「いいよ、いいよ」とどんぶり勘定


 2020年11月22日(日) 

 日本キリスト教団 枚方くずは教会 主日礼拝 宣教

 牧師:富田正樹

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聖書の朗読&お話(約19分)



 ルカによる福音書16章1−9節 
(新共同訳)
 イエスは、弟子たちにも次のように言われた。「ある金持ちに一人の管理人がいた。この男が主人の財産を無駄使いしていると、告げ口する者があった。
 そこで主人は彼を呼びつけて言った。『お前について聞いていることがあるが、どうなのか。会計の報告を出しなさい。もう管理を任せておくわけにはいかない。』
 管理人は考えた。『どうしようか。主人はわたしから管理の仕事を取り上げようとしている。土を掘る力もないし、物乞いをするのも恥ずかしい。そうだ。こうしよう。管理の仕事をやめさせられても、自分を家に迎えてくれるような者たちを作ればいいのだ。』
 そこで、管理人は主人に借りのある者を一人一人呼んで、まず最初の人に、『わたしの主人にいくら借りがあるのか』と言った。『油百バトス』と言うと、管理人は言った。『これがあなたの証文だ。急いで、腰を掛けて、五十バトスと書き直しなさい。』
 また別の人には、『あなたは、いくら借りがあるのか』と言った。『小麦百コロス』と言うと、管理人は言った。『これがあなたの証文だ。八十コロスと書き直しなさい。』
 主人は、この不正な管理人の抜け目のないやり方をほめた。この世の子らは、自分の仲間に対して、光の子らよりも賢くふるまっている。
 そこで私は言っておくが、不正にまみれた富で友達を作りなさい。そうしておけば、金がなくなったとき、あなたがたは永遠の住まいに迎え入れてもらえる。




▼仕方ないかな

 今日お読みしました聖書の箇所は、どうやら、1ヶ月前、10月25日に仁村真司牧師によって取り上げられた箇所のようですね。仁村先生は「『不正な』管理人」というタイトルで宣教をされました。それに気づいたのは、もう市川さんに聖書箇所も宣教の題名も知らせた後でした。
 そこで私は、「よし。頑張って他の聖書の箇所で宣教を作り直そう!」とは思わずに、割とすぐに諦めて、「まあ仕方がないかな」と割り切って、同じ聖書の箇所でお話をしようと思いました。そういうわけで、今日も、仁村先生と同じ「不正な管理人」というたとえ話にまつわる宣教です。
 けれども、聖書の解釈、説き明かしというのは、解釈する人間によって随分違うというのが常識です。聖書の解釈に絶対の正解というものはありません。なので、私がこの「不正な管理人」のたとえ話を解釈しても、必ず仁村先生と違った話になると思います。
 それが聖書解釈の面白いところだと思っていただければ有難いなと思います。

▼不正に不正を重ねた管理人

 さて、この「不正な管理人」のたとえ話、少々奇妙な話です。
 ある金持ちのご主人が、会計をある管理人に任せていました。ところがこの管理人が主人に黙って無駄使いをしていると告げ口する人がいたので、金持ちのご主人は「会計報告を出しなさい」、「もうお前に仕事を任せるわけにはいかない」と怒ります。
 この管理人は自分が仕事を失うかもしれないと思いましたが、肉体労働者になる体力もないし、物乞いをするのも恥ずかしい。そこで、仕事を失った時のために、自分を助けて家に迎え入れてくれる友達を作ろうとして、主人に借りのある人たちの証文、つまり借用書を改竄して、借りている人たちの負担を軽くしてやろうとします。
 でもこれは、不正に不正を重ねることですよね。そもそもこの管理人は主人の財産を無駄使いするという不正をやっていたわけですが、今度はその主人に借りがある人たちの、その借りをごまかすということをやっています。二重に不正をしています。
 ところが、今度はこの金持ちの主人が、「この不正な管理人の抜け目のないやり方をほめた」(ルカ16.8)とあります。訳がわかりません。この話をイエスから直に聴いた人たちは、「はあ? 何を言ってんねん?」と、馬鹿にされたような気になったかもしれません。

▼常識はずれの羊飼い

 この「不正な管理人」のたとえ話の前には、同じようにイエスの不可解なたとえ話が並んでいます。例えば、2ページ前、15章の1節からは、「見失った羊」のたとえが記されています。
 「あなたがたの中に、百匹の羊を持っている人がいて、その一匹を見失ったとすれば、九十九匹を野原に残して、見失った一匹を見つけ出すまで捜し回らないだろうか」(ルカ15.4)とイエスは言います。
 これ、例えば私が普段勤めている学校で聖書の時間に、生徒さんに問いかけてみますと、「捜しません」という答えが返ってきます。「99匹を残して、1匹を捜し回らない?」と聞くと、「捜しませんよ」と冷ややかに笑います。
 確かに、その1匹を捜しに行っている間に、99匹がバラバラに散らばってしまったら、もっと大変なことになる。だから、1匹が見失われてしまっても、99匹の方を守るというのが常識なのかもしれません。
 ということは、イエスが「その1匹を捜しに行かないだろうか」と言っているのは、随分強引なことを言っているというか、無茶なこと、常識はずれのことを言っている訳です。

