礼拝で政治の話はやめてください

 2021年2月7日(日) 

 日本キリスト教団 徳島北教会 主日礼拝 説き明かし

 牧師:富田正樹

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聖書の朗読&お話(約26分)



 マルコによる福音書15章1-15節 
(新共同訳)
 夜が開けるとすぐ、祭司長たちは、長老や律法学者たちと共に、つまり最高法院全体で相談した後、イエスを縛って引いて行き、ピラトに渡した。
 ピラトがイエスに、「お前がユダヤ人の王なのか」と尋問すると、イエスは、「それは、あなたが言っていることです」と答えられた。そこで祭司長たちが、いろいろとイエスを訴えた。
 ピラトが再び尋問した。
 「何も答えないのか。彼らがあのように、お前を訴えているのに。」
 しかし、イエスがもはや何もお答えにならなかったので、ピラトは不思議に思った。
 ところで、祭りの度ごとに、ピラトは人々が願い出る囚人を一人釈放していた。さて、暴動のとき人殺しをして、投獄されていた暴徒たちの中に、バラバという男がいた。
 群衆が押しかけて来て、いつものようにしてほしいと要求し始めた。そこで、ピラトは、「あのユダヤ人の王を釈放してほしいのか」と言った。祭司長たちがイエスを引き渡したのは、ねたみのためだと分かっていたからである。
 祭司長たちは、バラバの方を釈放してもらうように群衆を扇動した。そこで、ピラトは改めて、「それでは、ユダヤ人の王とお前たちが言っているあの者は、どうして欲しいのか」と言った。
 群衆はまた叫んだ。「十字架につけろ。」
 ピラトは言った。「いったいどんな悪事を働いたというのか。」
 群衆はますます激しく、「十字架につけろ」と叫び立てた。
 ピラトは群衆を満足させようと思って、バラバを釈放した。そして、イエスを鞭打ってから、十字架につけるために引き渡した。




▼「信教の自由を守る日」に寄せて


 皆さんおはようございます。今日は2月7日ですね。4日後に2月11日「信教の自由を守る日」が近づいています。そこで、この「信教の自由の日」に絡めて、政治と宗教のお話をしようかな〜とも一旦は思ったんですが、それについては、もうかつての説き明かしでお話ししてYouTubeのアーカイブに残っています。2年前の2019年5月5日の説き明かしです。
 私の出すYouTubeの説き明かしは大体評判が悪いんですけれども、その中でも唯一1000回を超えている再生数、一応1500回以上再生されています。
 ですから同じことをまたお話しする必要もないと思いますし、今朝も「10代のためのショートメッセージ」という最近始めたシリーズで、これもまたYouTubeの動画ですけれども、ここでも「信教の自由を守る日」についての10分くらいのプレゼンを出しましたので、そちらを観てもらえればなぁと思うんです。
 なので、今日はそれとは別のお話をします。

▼礼拝で政治の話をしないでください

 今日お読みしたのは、本来なら受難節に読むような箇所かもしれません。イエス様のご受難の場面の1コマですね。けれども、政治と宗教という観点から聖書を読むという意味では、非常に面白い、興味深い箇所だと思いますので、今日はここを読むことにしました。
 政治と宗教というと、キリスト教会の礼拝では、よく「礼拝説教の中で政治の話をしないでください」という声をよく聞きます。
 よく聞きますと言っても、私はこの教会では聞いたことはありませんけれども、あちこちの教会の信徒さんの話などをネットを通じて漏れ聞いた限りのことで言うと、本当に説教の中で政治の話をする牧師が多くて困ると。
 ある教会に行くと「共産党に入れましょう」だの、別の教会に行くと「自民党に入れましょう」だの、まあ流石に公明党はないですけど、説教の中でそんなことばかり40分も50分も喋ってる。「もう勘弁してくれ」と思っておられる方が結構おられるんですね。
 まあ、私もかつての自分への反省も含めて言いますけれども、確かに特定の政党への支持を礼拝説教の中で訴えるというのは、間違っていると思います。まあアメリカなどでは、福音派の人たちを中心に「トランプロス」みたいな現象も起こってるという話も聞いていますので、事情は違うかもしれませんけれども、私にとっては、当たり前のことかもしれませんが、それは個人の自由であるというのが原則だと思うんですね。

