マルタもマリアも

2020年9月13日(日) 

 日本キリスト教団 徳島北教会 主日礼拝 説き明かし

 牧師:富田正樹

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聖書の朗読&お話(約20分)



 ルカによる福音書10章38-42節 
(新共同訳)
 一行が歩いて行くうち、イエスはある村にお入りになった。すると、マルタという女が、イエスを家に迎え入れた。
 彼女にはマリアという姉妹がいた。マリアは主の足もとに座って、その話に聞き入っていた。
 マルタは、いろいろのもてなしのためせわしく働いていたが、そばに近寄って言った。
 「主よ、わたしの姉妹はわたしだけにもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか。手伝ってくれるようにおっしゃってください。」
 主はお答えになった。「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。」




▼もてなしと御言葉

 おはようございます。今日はルカによる福音書の「マルタとマリア」と小見出しのついている聖書の箇所をお読みしました。
 この箇所については、よく、「食事の準備やその他の様々な奉仕よりも、御言葉を聞く方が大事なのである」という風に、古典的な解釈では言われてきたところです。
 そして実際、このルカという福音書記者は、そういうバイアスのかかった書き方をしています。ルカにとってみれば確かに、ここで書かれている「いろいろのもてなし」という奉仕よりも、「主の足もとに座って御言葉を聞く」ということの方が大事なのですね。
 しかし、私たちはこのようなルカの考え方そのものが、ちょっと問題があるのではないか、しかもルカ自身が他の部分で書いてあることとも矛盾するのではないか、という風に批判的に読んでみようと思うわけです。
 今日、他に参照しようと思っているのは、同じルカによる福音書の9章に収められている「五千人に食べ物を与える」という記事と、やはりルカによる作品である使徒言行録(使徒行伝)の6章の初代教会に関する記事です。

▼五千人に食べ物を与える

 まず、ルカによる福音書の9章10節以降(新共同訳聖書ですと、新約の121ページ以降のところですね)を、開いていただけますでしょうか。
 使徒たちがそれぞれの活動からイエスのもとに帰ってきて活動報告をしたあと、イエスと使徒たち一行は、ベトサイダという街に退きますが、多くの群衆がイエスを追ってついてきます。そこでイエスは、神に国について押してたり、治療の必要な人を癒したりしていました(ルカ9.11)。
 やがて日没が近づいたので、12人の使徒たちは「群衆を解散させてください。そうすれば、周りの村や里へ行って宿をとり、食べ物を見つけるでしょう」(9.12)とイエスに言います。
 するとイエスは「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい」(9.13)と言います。使徒たちは「私たちにはパン5つと魚2匹しかありません」と言うのですが、イエスはそのパン5つと魚2匹を取り、賛美の祈りを唱えて群衆に配ると、「すべての人が食べて満腹した」(9.17)。しかも残ったパン屑だけでも12籠もあった、という話ですね。
 このエピソードは4つの福音書全部に共通して記されている物語です。4つの福音書全部に載っている話というのは、実は2つしかありませんで、その2つは受難物語(すなわちイエスが十字架につけられて殺された時のことと)、この五千人に食べ物を与えた話だけです。他のエピソードはどれも、3つの福音書にまで載せられているという話はありますが、4つに載っているというのは他に無いんですね。
 ですから、単純に言って、この話が初期のキリスト教会にとって非常に大事な伝承であった、イエスの活動の中でも最も大事なことと考えられていた可能性が高いんですね。

