どこにも神などいるものか

 2021年4月4日(日) 

 日本キリスト教団 徳島北教会 イースター礼拝 説き明かし

 牧師:富田正樹

礼拝堂(メッセージ・ライブラリ)に戻る
「キリスト教・下世話なQ&Aコーナー」に入る
教会の案内図に戻る






聖書の朗読&お話(約24分)


 マルコによる福音書16章1-8節 
(新共同訳)




▼逆説

 みなさんおはようございます。イースターの礼拝の始まりと共にレント(すなわち受難節)、そして受難週(Passion Week)が明けます。ですから、まさに私たちの本当の「あけましておめでとうございます」はこのイースターでの挨拶なんですね。みなさん、あけましておめでとうございます。
 私たちはともすればクリスマスを1年で最も盛大に祝いがちですけれど、そもそもキリスト教においてクリスマスというのは、かなり後付けで付け加えられたお祭りで、キリスト教の始まりというのは実はイースター、つまりナザレのイエスが再び神によって起こされたのだ、という信仰から始まったわけです。
 このイースターの2日前の金曜日にイエス様は十字架につけられて殺されたわけですが、この日を英語では「Good Friday」と呼びます。イエス様がいちばん苦しんだ、いちばん痛々しく、悲しい日が「グッド・フライデー」(良い金曜日)というのは、いわゆる「逆説」(Paradox)というものです。ある出来事や言葉が、全く逆のことを言い表している、ということを「逆説」と言います。イエス様の十字架というのは、最も悲惨な出来事は、実は神からの私たちに対する愛そのものなんだ、という逆説ですね。
 そして、この逆説は、金曜日に成し遂げられて完成した、というものではなく、今日の日曜日の朝の出来事によって完成されるものです。なぜなら、金曜日に起こったイエスの十字架の出来事は、日曜日になってもまだ続いているからです。

▼墓に入れられたイエス

 金曜日の午後3時ごろに息を引き取られたイエス様の遺体は、日が暮れる前に、急いでお墓に入れられました。
 どうも、ユダヤ最高法院という、イエスを殺す決議を行った議会の中に、イエス派の信者が紛れ込んでいたようで、その議員の名前をアリマタヤのヨセフというのですが、この人がイエス様の遺体を引き取らせてください、とピラトに願い出たんですね。
 そうでなかったら、受刑者の遺体はそのまま十字架の上に晒されて、カラスの餌食になりますし、十字架から下されても、そのままゴミ捨て場に糞尿と一緒に捨てられます。そんなことはイエス様を信じる者には耐えられないことです。そこで、アリマタヤのヨセフは、イエス様の遺体を引き取らせてください、と願い出たのですね。そして、ピラトがそれを許可しました。
 しかし、金曜日の夕方というのは、日没から安息日が始まりますので、みんな一切の仕事や用事をやめて、家に帰って静かに過ごさないといけません。そこで、アリマタヤのヨセフと、マグダラのマリアをはじめとする女性の弟子たちは、かなり急いでイエス様の遺体を、とりあえず布で巻いただけで、「岩を掘って作った墓の中に納め」たと書いてあります(マルコ15.42-47)。男性の12弟子たちは既に逃げてしまって、そこにはいません。
 当時のお墓というのは、岩を掘ってくり抜いた、小さな洞穴のような部屋で、かろうじて人が屈んで入れる程度の出入り口を残して、石を組んで塞いでしまいます。そしてその出入り口も、遺体を納めたあとは、円形の大きな石を横から転がしてきて、塞いでしまいます。
 そんな形でとりあえず遺体を墓の中の、石でできた棺に納めて、そして関係者はみんなすぐに退散して、安息日に備えて家に帰ったということなんですね。