▼聖書で政治の話をしないのは無理

 ところがですね、じゃあ聖書を読んで、説き明かしをするときに、一切政治に関することを喋るなというのは、かなり無理があると私は思います。
 なぜなら、例えば、旧約聖書でモーセがエジプトで奴隷状態だったヘブライ人を解放しました、なんてのは政治的な話ですよね?
 他にも、ダビデとかソロモンとかのイスラエル王国の話もかなり政治がらみの話ですし、その後のバビロン捕囚というのも戦争と強制連行の話ですし、預言書とか詩編とかイスラエルの敵を滅ぼしてくださいとかなんとか、そんなことばっかり書いてるでしょう? いつも交読詩編を選ぶのみ苦労させられますよね?
 そして、何よりイエス様自身が、非常に政治的な謀略によって殺されています。
 ですから、政治と一切関係のない話をしろというのは、こと聖書に基づいてということであれば、随分無茶な注文です。
 もちろん、別に教会や礼拝の場でなくても、私たちは「政治と宗教と野球の話はするな」ということはよく聞きます。
 まあこちらの教会では、宗教の話をするのは当たり前として、野球の話も時々出てきますけどね。特に四宮さんがおられた頃は、日曜日の朝はまず前の日、阪神が勝っただ負けただという話から始まっていませんでした?
 まあそれはさておき、多くの教会で政治の話をしないでくれというのは、わからないことはないです。牧師の礼拝説教というのは、なんだかんだ言ってもやはりある程度は強制力があります。特に分かち合いの無い教会では、牧師の言ったことが正しいことであるかのような圧がかかります。その中で政治的信条(まあこれは野球でも同じかもしれませんけれども)、それが語られると、他の信条を持つ人が裁かれたような気がすると思います。
 ですから、確かに礼拝説教で政治の話をするのは、非常に危険なことだということは言えるでしょうね。

▼ピラトという男(1)

 はい、そういうわけで、今日もいつものように随分話が遠回りになりましたが、今日の聖書の箇所は、今まで申し上げたような意味では、2000年前の古代の政治の話ですので、ある意味、客観的に楽しく読めると思いますので、多少の想像も加えながら、この物語に入っていこうと思います。
 これはイエス様がポンティオ・ピラトというローマ総督から死刑判決を受ける時の話です。
 既にイエス様はユダヤ人社会の指導者である大祭司と、この大祭司によって招集された「最高法院(サンへドリン)」という組織によって、「死刑にすべきだ」と決議されています。
 ところがですね、実はこのユダヤ最高法院というのは、「死刑だ〜」「殺すべきだ〜」と自分たちの宗教裁判で決めることはできたんですけれども、死刑の執行権はなかったんですね。
 というのは、これはローマから派遣されて来ていた総督のピラトという男の立場を考えてみるとわかるんですが、皆さんもご存知の通り、当時のユダヤというのは、ローマ帝国の支配下にありました。
 ローマというのはものすごい広い領土、地中海の周り全体がローマ帝国だったんですけれども、その帝国をどうやって治めていたかというと、あちこちローマ人以外の異民族が住んでいる地域を、「属州」(属国みたいなもの)にして、そこに「総督」という軍人官僚を派遣して、治めさせていたんですね。
 ピラトという人は、この総督。ユダヤ州という属州に派遣されて来ている総督です。

▼ピラトという男(2)