▼あなたがたが食べ物を与えなさい

 この五千人の給食の話でも、最も重要なポイントとなるキーワードは、このルカによる福音書9章の13節、「しかし、イエスは言われた。『あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい。』」というところであると私には思われます。
 12人の使徒たちが「群衆を解散させましょう。宿と食べ物は自分たちで見つけるでしょう」と言っているのに、イエスは「あなたがた(つまり使徒たち)が食べ物を用意しなさい」と言っているのですね。
 それまで、神の国についての教えと、病人の治療をメインで行っていたのだけれど、ここでイエスは「食べ物を(また場合によっては宿も)用意するのは、使徒たちのやることなんだよ」と言っているんですね。
 このような聖書の物語は、もちろんイエスの言ったこと、行ったことの記録でもあるんですが、それだけではなく、それらの伝承を編集した福音書記者から、読者である後のキリスト教会の人々へのメッセージでもあります。
 ですから、このイエスの言葉は、単にイエスがそう言ったというだけでなく、「キリスト教会においては、人々の食事を用意するのも大事な奉仕なんだよ」、「あなたがたが食事に困っている人には食事を用意しなさいよ。それが教会の務めだよ」というメッセージを読者に伝えようとしているのですね。
 ですから、初代の教会の人々は、共に食べるということ、それもこの17節に書いてあるように「満腹になるまで」食べるということを教会の大切なわざとして、実践しようとしていたわけです。
 それが12人の使徒たちの仕事であるとイエスが言った、ということは、まさにそれがイエスの弟子としてふさわしい仕事だということなんですね。

▼2つの奉仕

 ところが、一番最初はそうだったはずなのに、ちょっとした異変が生じたことが、同じルカが書いたと言われる、福音書の続編「使徒言行録」という本には記録されています。
 使徒言行録の6章(新共同訳聖書では新約の223ページ)では、こんなことが書いてありますね。
 「そのころ、弟子の数が増えてきて、ギリシア語を話すユダヤ人から、ヘブライ語を話すユダヤ人に対して苦情が出た。それは日々の分配のことで、仲間のやもめたちが軽んじられていたからである。そこで十二人は弟子をすべて呼び集めて言った。「わたしたちが。神の言葉をないがしろにして、食事の世話をするのは好ましくない。それで、兄弟たち、あなたがたの中から“霊”と知恵に満ちた評判の良い人を七人選びなさい。彼らにその仕事を任せよう。わたしたちは、祈りと御言葉の奉仕に専念することにします」(使徒6.1-4)。
 これを読むと、ルカが「祈りと御言葉に奉仕する」12人の使徒と、「食事の世話をする」7人の選ばれた人の間にはっきりと分業がなされたように書かれていますし、どこか「祈りと御言葉の奉仕」を引き受ける12人の方が上に立っている(少なくとも12人はそう思っている)ような印象を受けます。
 ところが、この使徒言行録をさらに後ろの方まで読んでゆくと、この7人が決して食事の世話を専門にしていたのではなく、例えば5節で、この7人の筆頭に名前が挙げられているステファノという人は、勇敢にイエスの福音の話を演説して、最初の殉教者になりますし、2番目に名前が紹介されているフィリポは、旅の宣教者になって、エチオピアの宦官に洗礼を授け、キリスト教会で最初にセクシュアル・マイノリティに洗礼を授けた人になります。
 そのように、7人の「食事の奉仕をする人たち」と一応ルカが書いている人たちも、実態としてはイエスのことを宣べ伝える奉仕をやっていた。だから、御言葉に仕える奉仕と食事の世話をする奉仕というのは、当初は完全に分けられるものではなかったということがわかります(少なくとも7人のこの選ばれた人たちにとっては)。
 けれども、ルカはなぜか、この聖書の箇所で12人の使徒たちの方が祈りと御言葉に専念し、上に立っているような態度でいるのを描いています。

