危機を乗り越えた女性たちの子ども

 2020年12月6日(日) 

 日本キリスト教団 徳島北教会 アドヴェント第2礼拝 説き明かし

 牧師:富田正樹

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聖書の朗読&お話(約38分)



 マタイによる福音書1章1−17節 
(新共同訳)
 アブラハムの子ダビデの子、イエス・キリストの系図。
 アブラハムはイサクをもうけ、イサクはヤコブを、ヤコブはユダとその兄弟たちを、ユダはタマルによってペレツとゼラを、ペレツはヘツロンを、ヘツロンはアラムを、アラムはアミナダブを、アミナダブは、アミナダブはナフションを、ナフションはサルモンを、サルモンはラハブによってボアズを、ボアズはルツによってオベドを、オベドはエッサイを、エッサイはダビデ王をもうけた。
 ダビデはウリヤの妻によってソロモンをもうけソロモンはレハブアムを、レハブアムはアビヤを、アビヤはアサを、アサはヨシャファトを、ヨシャファトはヨラムを、ヨラムはウジヤを、ウジヤはヨタムを、ヨタムはアハズを、アハズはヒゼキヤを、ヒゼキヤはマナセを、マナセはアモスを、アモスはヨシヤを、ヨシヤは、バビロンへ移住させられたころ、エコンヤとその兄弟たちをもうけた。
 バビロンへ移住させられた後、エコンヤはシャルティエルをもうけ、シャルティエルはゼルバベルを、ゼルバベルはアビウドを、アビウドはエリアキムを、エリアキムはアゾルを、アゾルはサドクを、サドクはアキムを、アキムはエリウドを、エリウドはエレアザルを、エレアザルはマタンをマタンはヤコブを、ヤコブはマリアの夫ヨセフをもうけた。このマリアからメシアと呼ばれるイエスがお生まれになった。
 こうして、全部合わせると、アブラハムからダビデまで十四代、ダビデからバビロンへの移住まで十四代、バビロンへ移されてからキリストまでが十四代である。




▼読むたびに挫折


 おはようございます。アドヴェント2回目の日曜日の朝がやってきました。1週ごとにクリスマスが近づいてくるのが楽しみで待ち遠しい今日この頃です。
 クリスマスは当然ご存知のようにイエス・キリストの誕生の祝いですが、その誕生に先立って福音書記者マタイが書いた、イエス・キリストの系図に関するお話をしたいと思います。
 マタイによる福音書の一番最初と言えば、聖書に関心を持った真面目な人が、「よし、新約聖書を一番最初から読もう!」と意気込んで読み始めて、早速嫌になってしまう箇所として有名です。
 マタイは自分の福音書で、「イエス・キリストの誕生の次第は次のようであった」と1章の18節から書いています。けれども、彼にとってはそれよりも先に言っておきたいことがあるから、その前に系図を置いたんですね。
 マタイにとっては、これは「イエスは『アブラハム』というイスラエル民族の先祖から始まった、そしてダビデというイスラエルの王国を初めて統一し、繁栄させた最も偉大な王の直系、由緒正しき血統の子孫であるぞ」ということを言うためには必要な文章だったんですね。
 マタイが想定していた当時の読者の間には、イスラエルの子孫たち(すなわち当時のユダヤ人)の王(すなわちメシア、すなわち「油注がれた者」)は、ダビデの子孫でなければならないと信じている者が多かったんですね。そういう信仰を「メシア待望」と言います。

▼メシア待望への答え

 「メシア待望」を抱いているユダヤ人は当時全然珍しくなくて、例えばイエスがロバに乗ってエルサレムに入城した時も、群衆は「ダビデの子にホサナ!」と言って歓迎したことが書いてありますけれども、あの時もイエスは人々のメシア待望を投影されているんですね。「イエスがメシアとなって、もう一度イスラエル王国を再建してくれるんじゃないか」と、群衆は期待していたわけです。
 残念ながら、そういった軍事的な王国の再建への期待をイエスは裏切り、逆に怒り狂った群衆に「殺せ! 殺せ!」と言われてしまいます。また実際、十字架にかけられて殺されてしまいます。
 けれども、イエスの亡くなった後、次第に復興してきたキリスト教会の中に、過去のイスラエル王国の再建ではなく、「新しいイスラエル」を見出す人たちが現れます。それは、パウロが言っているように、「ユダヤ人だけが救われるイスラエル王国ではなく、ユダヤ人もユダヤ人でない民族の人たち(つまり異邦人)も同じ神の子となる」という新しい王国のイメージなんですね。
 ただ、そうは言っても、やはりメシアはイスラエルの子孫で、ダビデの後を継ぐ王なのだということを納得した上で、その「新しいイスラエル」を信じたいというクリスチャンもいました。
 そこで、マタイはそのような人たちを納得させるために、このような系図を書いたのではないかと考えられるのですね。

