもなお、呪われる。土を耕しても、土はもはやお前のために作物を産み出すことはない。お前は地上をさまよい、さすらう者となる。」




▼カインとアベル

 おはようございます。今日は、またわたしの都合で日程を変えてしまいましたが、平和聖日礼拝を2週間遅れで持たせていただいております。本来は日本基督教団の平和聖日は毎年8月の第1日曜日です。
 平和聖日を守ろうという提案は、1961年に西中国教区から出ました。西中国教区というと広島県を含む3県を抱える教区で、当然8月6日の広島での被爆、8月9日の長崎での被爆、そして8月15日の敗戦を踏まえての提案であったと思われます。
 昨日の8月15日は日本にとっては終戦記念日とされていますが、韓国においては「光復節」(クァンボクチョル)と言いまして、独立記念日としてお祝いする日であるというのはご存知の方も多いのではないかと思います。独立というのは日本の植民地支配からの独立ですね。
 毎年、この時期になると、日本では「韓国は植民地ではない」、「日韓併合は韓国側も望んで行った対等な併合だ」、「日本は韓国から何も奪っていない。むしろ良いものばかり与えた」とか、好き勝手なことを言い出す右翼の方々が湧いて出て来られます。
 けれども、まあ多くの資料が証拠隠滅のために焼かれてしまったので、実際には数少ない日本側の資料ですが、その中にも「植民地」という言葉は出て来ますし、日韓併合は韓国側の指導者に銃を突きつけて脅迫した状態で行われていますし、日本は韓国人から名前を奪って日本名を強制し、日本語を強制して言葉を奪い、宗教を奪って各地で鳥居を建てて天皇崇拝を押し付け、男性を強制連行しては兵隊あるいは徴用工として働かせ、女性を強制連行しては軍隊慰安婦として利用し、といったことを日本はやってきたわけですね。
 戦後75年ということで、テレビなどでも敗戦と平和についてよく特集番組などが放送される時期ですけれども、どうも日本では、戦争の被害者としての特集はよくなされますが、加害者的な面については掘り下げることが非常に少ないような気がします。

▼ヘイトスピーカーに18万票

 もっとも加害者的な側面を特集して番組を作ろうとしますと、もう今では総理大臣が各テレビ局を押さえて監視している状態ですので、そんな番組はもう望めないかもしれません。
 韓国のドラマを観たり、韓国の歌手を観て楽しむのは、国際親善という意味でもとても良いことだと思うのですけれども、その一方で日本の年配の特に男性の韓国嫌いは相当なレベルにまで高まってきているようで、そういう読者向けの雑誌などは、文在寅大統領がどんなに愚かな人間かを喧伝し、韓国と日本の国旗を向かい合わせた図版を刷って、「韓国は国際社会が見えてない」と批判するなど、言いたい放題です。
 今は嫌中嫌韓というのは、一つの大きな流れになっていて、先の7月上旬に行われた東京都知事選挙でも、当選はしませんでしたが、日本第一党の桜井誠という候補者が18万票も得たということが一つの象徴的な出来事として注目されています。
 この桜井という人は、長い間、「在日特権を許さない市民の会」という会の会長として、「朝鮮人は日本から出て行け! シナ人は帰れ!」とヘイトスピーチのデモ行進を何度も繰り広げてきた人です。この人はテレビではほとんど取り上げられなかったようですが、「ネットでは桜井一色だった」と本人が喜んでいます。
 この人を支持する人が18万人という少なくない数いるんだということに、今の日本人の中でも色々な不満が、中国人・韓国朝鮮人への差別意識という方向性で固まってきているような、嫌な雲行きを感じるような気がいたします。

▼似たものどうし

 中国人・韓国人・朝鮮人に対する敵意とか憎悪というものは、一種の近親憎悪と言いますか、兄弟喧嘩のようなものではないかなと感じることがあります。似たもの同士というか、近いところにいる似た存在で、少しだけ違うから気に入らない。
 例えば、キリスト教内部の争いもそうですけれども、キリスト教と仏教が争うかというと、そういうことは、全く無かったとは言えませんが、そんなに今は多くはありません。
 ところがクリスチャン同士、特にプロテスタントの似たような信仰を持つもの同士が、随分汚い言葉を使って、お互いを侮辱したり、攻撃したりします。同じ教団の中での紛争など、犬も食わないナントカの喧嘩みたいなものですね。
 重なり合う所がほとんどないような相手だと、大して気にならないというか、相手のことがよくわからないから接点がない。逆に、ちょっとした違いが見える似た相手には、「なんでお前が俺と一緒に合わせられないんだ」と腹が立って仕方がないんですね。同じアジアで、同じような顔をしていて、結構文化も重なり合った所が多くて、似ているから、余計に優劣を決めたくなるのかもしれません。
 あれだけ「北朝鮮は最低だ」と笑い者にしていた日本が、北朝鮮とそっくりの報道統制と全体主義的な学校教育に向かって行っていますから、特にここ7〜8年の安倍政権と金正恩政権というのは、本当に似たもの同士という正体が明らかになったんじゃないかなあと思います。