▼マルタとマリア

 さて、ここで再び最初の聖書の箇所、今日のテクストに戻ってみます。ルカによる福音書10章38節より(新共同訳の新約127ページです)、「マルタとマリア」の記事ですね。
 39節で、妹のマリアが「主の足もとに座って、その話に聞き入っていた」とあります。この「主の足もと」あるいは「主のそばに座る」という表現は、「イエスの弟子」として仕えるという意味を持っているという解釈があります。
 当時のユダヤ人の常識では、女性が男性のラビ(教師)の弟子となって直接に学ぶということは、まずありえないことでしたから、これはイエス派の弟子集団においては、女性と男性の分け隔てがいかに少なかったかを示すものです。
 しかし、その一方で40節では、姉のマルタは「いろいろのもてなしのためせわしく立ち働いていた」と書いてあります。この「もてなし」という日本語に訳されている言葉は、元の言葉では単に「仕えること」「奉仕」という言葉で、実は初代の教会の中で使われていた、食事や癒しなどの奉仕のことを指す言葉なんですね。
 そして、初代教会で食事の奉仕といえば、なんと言っても「主の晩餐」、つまり「愛餐会」と一体化していた時代の「聖餐」の準備という、かなり重要な奉仕でした。
 先ほど、使徒言行録の記事を参考に読みましたが、そこで初代教会では、本来は「食事の奉仕をする人」と「祈りと御言葉の奉仕をする人」は、はっきりと分けられるものではなく、実際には「“霊”と知恵に満ちた評判の良い人」が「食事を奉仕をする人」に選ばれ、その人が「祈りと御言葉の奉仕」をも大いに果たしていたということを確認しました。
 しかし、その一方で、これらの記事を書いたルカは、12人の使徒の間では「祈りと御言葉の奉仕」の方が格が上だという思い込みがあったことも述べていますし、今日の聖書の箇所である「マルタとマリア」の記事でも、「祈りと御言葉の奉仕の方が『良い方』だ。『必要なのは1つだけだ』」という、かなりバイアスのかかった言葉も書かれています。
 これをどう理解すればいいのか。

▼「職制」が生まれる前と後

 これは一つの推測ですが、そもそも生前イエスが弟子たちと共に活動していた時は、イエスが御言葉を語り、食卓を用意する仕事を、弟子たちもイエスと一緒にやっていた。だから、当初は御言葉の奉仕も食卓の奉仕も分け隔てはなかった。むしろイエスは、「食卓の用意をするのが私の弟子の仕事だ」とまで言っているような含みがありました。
 ところが、イエスが亡くなった後、12人の使徒がエルサレムの教会を維持していこうとしていたある時点で、「自分たちは祈りと御言葉の奉仕に専念する」という形で、奉仕の内容と「御言葉と食事」という形で切り離そうとしたんでしょうね。
 さらに後には、パウロが手紙を書いた頃には、教会の中に「使徒」、「預言者」、「教師」その他諸々、あるいは「奉仕者」といった「職制」(教会の中の役職のようなもの)ができていることがわかります(第1コリント12.28など)。
 そして、実際にはルカが福音書を書いたのは、パウロの手紙よりも後のことですから、ルカ自身は「御言葉の奉仕者」の方が「食卓の奉仕者」よりも尊い仕事なのだと思っていたのでしょう。そういう職制の間に格差がある、そのような時代に既になってしまっていたのでしょう。ですから、マリアの方が「良い方を選んだ」という記事を書いてしまった。

▼マルタもマリアも

 しかし、そもそもは、イエスにおける共同体においては、食卓の奉仕こそがイエスの弟子に相応しい奉仕だった。イエスは迷う人に教え、治療を必要とする人を癒し、食べ物に事欠く人に食べさせたかった。それらすべてのわざが神の国の先取りであり、弟子たちにはこのイエスの宣教に加わる仲間であって欲しかったわけです。
 ですから私たちは、このルカの記事を、「こう書いてあるから、これが正しい」と思い込むのではなく、時には批判的に読んで、マルタとマリア、どちらが尊いかという論議に巻き込まれないようにしたいと思うのです。
 マルタもマリアも本来は同等な奉仕者です。単にそれは自分に向いていると思う奉仕を選んで、「自分にとって『良い方』」を選んでいたにすぎません。
 あるいは、マルタは炊事が得意で、マリアはそのようなことが苦手だったのかも知れません。逆に当時、炊事を含めた家事が苦手な女性というのは、女性としての存在価値が無いというような偏見をぶつけられて、どこにいても居場所がない生きづらさを感じていた可能性は高いですし、実はマリアの方がマルタに大きな劣等感を感じていたかも知れません。
 もしそうであったなら、そのようなマルタにとってイエスの言葉を学び、それを人々に伝えるという(つまり教師的な)奉仕があるという道が開かれていることは大きな喜びだったでしょう。
 本来は、マルタもマリアも、共に御言葉を聞き、癒し、食べる共同体の、大切な奉仕者でした。そのことを心に留めて、これからの教会の歩みについても考えてゆけたら、と思っています。






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