▼とにかくダビデの子

 けれども、そこはさすが2000年前の文書ということなのかも知れませんけれども、この系図は完全に旧約聖書に書いてある通りをなぞっているわけではありません。
 むしろ、歴史的な事実よりも、メッセージ性の方が大事という感じですね。それがはっきりわかるのは、17節にも書いてあるように、「アブラハムからダビデまで十四代、ダビデからバビロンへの移住まで十四代、バビロンへ移されてからキリストまでが十四代である」(マタイ1.17)という記事です。
 そんな風にうまく行くわけがありませんよね。こういう数字合わせは、ちょっと口の悪い言い方ですが、宗教団体の教祖を特別な存在として祭り上げる時にはよく使われる方法です。
 この「14」という数字は、ヘブライ語で「ダビデ(ダヴィード)」と書いた時の、3つの文字が表している数字なんですね。ローマ数字のように、アルファベットが数字も兼ねているわけです。
 細かい話ですが、3つのヘブライ語のアルファベット「ダレト」「ヴァヴ」「ダレト」という文字が並んで、「ダヴィード」です。そして「ダレト」が4、「ヴァヴ」が6を表します。最初と最後の「ダレト」と真ん中の「ヴァヴ」で、4+6+4=14になるんですね。
 だからマタイとしては、この系図は14代という数字にこだわり、とにかくイエスはダビデの子であり、故にメシアなんだということを強調しているわけですね。
 まあ毎度のように、私のような不信仰な人間は「そうは言っても、最後のマリアのところで、マリアはヨセフと血が繋がっているわけじゃないのだから、正確にはここで途切れてるよね」なんてことを言ったりしたくもなりますが、まあそこはご愛敬ということで勘弁しようかなということにします。
 とにかく、マタイさんとしては、イエスの誕生そのものを描く前に、これだけは言っておかねばならぬと、一生懸命この系図を書きました。

▼タマル

 さて、この系図の中に、5人の女性が登場します。3節に出てくるタマル、5節に出てくるラハブとルツ、6節の後半に出てくるウリヤの妻、そして最後に16節に出てくるイエスの母マリアです。
 古代の文学の中で女性が出てくる、しかも系図の中に出てくるのは非常に珍しいと言われます。しかも、ここに出てくる女性たちは、決して地位や名誉のある人物として賞賛されて系図に入れられたわけではありません。どちらかと言えば、これらの女性たちの人生は波乱に満ちていて、見方によってはスキャンダルを孕んだものです。
 例えば、タマルという女性は夫が亡くなり、その夫の弟と結婚するように要求された人です。これは以前、「レビラート婚」という言葉を紹介したことがあると思うのですが、男の子が生まれないまま夫が亡くなった妻は、その夫の弟と再婚して男の子を産まないといけないことになっていました。そうしないと、自分の存在意義が確保されないんですね。
 ところが夫の弟のオナンという人は、兄嫁と一緒に子どもを作ることを拒否します。その行いからオナンは神に罰せられて死んでしまいます。再びタマルは独りぼっちになり、その家にいられなくなる可能性が高くなります。
 そこでタマルは、ついに夫たちの父親、家長であるユダの子どもを孕むしかないと考え、娼婦のふりをしてユダが飲みに出かけた所を待ち受け、まんまとユダをだまして、妊娠することに成功します。しかも、ユダが白を切って否定することができないように、ちゃんと策を練っていたりします。
 そういうことで、タマルのやったことというのは、確かに道徳的に見れば、周囲の人が眉をひそめそうな行いであった面もありますけれども、自分の置かれた不利な状況、自分の存在価値や生存がかかっていた危機に置かれても、それを切り抜けて生き、結果的にアブラハムの子孫を残すことに貢献したということで、只者ではない女性として評価されているのですね。

▼ラハブ

 ラハブという女性は、ヨシュアが率いるイスラエルの軍隊がエリコの街をやっつけるのを助けた、エリコの遊女です。
 古代のイスラエルは、カナン地方(今のバレスティナ地方)に侵略したり、あるいは交渉して土地を譲ってもらったりして、色々な形で次第に定着していったというのが実際のようですが、旧約聖書では大体、勇ましく戦ってカナン地方を占領していったように書かれています。
 このエリコという街もその1つで、他の当時の中東の街々と同じように、街全体が城壁で囲まれていました。ヨシュアはこの街の様子を探るために、2人のスパイをエリコに送り込みました。そのスパイたちがたまたま潜伏することになったのが、ラハブという遊女の売春宿です。
 ラハブは遊女という卑しい仕事をしている女として、エリコの住民からも利用されながらも、低い地位に甘んじ、蔑まれて、そしてエリコの街の城壁の端っこに住んでいました。ですから、エリコという街にも人々にも、愛着を持っていませんでした。
 そこで、自分と自分の家族を助けてくれるなら、ヨシュアに協力するという交渉をしました。そして、遊女という立場を利用して男たちから得た情報をスパイにばらし、エリコ襲撃の際に自分たちだけ助けてもらいました。
 そして、やがてラハブはイスラエルの男性と結婚し、子どもを産み、イスラエルの子孫を繋いでゆく輪の中に加えられることになりました。元々イスラエルの人間ではない上に、差別される立場であったのに、そのサスペンス映画のような活躍で、自分の命を勝ち取った勇敢な女性です。

