天国に入るにはどうすれば


 2020年11月15日(日) 

 日本キリスト教団 徳島北教会 主日礼拝 説き明かし

 牧師:富田正樹

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聖書の朗読&お話(約19分)



 マタイによる福音書25章31−46節 
(新共同訳)
 人の子は、栄光に輝いて天使たちを皆従えて来るとき、その栄光の座につく。そして、すべての国の民がその前に集められると、羊飼いが羊と山羊を分けるように、彼らをより分け、羊を右に、山羊を左に置く。
 そこで、王は右側にいる人たちに言う。「さあ、わたしの父に祝福された人たち、天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい。
 お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが乾いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ。」
 すると、正しい人たちが王に答える。「主よ、いつわたしたちは、飢えておられるのを見て食べ物を差し上げ、のどが渇いておられるのを見て飲み物を差し上げたでしょうか。いつ、旅をしておられるのを見てお宿を貸し、裸でおられるのを見てお着せしたでしょうか。いつ、病気をなさったり、牢におられたりするのを見て、お訪ねしたでしょうか。」
 そこで、王は答える。「はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。
 それから、王は左側にいる人たちにも言う。「呪われた者ども、わたしから離れ去り、悪魔とその手下のために用意してある永遠の火に入れ。お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせず、のどが乾いていた時に飲ませず、旅をしていたときに宿を貸さず、裸のときに着せず、病気のとき、牢にいたときに、訪ねてくれなかったからだ。」
 すると、彼らも答える。「主よ、いつわたしたちは、あなたが飢えたり、渇いたり、旅をしたり、裸であったり、病気であったり、牢におられたりするのを見て、お世話をしなかったでしょうか。」
 そこで、王は答える。「はっきり言っておく。この最も小さい者の一人にしなかったのは、わたしにしてくれなかったことなのである。」
 こうして、この者どもは永遠の罰を受け、正しい人たちは永遠の命にあずかるのである。




▼外れた予言

 今日お読みいただきましたこのイエスの予言は、いわゆる「終末論」という分野のお話になります。「終末論」というのは、この世の終わり、世界の終わりに関するお話のことですね。ユダヤ教・キリスト教の歴史観というのは、天地創造の始まりから、いつかこの世は終わりを迎えるという直線的な歴史観です。
 そして、今日は、イエスが語った終末論の一部を切り取って読んだことになるわけです。非常に恐ろしい考え方ですよね。この世の終わりには「人の子」と呼ばれる者がやってきて、すべての人間を「正しい人たち」と「呪われた者ども」にバッサリ分けてしまうだろう、というわけです。
 そこで、ちょっとここでお断りしておきたいんですけれど、このイエスの予言は実はもう既に外れています。イエス様には申し訳ないんですけど、イエス様に異議を申し立ててもいいんじゃない? と思うところも聖書の中にはごくわずかながらあるんですね。それは終末論については特にそうです。
 というのは、イエスもイエスと同じ時代に生きていた人たちも、「もうすぐ終わりは来る」と信じていたからです。
 イエスが、この世の終わりに来ると言われていた「人の子」というのは自分だという自覚を持っていたかどうかというのは論議の決着がついていません。信心深い人は「もちろんイエスは『人の子』であり、最初からそういう自覚を持っていたのは当たり前だ」と思っているようです。
 けれども信仰の薄い私の勝手を言わせていただければ、どうも最初の頃はそう思っていなかったけれども、だんだんと自らの死が近づいてくるのを悟るに従って、「実は私自身が『人の子』ではないのか?」と思い始めたのではないかと思うんですね。
 今日のこの聖書の箇所は、まだイエスが「自分が人の子だ」と思ってはいない時期の言葉のように思われます。「『人の子』とダニエル書に書かれている神の子で、王でもある者がやってきて栄光の座につくだろう」と、将来への期待も込めて人々に語ったわけですね。

▼終末の遅延

 で、これは間も無く起こると信じていたわけです。イエス自身が「はっきり言っておく。ここに一緒にいる人々の中には、神の国が力にあふれて現れるのを見るまでは、決して死なない者がいる」(マルコ9.1他)と言っています。
 でもイエスや弟子たちが生きているうちには起こらなかった。イエスは十字架につけられたまま、息を引き取る直前に「我が神、我が神、どうして私を見捨てたのですか」と嘆きながら死んでゆきました。
 その後、パウロが活動を始めて、パウロも自分たちが生きている間に終わりがくるだろうと思っていました。でも、それは起こりませんでした。この問題を神学用語で「終末の遅延」と呼ばれます。そのまんまですね。終末が遅延しているわけです。
 そして、この「終末の遅延」という問題に対処する形で、やがて、「イエス自身はやはり『人の子』で、きっとずっと先に再び来られるのだろう」という信仰が生まれます。これが「再臨」と呼ばれる、英語では「Second Coming」(もう一度やってくる)という出来事ですね。それを信じて期待しようと。そういう信仰が福音書が書かれる40年後ごろには固まってきます。
 そして、ヨハネの黙示録はイエス以後、70年近く経っていますけれども、その時には「いくらなんでももう来る」と思っていた。けれども、来なかった。そして、そのまま大幅に話を省略しますけれども、およそ2000年間、終末は来ていません。
 まだまだこれからだと信じている人もいます。信じるのも1つの信仰だと思います。「もう来る! 今にも来る!」と言っているのはエホバの証人の人たちです。
 それから、「イエスと同じ時代を生きた弟子たちが終末、すなわちこの世の完成と神の国の到来を、実は見たのだ」と主張する人たちもいます。保守的な神学の牧師たちはそう言います。何かはハッキリとはわからないが、何らかの形で弟子たちは見たのだと。だからそれを信じようと難しい説教をされますし、私のような人間は「信仰の浅い者」として相手にしてもらえません。
 でも、私はここで敢えて「イエス様が信じていたことは外れたね」と言ってしまっても、いいんじゃない?」と思うんです。とにかくイエス様は、まあその当時としては高齢者の部類に入っていましたけれども、自分の周りの自分より若い人たちに「あなたがたが生きているうちに、終わりは来る!」と言っていました。でも、その後2000年間終わりは来ていません。
 それよりも私たちは、地球の温暖化による気候変動とか、それによる地球規模での食糧不足とか政治家の堕落とかで、自分から徐々にゆっくりと滅んでしまいそうです。
 とにかく、イエス様のおっしゃっていた形でドーンといきなりやってくる急激な終わりの時は来ないんです。

