生かされている間に愛せるだけ愛そう

 2020年11月1日(日) 

 日本キリスト教団 徳島北教会 永眠者記念礼拝 説き明かし

 牧師:富田正樹

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聖書の朗読&お話(約19分)



 マルコによる福音書12章18−27節 
(新共同訳)
 復活はないと言っているサドカイ派の人々が、イエスのところへ来て尋ねた。
 「先生、モーセはわたしたちのために書いています。『ある人の兄が死に、妻を後に残して子がない場合、その弟は兄嫁と結婚して、兄の跡継ぎをもうけなければならない』と。ところで、七人の兄弟がいました。長男が妻を迎えましたが、跡継ぎを残さないで死にました。次男がその女を妻にしましたが、跡継ぎを残さないで死に、三男も同様でした。こうして、七人とも跡継ぎを残しませんでした。最後にその女も死にました。復活の時、彼らが復活すると、その女はだれの妻になるのでしょうか。七人ともその女を妻にしたのです。」
 イエスは言われた、「あなたたちは聖書も神の力も知らないから、そんな思い違いをしているのではないか。死者の中から復活するときには、めとることも嫁ぐこともなく、天使のようになるのだ。死者が復活することについては、モーセの書の『柴』の個所で、神がモーセにどう言われたか、読んだことがないのか。『わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である』とあるではないか。神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。あなたたちは大変な思い違いをしている。」




▼自分なりの最善の終わり方

 今日は11月第1週ということで年に1回の永眠者記念礼拝ということになります。歴史の長い人数も多い大きな教会ですと、50人とか100人もその教会の会員で亡くなった方々のお名前を呼んでお祈りをするということもありますが、私たちの教会は人数も多くありませんし、歴史的経緯もあり、お名前を呼ぶことができるのは、まだお一人だけという状況です。まるで、とても新しい教会みたいですね。
 さて、ここにいらっしゃる皆さんの中で、私は大体平均年齢くらいかなと勝手に思っています。それで、ちょっと早いかも知れないのですが、ふとしたきっかけがありまして、最近時間のある時にエンディングノートのようなものを少しずつ書き始めました。
 これが書き始めると結構面白くて、相続のことがどうのこうのというような事務的なことより、誰にどういう順番に連絡してもらうのがいいかとか、遺体はどのようにしてくれとか、葬儀はこんな風にしてくれとか、ついついそういったことに凝ってしまい、ちょっとハマってしまいました。それで時々パソコンを開いて、メモ帳のアプリにそういったことを少しずつ書いていくのが最近の私の趣味みたいになっています。
 まあそもそも私自身が、小学校の時から、死に対する関心・死に対する恐怖から宗教というものに関心を持ち始めたということもありますので、宗教を信じたからといって人間誰しも死から逃れることはできないということに納得してからは、どんな風に生きて、どんな風に死に、死んだ後の始末をどんな風につけるか、それを自分なりに最善の形にして去ってゆくのかということが、結局最大の関心事になったというのは、私にとっては自然なことかなという風にも思います。

▼レビラート婚

 今日お読みした聖書の箇所の話は、死んだ人が復活することについての、イエスとライバルたちの論争です。
 死んだ人が再び起こされるということはない、と言っているサドカイ派の人たちがイエスに論争をふっかけてきたということは、イエスは死者が再び起こされるということはあると信じていたということになります。
 もっとも、それはイエス独自の考えではなくて、その時代の多くのユダヤ人がそのように信じていたんですね。特に、よくイエスの敵のような登場の仕方をするファリサイ派の人たちなどは、「やがてこの世の終わりがやってきて、眠っていた死者たちが目覚めさせられて、神の裁きを受けるだろう」と信じていたんですね。この点においてはイエスとも一致していたわけです。
 サドカイ派というのはそんなことはあり得ないと言っていたので、イエスを困らせてやろうと思って、7人の兄弟の妻になった女性の話を作ってイエスに質問していますね。
 7人の兄弟がいて、まず長男が1人の女性と結婚する。ところが跡継ぎの男の子を残さずに死んでしまう。そこで、この女性は次男と結婚する。ところが次男も男の子を残さずに死んでしまったので、この女性は今度は三男と結婚させられることになる。
 このような結婚のルールは「レビラート婚」と呼ばれます。何よりも跡継ぎの男の子を産むことを至上命令とされている古代のユダヤ人、その先祖のイスラエル人の時代から、そのような結婚の方式が強制されてきたんですね。
 そして、このサドカイ派の人たちの話によれば、その女性は7番目の弟と結婚させられて、しかし男の子が生まれないまま、最後はみんな死んでしまった……。
 「さて、死んだ人間がこの世の終わりにみんな復活させられるのだとしたら、この女性は一体誰の妻ということになるんですかね? 何せ7人と結婚したんですからね」というのが彼らの質問なんですが、復活があるのか、ないのかという論議とは直接関係の無い、ただ相手を困らせようとするだけの、くだらない質問です。