 このピラトはですね、このユダヤ州というところに赴任したのが面白くないんですね。というのは、ユダヤ州というのは、ローマ帝国の中でも一番端っこの東の外れにある、ローマから一番遠い辺鄙なところです。しかも、それに加えてユダヤ人というのは、他の民族と比べても特に扱いづらい。
 他の全ての地域の民族は、大体ギリシアやローマの神々を祀った神殿が作られたら、「ああ、ありがたや。五穀豊穣、商売繁盛、無病息災、よろしくお願いします」とか、いろんなお願い事をして和やかにやっているわけです。
 その中でユダヤ人だけが「一神教」。「他の全ての神々は全部偽物で、我々だけが、ただおひとりの神に選ばれた民である。我々はこの神が聖書(ヘブライ語聖書)によって啓示されたことにしか従わない! 他の民は皆汚れている。我々はそんな異邦人とは交わらない!」と言い張るので、とても素直に他の民族の言うことを聞いてくれる連中ではありません。
 ですから、このピラトという人は、自分がこのユダヤ州に赴任させられたのは、とんだ貧乏くじだと。あるいは「俺ってひょっとして左遷された?」とか思っているわけです。
 そして、そんな彼だから、「こんな田舎の仕事は無難に勤め上げて、できれば早く都会のローマに帰りたいなぁ」なんて考えていたわけですね。
 そんなユダヤ州で、ユダヤ人たちが自分たちで勝手にサンへドリンとかいう宗教裁判を開いて、そのたんびに「死刑だ、死刑だ」とやりたいようにやらせておいたら、これは「ユダヤ州というのは、えらく治安が悪いらしいな」ということになります。
 そうなると、「あのピラトという総督の統治能力というのは一体どうなのか?」ということになりますよね。そんな事で彼の経歴にこれ以上泥がつくと、いよいよ彼は栄転できないわけです。
 そういうわけで、ピラトはユダヤ人たちに死刑を執行する権利を与えてなかったのではないか……という推測です。
 それでも、ユダヤ人たちは勝手に「石打ちの刑」みたいな私刑(リンチ)を時々やっていたんですけどね。一番最初の頃のイエス様の信者だって、ステファノは石打ちで殺されましたけど、これは公式の死刑じゃなくて、リンチだったんですね。
 そのステファノがリンチで殺された時にいたのがサウロ、つまり後のパウロだったという話はまたの機会に置いとこうと思います。

▼ユダヤ人の王

 さあ、それで、ユダヤの大祭司とサンへドリンの連中がイエス様を縛ってピラトの官邸に引き連れて来ました。そこで、「面倒くさいなぁ」と思いながらピラトはイエスを尋問します。
 「お前がユダヤ人の王なのか?」
 するとイエス様が答えます。
 「それは、お前が言ってるだけのことだ」
 ここですね。聖書というのは教会で使う聖典ですので、イエス様がそんな無愛想な口をきくはずがない、という前提で日本語に翻訳されています。
 でも、日本語というのは、丁寧語・尊敬語・謙譲語と色々な敬語を使い分けますけれども、外国語ってそこまで敬語を使い分ける文化かというと、そうとは限らないことないですか?
 ですから、ここでイエス様が「それは、あなたが言っていることです」というのは、違うと思います。
 「それは、お前が言っていることだよ」。
 「それは、ピラト、お前の問題であって、俺の問題じゃない」。
 そして、その後はイエス様は完全に黙り込みます。こんな尋問は茶番だというのは、イエス様も重々わかっています。
 ピラトの方も、別にイエスを死刑にする理由が見つからないので困惑することになります。