▼とんでもない金額

 その次、15章の8節からは「無くした銀貨」のたとえが話されています。ここではドラクメ銀貨を10枚持っている女性が、1枚を無くしたと言われています。ドラクメ銀貨というのは、聖書に出てくる1デナリオンと同じ金額で、大体1日の肉体労働の賃金に相当すると言われています。1日の肉体労働というと、今の西成で集められる日雇い労働者の賃金の額面が1万円くらいですので、まあ細かい話は抜きにして1万円ぐらいとしましょう。
 さすがに1万円というと、馬鹿にはできない金額ですので、自分でも無くしたら一生懸命探すだろうとは思いますけれども、聖書に出てくるイエス様のたとえ話の中では、割と少ない方の金額です。
 例えば、よく知られたタラントンのたとえ話があります。タラントンというのは6,000デナリオンに相当します。ということは大体6,000万円です。6,000万円というと、6,000日分の賃金です。現在の日本の年間休日日数がほぼ120日だそうなので、1年間365日から引くと、年間245日働いたことになります。そこで、6,000日分の労働を245日で割ると、随分ざっくりとした計算ですけれども、およそ24年間働いたお金ということになります。
 24年間というのがどういう数字かというと、大体イエス様の時代の貧しい日雇い労働者の平均寿命が30歳くらいです。ということは6歳の時から働いているということになります。アジア、アフリカ、ラテンアメリカなどの貧しい国々で、路上で暮らしているストリートチルドレンが肉体労働に出されるのが、大体6歳から7歳くらいということで、何となく話が一致してきます。
 つまり、イエス様が生きておられた時代の貧しい労働者の世界で、1タラントンというのは、6歳から働いて30歳で死ぬまでの、生涯賃金なわけです。
 そうなると、1タラントンというのが、一生かかって稼ぐお金ですから、非常に高いということになります。ましてや、2タラントンだと1億2千万円、5タラントンだと3億円ということになりますから、ちょっと考えられないほどの金額になるわけですね。
 ちょっとタラントンの話が長くなりましたが、要するにイエス様のたとえ話というのは、人が「はあ?」と思うような、大袈裟な話がよくあるわけです。

▼膨大な量の油

 そこで、この「不正な管理人」のたとえ話に戻りますが、この金持ちのご主人から借りている人たちの借りを見ると、まず1人目の人が「油100バトス」と言っています。1バトスが約23リッターなので、100バトスというと、2,300リッター。
 おそらくこの時代の「油」というと、おそらくオリーブオイルのことでしょうから、食用油の1リッターの重さが約900グラムです。すると、100バトスというのは、900グラム×23リッター×100バトスなので、およそ2トンになります。
 より正確に言うと2,070キログラムなので、一般的なスーパーで売っているオリーブオイル、例えば味の素のエクストラ・バージン・オイル、600グラム入りで、3,450本となります。つまり、この人はオリーブオイルを3,450本分を借りています。皆さんは1年間にオリーブオイルを何本くらい消費されるでしょうか? まあ1年間に1本か2本くらいでしょうか。2本使ったとしても、1,500年以上使えます。
 ちょっとしつこいようですけれども、車のガソリンで言うと、私の車が大体1回平均35リッターずつ給油していますので、100バトス2,300リッターとすると、66回分のガソリンとなります。
 私の車、一応ホンダのハイブリッドでございますが、リッター19キロほど走ります。2,300リッターとすると、実に43,700キロ走れる計算になります。
 さらにしつこいですけれども、私の自宅から普段奉仕している徳島市内の教会まで約190キロ、往復で380キロの距離なので、油100バトスあれば、115往復できます。私、1ヶ月に2回徳島に通っておりますので、57.5ヶ月として、4.8年。つまり5年近く通えることになります。
 油100バトスで京田辺市と徳島市を5年間往復。いかにこの人が膨大な借りを抱えていることがお分かりになるでしょうか。
 これだけの油を借りている人の借用書を「半分の量に改竄しろ」とこの管理人は言っているわけです。改竄したことがバレても、「もうどうせクビになるんだから一緒だ」と言わんばかりです。

