神なしでは救われないか

2020年9月6日(日) 

 日本キリスト教団 徳島北教会 主日礼拝 説き明かし

 牧師:富田正樹

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聖書の朗読&お話(約26分)



 マタイによる福音書4章1-4節 
(新共同訳)
 さて、イエスは悪魔から誘惑を受けるため、“霊”に導かれて荒れ野に行かれた。
 そして四十日間、昼も夜も断食した後、空腹を覚えられた。
 すると、誘惑する者が来て、イエスに言った。
 「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ。」
 イエスはお答えになった。
 「『人はパンだけで生きるものではない。
  神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』と書いてある。」




▼40日間の断食

 おはようございます。今日は、非常に強い台風10号の接近で、沖縄から九州にかけて、また大きな災害が起こるのではないかと恐れられている中での礼拝です。犠牲になる方、怪我をされたり、家や財産を失ったりする方々がありませんようにと願いながらの礼拝の始まりです。
 さて今日は、よく知られた言葉、「人はパンのみにて生くるにあらず」について心を巡らせてみる礼拝にしたいと思います。
 今日お読みした新約聖書のマタイによる福音書の最初の方、4章は、イエスが「公生涯」(公の生涯)の始まり、つまり、一人の被差別部落出身のしがない大工であった人生をほぼ引退と言ってもいい年齢まで勤め上げた後、ひょっこりと砂漠の洗礼者ヨハネ教団の弟子として、人々の前に姿を表した頃のお話です。
 イエスは洗礼者ヨハネのもとで洗礼を受け、ヨハネの教団の弟子となり、他の弟子たちと同様に修行を受けます。特にこの教団の特徴的な修行の方法は断食でした。
 元々、この教団は、この乾燥地帯で取れるナツメヤシ(デーツ)の実を採集して食べたり、イナゴを捕まえて食べたり、と厳しい生活を自分たちに課していました。けれども、それらの乏しい食べ物さえも絶って、心身を追い込む苦行をすることで、来るべき神の国に入るにふさわしい清い人間となることを望んでいたのですね。
 そして、イエスも40日間の断食を行ったと記されています。40日と言えば、人間が絶食して耐えられる限界の日数のようですけれども、40日という数字そのものは、「荒れ野の40年」とか、「40日40夜降り続いた雨」など、聖書の言葉の世界では、「長い苦しみの時」を表す記号のような数字です。ですから、ここでは文字通り40日間断食をしたということよりも、イエスはこのヨハネ教団で、大いに苦しみ、悩んだということが改めて強調されているのだと受け取るのが良さそうです。

▼荒れ野のマナ

 さて、断食の修行で腹が減って、頭が朦朧としていたのか、イエスのそばに「誘惑する者」がやってきます。この「誘惑する者」は、既に「悪魔」であるとも紹介されています。
 悪魔は「お前、腹減っただろう? お前が神の子なら、これらの石がパンになるよう命じたらどうだ? それくらいのことなら朝飯前だろう」とでも言うように、誘惑をかけます。
 するとイエスは、
 「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」
 と、キッパリ断ります。
 「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」というのは、旧約聖書の申命記8章3節の言葉なんですね。
 その申命記の8章3節にはこう書いてあります。
 「主はあなたを苦しめ、飢えさせ、あなたも先祖たちも味わったことのないマナを食べさせられた。人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きることをあなたに知らせるためであった」(申命記8.3)。
 これは、ユダヤ人の先祖のイスラエルの民が、エジプトを脱出してから40年間荒れ野を放浪して、自分たちの安住の地に定着することができなかった。その苦しい時に、イスラエルの人たちは食物の備蓄が無くなってモーセに愚痴を言いました。「あーあ、エジプトにいた時には、肉のたくさん入った鍋と、パンを腹一杯食べられたのになあ。美味くはないけれど、そこそこビールも飲めたしよぉ」と泣き言を言いました(出エジプト16.3)。
 そんなイスラエルに神は毎朝、マナという不思議な白い食べ物を出現させて、多すぎず、少なすぎない量の食物をイスラエルが毎朝採集できるようにしました。申命記の8章でモーセは、そのようにしてギリギリのところで自分たちを養ってくださった神の思いをよく思い出せ、と言っているのですね。
 「腹が減った。もっとうまいものを食わせろ」と人は言うことがあります。そういった愚痴や泣き言そのものが裁かれるわけではありません。けれども、この主の試みを経験すれば、「あなたの心にあること」(申命記8.2)が明らかになり、あなたが神に対してどこまで純粋に生きようとしているかが明らかになる。「あなたの神、主があなたを訓練されることを心に留めなさい」(8.5)とモーセは言うのですね。
 イエスはその旧約聖書の箇所を、断食の修行中に思い出したので、その聖書の言葉通り、悪魔に対して反論したわけです。