▼農耕民と遊牧民

 今日お読みした旧約聖書、創世記4章は有名なカインとアベルの物語ですが、これは兄弟間の妬みによる殺人の物語ですね。アダムとエバが神様との約束を破った、次の世代で、もう近親憎悪による殺人が起こってしまう。殺人という恐ろしい罪が、人類の歴史の最初の方にもう既に出てきてしまう。しかも、それは全く関係の無い人たちとの戦争ではなく、近親憎悪による殺人である。そういうことをこの物語は私たちに知らせてくれています。
 農耕民となったカインが、遊牧民となったアベルのことを妬むというのは、この物語が昔から伝わってきた元の形は、遊牧民が農耕民に殺される被害を、遊牧民が伝えたものではないかと推測されています。
 イスラエル民族の先祖、ヘブライ人(ヘブル人)は、さらにその名を「ハビル」または「アピル」という呼び名に遡ることができます。「ハビル」、「アピル」というのは、正式な市民に属さないで、奴隷や傭兵などに使われたアウトローの集団のことを指します。
 このアウトロー集団を、モーセやその後継者ヨシュアのような指導者がまとめて、だんだんとヘブライ人というひとまとまりの部族連合となり、王国を建てた時に「イスラエル」という名前を正式に名乗るようになったという流れなんですが、とにかく、元々は先祖を辿れば、放浪の奴隷の民です。
 この放浪の奴隷の民は、自分たちの土地や家というものを持つことができず、したがって農耕ができませんでした。それで、山羊や羊を飼いながら遊牧生活をするしかありませんでした。
 といっても、ユダヤ地方というのは、ガリラヤ湖やヨルダン川を離れるとそんなに水が豊かに湧き出る所はありませんし、そのような水辺は定住民が集落を作って住んでいますから、簡単に近づくことはできません。それでも、たまには乏しい食糧や水を求めて集落に近づくこともあったようですが、その度に羊たちが野菜を食い荒らして、追い払われたりすることも多く、定住民からは「遊牧民は盗賊集団である」、「速攻で追い払え」という認識が広がっていたようです。
 また実際、盗賊として定住民の所に侵入した遊牧民がいたとしてもおかしなことではありませんよね。そして、そんな盗賊が発見されたら、当然定住民のリンチにあって殺され、晒し者にされても何の不思議もないわけです。
 この農耕民が遊牧民を殺す話というのは、その底流には、そのような遊牧民の被害者意識、農耕民に対する憎悪などが含まれていると考えられます。主が遊牧民の献げ物を顧みられるけれども、農耕民の献げ物は顧みられないという風に描かれているのも、遊牧民の言い伝えだから、遊牧民が顧みられるようなお話になっているのかなと思われるわけです。「アベル」という名前が「ハビル」という言葉に似ていることも、それを裏付けるように考えられるんですね。

▼野に出ようではないか

 けれども、基本的にはカインとアベルというのは同じ母から生まれた兄弟で、基本的にはお互いのことがよくわかっている間柄だったわけですね。そして、同じように、自分の働いた結果得られた実りを主(ヤハウェ)に献げました。ところが、このヤハウェは遊牧民の神様なので、お肉の方が好きだったみたいなんですね。だからアベルの献げ物を取りました。野菜は嫌いだったんですね、ヤハウェは。
 その時、怒ったカインに対してヤハウェは、「なぜ怒るのか。もしお前が正しいなら、顔をあげられるはずではないか。正しくないなら、罪は戸口で待ち伏せており、お前を求める。お前はそれを支配せねばならない」と言います。
 このヤハウェの対応はどうなのか。意見が分かれる所だと思います。カインが農産物を献げたこと自体に問題があるとは思えません。カインは間違ったことをしているわけではないのですから、堂々としていてもよかったはずです。
 しかし、不公平な対応をしているのはヤハウェの方ですから、カインがヤハウェに対して怒りを燃やしてもおかしくないのでは、というふうに私は思いますが、皆さんはどうでしょうか?
 カインは確かに妬んだ。しかし、アベルに妬むだけではなく、このヤハウェの対応にも腹を立てたのではないでしょうかね? でも相手は有無を言わせぬ神様ですから、手も足も出しようがない。それで腹いせにアベルを殺してやろうと思ったのではないでしょうか。
 そして、「野に出ようではないか」と。
 この「野に出ようではないか」というセリフは、聖書には書いてありませんけど、Twitter界隈では、「相手に殺意を感じるほどの怒りを覚えた時、どうすればいいですか」という質問に対して、「静かに声をかけましょう。『野に出ようではないか』と」という答えがあったのがバカうけと言いますか、非常に人気が出まして。なかなか良いですよね。「野に出ようではないか」。
 そして野に出て、カインはアベルを殺してしまいます。血が流れ、土がその血を吸い込みました。