▼26万杯以上のかけうどん

 話が長くなってまいりました。次の人は「小麦100コロス」借りたと言っています。1コロスが約230リッターだそうです。つまりこの人は、23トンもの小麦を借りています。
 これを実感するために、また換算してみますけれども、小麦からは大体83%の重さの小麦粉が精製されますので、まあ1コロス=23トンとして19トンくらいの小麦粉が取れます。
 19トンと言いますと、私は昔の運転免許証を持っていますので、8トントラックを運転できます。8トンというのは、ちょっと長めの今の普通免許では運転してはいけないサイズのトラックです。
 8トントラックの最大積載量は標準的には4トンですので、1コロス運ぼうと思うと、5台要ります。大型ダンプだと2台。この人は大型ダンプで2台分の小麦を借りている。
 ちなみに、平均的な日本人の1年間の小麦粉消費量から計算すると、実に1人あたり588年分をまかなうことができます。これは換算すると、26万5000杯ものかけうどんになります。
 ちょっとおかしなくらい膨大な量の小麦を借りていますね、この人は。まあ、管理人はこれを8割に改竄しろと言っていますので、かけうどん53,000杯くらいは負けてやるぞ、と。
 というわけで、このたとえ話は、要するに恐ろしい量の借りを抱えた人たちの話だということです。

▼ここは永遠の住まいだ

 ところが、この膨大な量の借りをごまかした管理人は、なぜかこの金持ちのご主人に褒められます。「この世の子らは自分の仲間に対して、光の子らよりも賢くふるまっている。そこで、私は言っておくが、不正にまみれた富で友達を作りなさい。そうしておけば、金が無くなった時、あなた方は永遠の住まいに迎え入れてもらえる」(ルカ16.8-9)と言います。
 ここも、イエス様のたとえ話の突拍子もないところです。普通のご主人だったら、「お前は、また不正を行ったのか!」と怒るところです。ところが、「友達を作るため」に不正を行うと褒めてくれました。つまり、自分を助けてくれるような友達を作るためなら、不正をやってもいいのだということですね。
 「この世の子らの方が光の子らよりも賢く振る舞っている」というのは、他に「光の子」という言葉が聖書の中に、見当たりませんので、よく意味がわからないのですが、この世の子らとは違うのですから、天使のような存在を指しているのかも知れません。とにかく、人間よりも神に近いような存在よりも、人間の方が賢く振る舞っているのだと言っています。
 金が無くなった時というのは、もう完全に生きる術を失った場合ということです。この時代には生活保護とかボランティアといったものは、その発想も無かった時代ですから、手元に現金が無いということはそのまま路上で死を迎えるということになります。
 路上で死を迎えようとする時に、もし助けてくれる人たちがいたとすれば、それは死から生へと引き戻してくれる人たち、路上生活から復活させてくれた人たちだという事になりませんか。
 先ほども申し上げたように、生活保護やボランティアといったものが、その発想からして無かった時代ですからこそ、食事や寝泊まりする所を与えてくれるとすれば、「ここに永遠の命がある。すなわち神がおられる所だ」と感じてもおかしくないのではないでしょうか。

▼いいよ、いいよ

 また、膨大な借りを抱えている時に、多少はその計算をごまかしてやる。それがこの世の子らのやり方だと言っているわけですが、例えば今のようなディジタルな管理社会になる前は、ある程度のどんぶり勘定というのはあって、多少の貸し借りは「いいよ、いいよ」と言ってやりとりしていたのではないでしょうか。
 特に牧師の家庭など、何人もの身寄りの無い子どもを預かっていたりする人も昔はいたわけですが、そういう事情でお金のやりくりがつかなくなって、教会の会計に手をつけてしまったとか。それでも、地域の牧師たちが事情を察して、うまいこと地区の会計でカバーしていた。しかし、都会に転任してきて、きっちりした会計を求められるようになって、過去にそういうやり方をしていた事も明るみになって、一気に信用を失って行き場を無くしてしまったとか。そういう例を耳にしたこともあります。
 イエスの言っている貸し借りというのは、この「いいよ、いいよ」のどんぶり勘定の話ではないでしょうか。「そうやって助け合っておけ、それがお前の命を救うんだよ」という、非常に人間臭い助け合いの世界を「神さまも喜んでくださるよ」と言っているのではないかと思うのですがどうでしょうか。

▼神さまからの借り

 もとより、私たちは神さまに巨大な借りをしています。命というものを借りております。
 「命は授かりもの」とも言いますが、私は「借り物」あるいは「預かり物」だと思っています。なぜなら、命はいつか神さまにお返ししなければならないからです。
 それは巨大な借り物です。それだけ私たちの命はそれぞれ価値のあるものです。そして、その命を私たちは、どんぶり勘定で貸したり借りたりしたらいいのです。
 お互いに細かい見返りなんか求めないで、助けたり、助けられたりする。そうやって一緒に生きる仲間を作っておく。「それがあなたの命を救うんだよ」ということです。「そこに永遠の命があり、神の国があるんだよ」ということです。
 まさに「愛のある所には神の国がある」ということであります。

▼祈り

 愛する天の神さま。
 私たちが、互いに助け合い、思いやりを持ち合い、愛し合って生きる者であれますように、どうか私たちを導いてください。
 イエス様の御名によって、祈ります。
 アーメン。
 




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