▼ルツ

 続いて、ルツという女性。この人はイスラエル民族から賞賛される人として、この人を主人公として1冊の書物が旧約聖書に入れられているほどですが(ルツ記)、この人も結構大胆な行動をとって厳しい人生をサバイバルしてきた人です。
 このルツもイスラエル出身ではありません。モアブという土地・民族の出身で、イスラエルの男性に嫁いだ人です。けれども、自分の夫も、それから姑の夫も相次いで死んでしまいます。その姑というのがナオミという人です。
 ナオミは「私は夫の故郷に戻るから、ルツたちもモアブに帰りなさい」と言います。ところがルツはナオミを慕って、「あなたにどこまでもついていきます」と言います。このルツのナオミに対する愛が、美しい物語として賞賛されるわけです。
 が、ナオミの夫の故郷に着いてから、ナオミもルツも余所者ですし、土地も持っていないし、男手も無いので、食べるものを手に入れるのもままなりません。「落穂拾い」と言って、収穫が終わった直後の麦畑に入れてもらって、落ちている麦の穂を拾って歩くしかない。そんな食うや食わずの暮らしを送るしかありませんでした。
 ところがルツはイスラエルの親戚筋の男性ボアズという人と仲良くなるんですね。そして、ボアズもルツのことを魅力的に感じて、雇い人たちに「落穂を沢山残すように、ザックリと刈るようにしておけよ」と言った具合に、だんだんルツやナオミに配慮するようになっていくわけです。
 この人たちの人生の大きな分岐点は、ルツがボアズが寝ているところに自分から入っていって、おそらくボアズと特別な関係になるところですね。かなり大胆なことをしました。これをきっかけにボアズはルツを正式な妻とする行動を起こし、ルツはボアズの子どもを産むことになります。これも、一種のレビラート婚です。実の兄弟だけでなく、親族として寡婦を引き取るということもあるんですね。
 この場合も、ルツはその大胆な行動によって、異邦人である自分と自分の慕う姑の命を助け、イスラエルの家計の中に自分を位置付けるということを行って、生き延びています。

▼ウリヤの妻

 そして、4人目が「ウリヤの妻」です。聖書に親しんでいる人なら大体誰でも「ウリヤの妻」と言えば「バト・シェバ」だということは知っています。けれども、ここではなぜかその名前を隠して「ウリヤの妻」と呼ばれてマタイの系図に入れられています。
 このバト・シェバは、水浴びをしている所を、イスラエル王国の王であるダビデに気に入られて、王宮に呼ばれ、強制的にダビデに性的関係を持たされます。まあはっきり言って王に逆らうこともできず、慰み者にされたわけでしょう。ダビデは王として何でも許される立場なので、彼にとってはそれで終わりのつもりだったのですが、その後、バト・シェバが妊娠していた事がわかりました。
 そこでバト・シェバの夫は、ウリヤというダビデの信任厚い兵士だったので、ダビデはこの事実を隠そうとします。そこでウリヤに「家に帰ってくつろいで妻と寝るように」と言って、ウリヤの子であるかのように偽装する工作をするのですが、ウリヤがそれに乗ってきません。
 そこでついにダビデは、ウリヤを戦争の最前線に立たせて、あとは全軍退却させて置き去りにし、戦争に負けてでもウリヤを殺すという謀略に出ます。その後、ダビデはバト・シェバを妻として迎えます。
 そのバト・シェバとの最初の子どもは死んでしまうのですが、後で生まれた子どものうちの1人が、ダビデ王の後を継ぐソロモンとなりました。
 ダビデの側近に預言者ナタンという人物がいましたが、他の側近は誰もがダビデに忖度して、ダビデがやったことを責めないのと違って、このナタンだけは「あなたがやったのは、ひどい事なんですよ!」と糾弾します。それでダビデは一応悔い改めるのですが、とにかくダビデの子ソロモンというのは、イスラエルの王としては恥ずべき暴力、暴虐から始まった関係から生まれた子どもです。
 バト・シェバはダビデ王の絶大な権力を前に、何もできず、自分の力で自分の人生を切り開いたという印象はありません。むしろ、圧倒的な権力と暴力の被害者です。
 しかし、マタイは最終的にはダビデ王の妻として迎え入れられたバト・シェバを、あえて「ウリヤの妻」という名で系図に収めました。そのことで、本来はウリヤの妻であったはずの人をダビデが奪い、その人生をめちゃくちゃにした。それでも彼女は生き抜いて、ソロモンを産んだ。その忍耐の人生を賞賛しているのではないかと思います。
 そんな風にダビデ王をただ偉大な王として褒め称えるだけでは済ませていないところが、このマタイの興味深いところと言えるかもしれません。