▼やってしまったことは消えない

 ヤハウェはカインに言いました。「お前の弟アベルは、どこにいるのか」。これは、アダムとエバが神との約束を破った直後に主なる神が「どこにいるのか」(創世記3.9)と声をかけたことにも通じるものがあります。
 「どこにいるのか」という問いは、「あなたは今、どこの立ち位置にいるのか。何をして、どう思っているのか。自分のことをどう自覚しているのか」という深い鋭い問いだと感じられます。ヤハウェが相手の人間がどこにいるのか知らずに聞いているはずはありません。お見通しなのです。聞かれた人間本人に「私はどこにいるのだろう?」と自分で自分に問いかけることを促しているのです。
 しかし、これに対するカインの答えで、明らかに彼が拗ねていることがわかります。「知りません。わたしは弟の番人でしょうか」。やはり、彼はヤハウェに対しても反感を抱いているのですね。
 ヤハウェは怒ります。「何ということをしたのか。お前の弟の血が土の中からわたしに向かって叫んでいる」。つまり、カインが知らん顔をしようとしても、ヤハウェは全部知っているんだぞ、ということですよね。お前が知らんふりを決め込もうとしても、お前が流した血は土の中から叫んでいるんだ。やってしまったことは消えないんだよ、と。
 そしてヤハウェは呪いの言葉をカインに浴びせます。「今、お前は呪われる者となった。お前が流した弟の血を、口を開けて飲み込んだ土よりもなお、呪われる。土を耕しても、土はもはやお前のために作物を産み出すことはない。お前は地上をさまよい、さすらう者となる」。
 こうして、今日は朗読はしませんでしたが、4章の後半ではこのカインの子孫がイスラエルとは別の系統のいくつかの部族の先祖となっていったことが語られてゆきます。このカインとアベルの物語も、パレスティナ地方のどのあたりの部族がどういう由来を持つかということを説明する昔話(原因譚)の一つなわけですね。

▼被害者でもあり、加害者でもある

 日本人も、自分たちが中国人・韓国人・朝鮮人、その他のアジアの人々に対して、犯した罪を見直してみる必要があるのではないかと思います。日本人が流した血は、日本側の歴史修正主義者がどんなに覆い隠して、「そんなことはやってない」といった所で、相手側の資料や証言を見る限り、一滴も血が流れていない、涙が流れていないということはあり得ません。
 もちろん、日本人の中にも戦争の被害者と言える人々はたくさんいます。原爆や空襲でたくさんの一般市民が殺されました。それも、とんでもなく残虐で無残な殺され方をしました。
 この原爆のおかげで第二次世界大戦の終結が早まったのだという人々がいます。この原爆が落とされたから、助かったアメリカ人がたくさんいたし、日本人の被害者もこれ以上増えることを止めることができたのだという人々がいます。そういう事も単に推論としてだけなら言えると思います。
 けれども、ではそうかといって、原爆で殺された何百万の人々の命は戦争を終わらせるために、捧げられなくてはならなかった生贄だったのかというと、その考えも間違っているだろうと私は思います。明らかに死ぬ必要のなかった人たちが無碍に命を奪われたのです。あってはならない事です。
 また、日本兵の戦死者のうち、最低でも6割から7割は病死と餓死だったそうですね。その軍人たちも、元はみんな国民から徴兵された人々です。この人たちも国家の戦争の被害者と言えます。
 ですから、戦争において、誰が被害者で誰が加害者かということは、簡単に白黒を付けるわけにはいかない事です。けれども、逆に言うと、被害者は加害者でもあり、「自分たちは一方的な被害者だ」と主張することはできません。
 特に、日本人が性奴隷として集めたアジア諸国の女性たちに加えた性暴力、また徴用工として連れて来た男性たちに加えた奴隷労働、そして兵役については、日本は加害者であることを言い逃れできないはずです。

▼血が涙が汗が、土の中から叫んでいる

 かつて大阪府知事でもあった橋下徹という人は、「慰安婦なんて他の国でもやっている」と言っていますが、確かにそれは事実としてはそうです。慰安所も集団レイプも、敵国だったアメリカ、味方だったドイツも、他の国々もやっていました。けれども、「お前のところだってやってたじゃないか。だからおあいこだ」という言い逃れが大人の人間関係や国際関係で成立するのでしょうか。
 私は好きな言い回しではありませんが、百歩譲って「日本人が」という言い方を使わせてもらっても、「日本人として、そういう言い逃れをすることが、恥ずかしくはないのか」と思います。誇りも謙虚さも無い。厚かましい恥知らずでしかない。そんな発言をよく公の場で放つことができるなと思います。
 慰安婦の女性たち、徴用工の男性たちが流した血や涙、汗は、土に飲み込まれ、吸い込まれたかも知れません。しかし、その血や涙や汗が、全てをご存知である神に叫んでいる。そのような感覚を私たちは失ってはならないと思います。
 やってしまったことは消えないのです。償っても償っても返すことができない損失というものが戦争にはあります。私たちは取り返しのつかないものを失い、取り返しのつかないものを奪いました。
 被害者面をして開き直るのではなく、土の中から叫んでいる被害者たちの声を聞き取る学びを続けながら、「あなたはどこにいるのか」、「どこに進もうとしているのか」と問いかける神に恥じない生き方をしてゆければいいな、と望むものです。






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