▼愛を注がれて育つ生き物

 ところで、「人はパンだけで生きるものではない」と言うのは、キリスト教を知らない人でも、なんとなく受け入れやすい言葉ではないかなと思いますが、いかがでしょうか?
 「人はパンだけで生きるものではない」というのは、バターもハムも卵も必要だというような意味ではありませんよね。つまり、口から食べるものだけで人間は生きているのではない、ということですね。
 口から栄養分を摂ってさえおれば、それで人間は人生を生きてゆけるというものではありませんよね。
 人は生まれる前から、安心感を与えられて、生まれてからも口から甘い栄養を、肌から触れ合いを、鼻から心地よい肌の匂いを、目から温かい眼差しを、耳から優しい言葉をかけられて……つまり愛を降り注がれることが育つためには必要です。
 そしてやがて、自分で動き、学び、考え、言葉を発して、やりとりをするという人との繋がりの中でも、愛をいう基礎に基づいた関係の中で、子どもは育ちます。
 もちろん、それは理想論であって、どこの子でも完全な愛に恵まれた環境で育つということは、現在の日本ではなかなか難しいことです。けれども、人が人として育つためには、できる限りの愛が注がれるべきなのだということはお分かりいただけるのではないでしょうか。
 そして、それは実は人間だけでなく、犬や猫でも愛に応えてくれるというのは、私たちは経験上知っているのではないかと思うのです。みんなパンだけで生きているわけではない。そう言えるのではないかと思います。

▼神なきこの国で

 ところが、今回のイエスの言葉の後半の部分、「(人は)神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」という言葉を聞くと、そこは神への信仰を持たない人には分かりにくいだろうし、クリスチャンであったとしても、それがどうしてなのかと問われた時に、どう説明したらよいのか分からなくなってしまうことが多いのではないでしょうか。
 別に「神の言葉」なんか無くても、人間は生きて行けるんじゃないか。実際、今の日本でも「神なし」で生きている人はたくさんいるじゃないか。別に神の言葉なんて生きるために必要なものじゃないんだよと、確かに今の日本はそういう風潮が蔓延しています。
 けれども、今の日本って、ある意味「神なし」で生きることの弊害によって、過去最大の危機を迎えているような気もするんですね。
 国家のトップが嘘をついても、出まかせを言っても、犯罪を犯しても、その証拠を改竄したり隠蔽したり廃棄したりしても、誰も追求することができない。憲法に基づいて国会の開会要求がなされても従わない、物価は上げますよ、税金は上げますよ、しかし国民は自助努力で頑張りなさい。「あなた払う人。私使う人」。
 そして、そんな国のトップがテレビ番組で人気者扱いされると、ほとんどの国民が踊らされて、それだけで支持率がうなぎ上りになる。国の権力者と仲良しなら、女性をレイプしても、交通事故で人を殺しても、公務員が責任感から自ら命を絶ってしまっても、雲隠れして何もなかったように装うことができます。
 「どんなに悪いことをしても、権力があれば見逃される。だから、権力の強い方についた方が合理的だ」という考え方が日本人の多数派を占めるようになりました。
 国民の倫理観・道徳観をここまで破壊してしまった政治の責任は非常に大きいと思います。国のトップがこんなに道徳観が欠けているのに、どうやって子どもたちに道徳教育をやれなどと言えるのか、その図々しさ、恥知らず、厚顔無恥には天晴というしかない。
 私は、別にみんながクリスチャンにならなければいけないとまでは思いません。しかし、何教の信者であるにかかわらず、人間一人一人の存在が、ただそこに生きているだけで、神のように(あるいは仏のように?)尊い価値を持っていて、すべての人が愛されなければならないし、愛し愛されることによって一度きりの人生を幸福に生きることができるのだという、シンプルでいいから宗教的な価値観なり世界観、あるいは想像力を持っていることが、とても大切だと思います。
 そのような価値観・世界観・想像力が欠けているから、利権に溺れてしまうと、「これは人間としてやってはいけない領域なのではないか」という良心のブレーキが働かなくなり、「これ以上やったら、どれだけの人間を苦しませることになるのか」という感覚が無くなってしまうのでしょう。
 そのような価値観・世界観・想像力は、個々の人間の思いつきの良心では無く、個々の人間を超えた、すべての人間を包む愛があるという感覚をある程度持たないと生まれないものだと思います。