▼マリア

 そして最後に、イエスの母マリアです。イエスの母、ナザレのマリアも、確かに後になって「聖母マリア」と呼ばれたりして崇敬の対象となっていますけれども、福音書に書かれた時点では、そんなに高い地位を持つ人として描かれていません。
 また、ルカによる福音書ではともかく、このマタイによる福音書では、イエスの誕生物語においても、むしろ夢で「マリアを受け入れなさい」とお告げを受けるヨセフの方が主人公で、マリアは完全に脇役なんですね。
 でも、これまで見てきたように、自分が直面した苦境に耐え、それを乗り越えた女性として彼女を見るとどうでしょうか?
 マリアという人は、ヨセフという婚約者と関係を持つ前に妊娠するという当時としては(というか今でも)スキャンダラスな状況に直面してしまいました。
 婚約者のヨセフは、自分の子ではない子をマリアが妊娠したことを知って、かなりショックを受けたでしょうね。そして、これは自分を裏切ってマリアが別の男性と不倫をしたか、またはマリアが誰かにレイプされたか、どちらかしか考えられないわけです。
 そこで、ヨセフはマリアを密かに離縁しようと考えます(マタイ1.19)。密かにというのは、自分が許嫁であるうちに妊娠したのではないというように人に見せようとして、縁を切っておこうとしたのかも知れません。いずれにしても、マリアのお腹が大きくなっていくのに、ヨセフはそれに関わりを持たないということで、周囲の人々がマリアに対する疑いを持つのも当たり前です。
 当時の律法通りに判断すれば、マリアのような女性は、夫になる男を裏切った女として石打ちの刑に処せられます。多くの人に死ぬまで石を投げられ続けるリンチです。実際にはそういう石内ちの刑によって殺されるケースは少なかったと言う説もありますが、もし殺されなかったとしても、あの女は婚約者を裏切ったと死ぬまで言われ続け、その子どもも父親が不明な子どもとして虐められることになります。
 結果としては、ヨセフが夢でお告げを受けて、「マリアとそのお腹の中の赤ん坊を受け入れなさい」ということになるのですが、マリアが最初に自分が妊娠していることをヨセフに話した時、どんなに勇気が要ったでしょうか。ヨセフがどうすることを期待して、それを話したのでしょうか。また、離縁しようと考えていたヨセフはどんな言葉をマリアに返したでしょうか。
 ヨセフは最終的にはマリアを受け入れます。けれども、ヨセフが考えを変えたのは、マリアとの対話の中でではありません。それとは関係なしに、天使からのお告げで考えを変えたんですね。
 それだけに、マリアがどれだけの決断と勇気を持って、ヨセフに自分の妊娠の話をしたか。そして、自分が話をしてもヨセフが考えを変えなかった時のマリアの絶望に思いを馳せずにはおれません。
 にも関わらず、マリアはイエスを産みました。そして、そのイエスが後にメシアと呼ばれ、人々を救う救い主となりました。マリアとイエスの負わされたその逆境をひっくり返して、人々の救いをもたらした。このマリアを賞賛し、この不思議な運命も神のわざだと信じて、マタイはマリアの名前を系図に入れたんですね。

▼祝うに先立って
 
 そのようなわけで、長くなりましたが、5人の女性を紹介しました。
 古代の文書ですから、男女を対等な存在として描くことには限界があったと思います。系図には男性の名前しか書かれていないというのが、この時代の常識でしょう。しかしマタイは、そこに5人の女性の名前を盛り込みました。この時代の系図としては画期的なことです。
 しかもその女性たちは、決して高貴な生まれで、栄光と名誉に満ちた人だから系図に入れられたのではなく、いずれも困り果ててしまうような逆境の中から、知恵と忍耐によって生き抜いてきた人たちです。
 マタイはそのような女性たちを系図に入れることで、彼女たちに賛辞を送っているのではないでしょうか。
 そして同時にマタイは、このような逞しい、ある意味では泥臭い生き方をしてきた女性たちが含まれた系譜の先にイエスがいることで、「このような泥臭い人間の現実の中にイエスがいる。イエスの誕生を祝うに先立って、その事を忘れるでないぞ」と私たちに伝えようとしているのではないかと思うのですが、いかがでしょうか。
 本日の説き明かしは以上とさせていただきます。
 





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