▼性別役割や結婚からの解放

 これに対してイエスは、いかにもくだらない質問だと言わんばかりの勢いで、こう言っています。
 「あなたたちは聖書も神の力も知らないから、そんな思い違いをしているのではないか。死者の中から復活するときには、めとることも嫁ぐこともなく、天使のようになるのだ」(マルコ12.24-25)。
 一見、何を言っているのかよくわからないような言葉ですが、「めとることも嫁ぐこともない」というのは、要するに結婚というものをしない。死者の中から再び起こされる時には、天使(つまり天からの使い)のようになっている。天からの使いには結婚という概念が無いんだと言っているわけなんですね。
 天使というのは、代表的なのはガブリエルとかミカエルとかがいると聖書にも書かれていますけれども、どれも女性か男性か性別ははっきりしません。そんな天使のようになるということは、復活した時には人間は性別とか結婚というものとは関係ない存在になるんだ、とイエスは考えていたことになります。
 これは、イエスと同じ時代に生きていた人々にとっては、随分突拍子もない考えのように感じられたのではないかと思います。何しろ、性や結婚というものは子孫を残すためのものだという考えしか無かった時代です。そもそも恋愛というもの、自由恋愛や二人の合意による恋愛結婚という概念自体が無かった時代です。
 そのような時代に、人間がそのような制度として強制された性別役割や結婚制度というものから解放されている状態を思い浮かべること自体が、大抵の人には難しかったでしょう。しかしイエスは、それをサラリと言ってのけたわけです。

▼多様なる人の愛

 ところが、この発想は、2000年前の一般人にとっては突拍子も無いものだったかも知れませんが、案外現代人の私たちの方が理解しやすいのかも知れないな、と私は思います。
 何しろ、2000年前の人たちは、平均寿命が30歳くらいです。10代半ばには父親が決めた相手と結婚させられ、子どもを作って、その子どもが10代半ばになって結婚を決めたら、あとは死んでゆくだけの生涯です。
 けれども、現代の私たちは、その倍以上も長生きをします。一対一の男女が結婚しても、ほぼ同じ時期に世を去るかどうかはわかりません。相方が亡くなった後も、かなり長い期間を生きる人もいます。そんな人の中には、改めて新しいパートナーを見つけて、孤独ではない新たな人生を歩む人もいます。
 また、一対一の男女ではない、男同士、女同士のカップルで生涯を共に生きる約束を交わそうという人もいます。そのようなカップルは、その2人だけでは子どもを作ることはできません。しかし、里親になるなどの方法で子どもを育てたいと望む同性カップルも出てきています。
 そのような、様々な愛の形が、本当はあったはずなのですが、無いことにされて、隠されたり、目を背けられたりしてきました。しかし、今は、人間という生き物がいかに多様かということが明らかになってきています。人間の愛というのは実に多様なのです。

▼生きた者に働く神の力

 続いて、イエスはこう言います。
 「死者が復活することについては、モーセの書の『柴』の個所で、神がモーセにどう言われたか、読んだことがないのか。『わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である』とあるではないか。神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。あなたたちは大変な思い違いをしている」と。
 「モーセの書の『柴』の個所」というのは、旧約聖書の出エジプト記に書いてある、モーセの前に神が現れて、名乗るシーンですね。
 「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である」と書いてあるから、なんで「死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ」と言えるのか、よくわかりません。神は、その時々に生きている人間の、その時々の場面において共に歩む神なのだという意味なのかも知れません。とにかく、神は「生きている者の神であって、死んでいる者の神ではない」と。
 こうやってイエスの言葉をもう一度見直してみると、「あなたがたは聖書に書かれてあることもわかっていない。神の力もわかっていない。人間は死んで再び起こされる時には、性別の役割からも、性別そのものからも、結婚からも自由になるのだ。なぜなら、神の力は人間が死んでいる時ではなく、生きている時に働くからだ」ということを言っているように思われます。
 そして、生きている間に働く神の力とは、言うまでもなく愛の力です。あなたがたは生きている間に精一杯自分の力の限り愛し合いなさいということなのではないでしょうか。

▼生かされている間に愛そう

 人は結婚という制度があるから人を愛するようになるのではなく、愛した人と結婚するのではないでしょうか。あるいは結婚するという形の方が先だった人たちであったとしても、形があればそれでよしというわけではなく、共に生きるという実体験を通して、愛が生まれるものなのではないでしょうか。
 また「男女が結びつくのは本能なんだから、結びついて当たり前だろう」というような発想で、人を本当に愛することができるものでしょうか。そうではなく、本当に相手の命・生涯を大切にし、守り、支え、養い、活かしたいと思う心があってこその愛ではないでしょうか。
 それは、制度や肉体の性に枠付けされることのない、天使のように自由な愛なんです。天使のように自由な愛で、生きている間に大切な人を愛すること。それが人間の内面に住んでいる、本質的な愛なんだと。
 そして、私たちはいずれは眠りにつきますが、やがて眠っている者が再び起こされる時、今度は私たちは今よりも一層自由に、純粋に愛し合うことができるであろうと、イエスは訴えたかったのではないでしょうか。
 人は生きていないと、愛することはできません。来たる世界であれ、今この今生の命であれ、生きていなければ、愛するということはできません。ですから、生きている間、生かされている間に、自分に可能な限り、愛せるだけ愛する人生を送りましょう。






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