▼12のステップ

 皆さんは「アルコホーリックス・アノニマスの12のステップ」というものをご存知でしょうか。聞いたことがあるという方もいらっしゃると思います。
 「アルコホーリック」というのはアルコール依存症患者のことで、「アノニマス」というのは「無名の」という意味ですね。直訳すると「無名のアルコール依存者たち」とでも言いましょうか。でも、大抵は「アルコホーリックス・アノニマス」を略して「AA」と呼ぶことが多いですね。
 この「AA」はアルコール依存者の自助グループで、互いに依存症によっていかに人生を破壊してしまったかを告白し合い、「今日1日を飲まないで過ごす」という成功体験を積み上げながら、毎日を生きてゆくために、「12のステップ」という成長段階の目標の表を使っています。
 今日、その全部を読み上げることはしませんが、最初のいくつかを紹介しますと、こんな感じです。
 「1. 私達はアルコールに対して無力であり、生きていくことがどうにもならなくなったことを認めた」。これが最初のステップです。
 「2. 私達は自分より偉大な力が、私たちを正気に戻してくれると信じるようになった」。これが第2段階です。ここでもう既に「自分より偉大な力」という表現が出てきます。
 「3. 私達の意志と生命の方向を変え、自分で理解している神、ハイヤーパワーの配慮の下に置く決心をした」。これが第3段階。神というのは「自分で理解している神」、「ハイヤーパワー」という理解でいいとされていますよね。何々教の神様でなくてもいいんです。「自分で理解している神」でいいんですね。
 そして、集会の最後にはみんなで、ラインホールド・ニーバーというアメリカの神学者が唱えた祈り、「セレニティ・プレイヤー(Serenity Prayer)」と英語で言いますけれども、まあ日本語では「心の静けさを求める祈り」とでも訳しましょうか。この祈りを捧げます。これもご存知の方は多いと思います。いろんな日本語訳が出ていますけれども、大方こんな内容です。
 「神よ、わたしたちに
  変えられないことを受け入れる悟りと
  変えられなければならないことを変える勇気と
  それらを見分ける知恵をお与えください。」
 このように「AA」の活動はキリスト教の影響を大きく受けていますけれども、参加者にはキリスト教を強制することなく、「自分で理解している神」でいいから、神を想定してごらんなさい、ということを求めます。
 そして、今はこの12ステップの方式が、この「AA(アルコール依存の問題に取り組む自助グループ)」だけでなく、「NA(ナルコティクス・アノニマス:薬物依存者の自助グループ)」や、「EA(イモーションズ・アノニマス:感情や情緒など精神的な健康を崩している人のグループ)」にも取り入れられて広がってきているんですね。

▼自分の理解している神でいいから

 宗教の種類に限らず、何らかの自分を超えた何者かの存在を前提にすることで、人は自分の破れた人生のほころびを直し、同じ苦しみを知っている仲間と一緒に、もう一度自分の人生を生きるに足るものにしていこうと歩き出すことができるようになります。
 この「特定の宗教に偏らないで、自分なりに理解している神(ハイヤーパワー:より高い力)を思い浮かべ、祈りつつ、自分が導かれていることを信じる」というのは、なかなかいいアイデアだと思うんですね。
 ここでは、「あなたの神は、間違っている」とか「本当の神様というのはこういうものです」とか、いらんことを言ってくる人はいません。自分が思っている通りの神様でいいんです。
 そして、実は教会でも、そんなもんでいいんだよと私は思います。
 本当は神さまなんか誰も見た人はいないんですから(ヨハネの手紙一4.12)。それに、いくら偉い神学者が難しい理論をこねて一生懸命説明しても、その理論が理解できなかったら、神様のことが分からないというものでもありません。「神は愛」だから「愛する者は神を知っている」(ヨハネの手紙一4.7-8)とも聖書に書いてあります。
 もし、立派な神学者が言うことがわからなかったり、難しい教義がわからなかったりしたら、神様を知ることはできないと言うのなら、知的な面でハンディを持つ人は神を知ることはできないでしょうか? 私はそんなことはないと思います。
 なぜなら、「神は愛」であり、「愛が神」だからです。
 愛が人を育てるとしたら、それはその人は神を知っているということです。そして、自分なりの神でいいから、神を思うことを知っていれば、そんな人が増えれば、世の中を破滅から救うことができると私は信じています。
 皆さんはいかがお感じになるでしょうか。本日の説き明かしは以上です。






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