▼過越祭の恩赦と死刑判決

 折りしも、これは過越の祭りの季節でした。
 6節に「祭りの度ごとに、ピラトは人々が願い出る囚人を一人釈放していた」と書いてあります。
 普通に何かユダヤ人同士で盗んだとか怪我をさせたとかいった罪は、ユダヤ人の間で裁きますから、ピラトが逮捕するのは、ローマに対する反乱の罪で捕まっているユダヤ人です。それを釈放すれば、それはユダヤ人は喜びます。ですから、ローマを恨んでいるユダヤ人たちのガス抜きとして、ピラトはこういう恩赦を行うわけですね。
 そこで、ピラトが群衆の前に晒したのが、イエス様とバラバという男です。7節に「暴動の時に人殺しをした」と書いてありますが、これも先ほど申しましたように、ローマ人を殺したからピラトの所に拘留されているんですね。
 ピラトは群衆に「あのユダヤ人の王を釈放して欲しいのか?」と訊きます。「ユダヤ人の王」つまり「メシア」というのは、一般のユダヤ人にとっては「ユダヤを解放する戦争の指導者」のことなので、最初にイエス様がエルサレムにやってきた時には、イエス様がユダヤ人の王(すなわちメシア)になってくれるんじゃないかと期待していましたが、今は完全に失望しているわけです。なので、群衆はもうイエス様には興味はありません。
 その分、バラバの株が上がります。バラバは実際、一人でも勇敢にローマ兵にナイフか何かで襲ったかして殺すような勇敢な男です。こっちの方がユダヤ解放戦争にリーダーとしては期待できます。だから、みんな「バラバを釈放してくれ!」と言うようになります。
 さらに群衆は「イエスを十字架につけろ!」と言います。もう期待していて、それを裏切られた分、イエスが憎たらしいですし、もう死んでしまえと。しかも、当時の人たちにとっての娯楽というのは、もう剣闘士の決闘か十字架刑か、とにかく血が流れるところを見る以上に興奮する娯楽はありません。
 それでも、ピラトにとってみれば、別にイエスは犯罪者でも反乱者でもないので、これを殺す理由がないわけです。自分が法的におかしいということになります。だから何度も「ユダヤ人の王だとお前ら言ってただろう」と言いますし、こうも言います。
 14節「いったいどんな悪事を働いたというのか」
 でも、もう処刑が見たくて見たくてたまらなくなったこの群衆は、もう手が付けられません。誰にも止めることができない。
 そこでピラトは、これ以上イエスを庇うほうがかえって治安が悪くなると判断して、イエスの十字架刑を決断するんですね。

▼イエス様がおられるところ

 このように、これでも私、随分簡略化してお話ししたつもりなんですが、また今日も随分長くなってしまいました。
 とにかくイエス様の死刑判決の背景にも、ローマ帝国と属州ユダヤの支配・被支配の関係、ローマ総督ピラトとユダヤの最高法院(サンへドリン)との力関係、ユダヤ人がローマから解放され、自由を獲得したい。それをローマとしてはなるべく無難に抑えておきたいなど、非常に政治的な問題が絡み合っていることを、ご想像いただけますでしょうか?
 ですから、イエス様のことをお話ししようとすれば、政治の話をしないわけにはいかないんですね。
 では、この政治状況の中で、イエス様の立ち位置が、今の私たちに何を示してくださっているのか。
 それは、イエス様が多くの政治家や群衆たちが自分のことばかり考えてすったもんだやってる中で、もみくちゃにされて、冤罪を負わせられて、殺されていったという現実。
 実際に昔も、今も、そうやって無実の罪で拘留されている人たち。
 もちろん冤罪の被害者である受刑者の人たちのこともあります。
 けれども、私の心に浮かぶのは、例えば入国管理局によって、正式な入国手続きを取ることができないまま、自分の国で戦争や飢饉が起こって逃げてきただけの人々を、その危険な国に強制送還したり(それは「死んでこい」と言っているのと同じことです)、無期限に拘留して、その外国人に平気で集団的に暴行を加えている。
 平時の時に日本人と結婚して、しかし祖国が大変なことになって、そして日本での在住許可も得られず、すぐそこの入管で配偶者が暴力を受けている。それを指をくわえて見ているしかない人もいます。
 そういう現実もあって(まあ、それだけではありませんが)、日本は国際社会において、極度に人間が酷い仕打ちを受ける。「人権」とかいう言葉以下? そんな国として、ますます評価も威信も地に落ちています。
 イエス様はどこにおられるのだと思いますか。
 イエス様はここにはおられません。イエス様はそうやって、罪もなく拘留され、痛めつけられ、死に追いやられてゆく人のそばに、自分もそうやって虐待される者として、殺されてゆく人として、当事者として存在しておられるのです。
 これは例えば、の話です。たった1つの例です。
 そして私は、直接誰かに加害しているわけじゃない。そう言いたい。私は直接の加害者じゃない。そうです。
 でも、そういう暴力を振るう人、暴力を振るう制度と法律に税金を払っている。つまり暴力に加担しているのです。私たちはその暴力に税金を払うという形で加担してしまっているのです。
 イエスという当事者を痛めつけるためにお金を払いながら、愛だの何だの、論じていることに意味があると思いますか?
 そこまでやっておいて、なおさら「政治の話は教会でするな」と逃げるのは何故ですか……?
 本日の説き明かしは以上です。どうもありがとうございました。





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