▼一人の人を思う

 でも、大事なことはそういうことじゃないんです。
 イエス様はここで、「人間にとって大切なことは何か」ということをハッキリおっしゃっています。何しろ、「片や永遠の命に入り、片や罰として永遠の火で焼かれる」と言っているのですから、ここには人間の一生が何で判断されるべきかについての、イエスの究極の価値観が示されていると言っていいんです。
 それは、とてもわかりやすい価値観です。今日の聖書の箇所に書かれてある通りです。
 「もしあなたが、飢えている人に食べ物を差し上げたら、喉の渇いている人に水を差し上げたら、旅をしている人に宿を貸してあげたら、裸でいる人に衣服を差し上げたら、そして病気の人や牢に入れられた人にお見舞いをしてあげたら、それは神さまにしてあげたのと同じことなんですよ」ということなんですね。
 反対に「飢えている人に食べ物を与えず、渇いている人に水も飲ませず、旅をしている人を泊めず、裸の人を放置し、病気の人も牢にいる人も訪ねない。それもあなたがたが神さまに対してやったことなのだ」ということでもあります。
 「これが、人間がその一生を裁かれる時の基準だ」とイエスは言っているわけです。
 ここで注目すべきなのは、イエスは「神さまを一生懸命信仰すれば」というような事は、一言も言っていません。例えば福音派の人たちは、「信仰を持って、洗礼を受ければ、天国に入って永遠の命がもらえますよ。天国に入るには洗礼を受けさえすればいいんです」と言います。けれども、イエスはそんな事は言っていないのです。
 そうではなく、「あなたの目の前の困窮している人を神さまだと思いなさい。その方に対して、何かできることをするかどうか。それだけだ」と言っているのですね。
 しかも、それは大それたことをやれと言ってるわけではないんです。ここでイエスは「この最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである」と言っています。「たった1人にでもやってごらんよ」という事なんですね。
 1人の人を「『この人の中にも神さまはいる』と思って、できる事をする。それだけであなたの人生の価値は永遠の命に値するよ」とイエスは言っているのです。
 私たちがイエスを信頼し、イエスに従い、イエスと共に今も歩むというのは、本来はそういう事なのではないでしょうか。

▼最も小さい者にすること

 この世で最も小さい者とされている人、それは小さな力しか持っていない人、あるいは弱い立場しか与えられていない人と言えるでしょう。
 食べる物や飲み物に困っている人に食事や飲み物を提供する。例えば今、「子ども食堂」などを運営して、安く安全な食事を提供している教会や、ひと握りからでもいいから、お米を集めて失業者や路上生活者のために少しでも栄養をとってもらおうとか。多分そういう教会こそが最もイエスの価値観を実現している、「本当の正統派の教会」と言ってもいいでしょう。
 「旅をしている人」というのは、例えば路上で生活し、死んでゆく人は昔は「行路病死」と呼ばれました。行く路すがらで病死した。つまり路上で死ぬ人を、旅の途中で死んだ人と呼んだわけですね。そういう人に寝泊りする場所を提供する活動などもあります。
 あるいは、貧しい留学生などをホームステイさせてあげたり、帰る家が無い子どもが暮らす場所を提供するのも、「旅をしているのを見てお宿を貸す」ということに当たります。
 そして、病気の人を見舞うだけではなくて、牢にいる人を見舞うともありますが、もう今の世の中は、例えば総理大臣に「引っ込め!」と言っただけで警察に取り押さえられ、しょっぴかれる時代です。あまりに政治がひどいじゃないかと抗議した人も牢に入れられる事はありえます。他の国では民主主義を主張したり、兵役を拒否したことで投獄される人もいます。そういう人を「良心の囚人」と呼びます。
 あるいは悪いことを犯した人であったとしても、「その人も神に愛された人だから」と大切に扱うわざを行っている人もいます。それはなかなか並大抵のことではありませんし、私自身も経験はありませんけれども、それをしている牧師がいることを知っています。
 そしてそのようなことを考える時に決して忘れてはならないのは、イエスご自身が犯罪者として裁かれ、処刑された「良心の囚人」であるということです。
 イエスを愛するという事は、権力から犯罪者として処刑された囚人を愛するという危険な行為でした。しかし、イエスから「牢に入れられた人を愛しなさい」と教えられた人々は、イエスが処刑された後も、イエスを愛する事をやめませんでした。そしてその後、牢に入れられた人を愛する事はイエスを愛する事だと信じるようになったんですね。

▼神の国の中へ

 しかし、繰り返しになりますが、イエスは大それたことを私たちに期待しているわけではありません。「小さな立場に置かれている1人の人に何かして差し上げる。それだけであなたは神の国の中にいる。もうそこに神の国がある」。イエスはそう教えてくれているのです。
 みんなができることをすることで、神の国/天の国がこの地上に実現してゆく。そのことを夢見て、生きてゆきたいと思います。






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