▼空っぽの墓

 そして、土曜日の日没まで安息日が続き、日没後は危険なので、一般人は夜は出歩きません。日曜日の夜、東の空が白み始めるあたりから人々は行動を開始します。
 墓場に登場したのは、マグダラのマリアをはじめとする女性の弟子たちの代表者3人でした。かのじょたちは、油と香料を持ってやってきました。金曜日にイエス様の遺体を墓に入れた時は、傷だらけの血と汗でドロドロに汚れた状態のままでしたので、その遺体を改めてきれいに清めて、そして軟膏と香料をしっかり塗って、丁寧に葬りたいという思いで来たのでしょうね。けれども、「私たち女3人の腕力で大きな石の蓋を転がして開けるというのは難しいなあ」と話しながら来たわけです。
 ところが、墓に来てみれば、もう石が動かされて墓の入り口が開いています。そこで3人はお墓の中に入ります。すると、遺体を納めていたはずの石の棺の縁に、白い長い衣を着た若者が一人座っているので、3人は驚きます。
 この若者は3人に「驚くことはない」と言って、3人にいくつかの言葉をかけ、話をしますが、女性たちは「墓を出て逃げ去った。震え上がり、正気を失っていた。そして、だれにも何も言わなかった。恐ろしかったからである。」これでマルコによる福音書は終わりです(16.8)。
 これで終わり、ということは、一番最初に書かれた福音書では、イエス様の肉体が蘇ったということは一言も書かれていない、ということです。肉体の蘇りということは、この後の時代に書かれた他の福音書が書き加えたことで、元々そんなことは書かれていなかった。別にそのことについて触れる必要を、最初の福音書を書いたマルコは感じていなかったということです。
 マルコが伝えているのは、事実としてはただ、「墓が空っぽだった」ということ。そして、女性の弟子たちは恐ろしくて逃げてしまったので、男性の弟子たちには何も伝えていない、ということだけです。
 そして、マルコにとって大事なのは、この墓の中にいた若者が語った4つの言葉に託されたメッセージです。

▼十字架につけられたままのイエス

 最初のメッセージ。
 「あなたがたは十字架につけられたナザレのイエスを捜している」(16.6)。
 この言葉は日本語の聖書では非常に誤解を招く表現に訳されています。と言いますのも、ここでの「十字架につけられたナザレのイエス」という言葉は、実はちゃんと訳しますと、「十字架につけられたままの」となります。
 実際にはイエスは十字架につけられて、そしてそこから下されて、墓に葬られたはずです。しかし、この若者が言うには、「イエスは今も十字架にかけられたままだ」と言うのですね。
 これは、マルコよりも先に文書を書き残しているパウロも同じ言い回しを使っています。「十字架につけられたままのキリスト」。イエスは今も十字架につけられたまま苦しんでおられるのだ、と。その状態のイエスを私は見てしまったのだ、とパウロは言っているのですね。それと同じ言い回しを、マルコもここで使っているわけです。私たちが出会うキリストは今も十字架につけられたままのイエスなんだと。もう既にここで、肉体の復活なんて考えは吹き飛んでいますね。

▼再び起こされる

 第2のメッセージ。
 「あの方は復活なさって、ここにはおられない」(16.6)。
 これも、誤解を招く翻訳です。これでは本当に肉体が生き返ったように読めてしまいます。そういう誤解をしている人に不安を与えないように、いつまで経ってもこういう訳し方をやめることが、日本聖書協会にはできないのでしょうけれど、これは「復活」という言葉ではありません。実際にはここは「再び起こされる」という言葉です。
 ナザレのイエスは再び起こされた。十字架にかかったままの姿で。
 つまり、あの十字架に無惨に殺されたナザレのイエスの生涯はこれまで。もう終わりだと私たちは思っていた。けれども、実は終わっていない。十字架にかかられたままのイエスは、再び起こされたのだ。それは終わりのようで、実は始まりなのだ、ということです。
 でも、その再び起こされたイエスは、ここにはいない、と若者は言います。ではどこにイエス様はおられるのでしょうか?

▼ガリラヤ

 第3のメッセージ。
 「さあ、行って、弟子たちとペトロに告げなさい。『あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる』」(16.7)。
 これは亡くなった人の霊が故郷に帰りますとか、そういうことを言いたいのではありません。
 ガリラヤは確かにイエス様の出身地です。しかし、マルコはイエス様の誕生や子供時代については一切書いてないし、そういうことに興味がありません。マルコにとって「ガリラヤ」とは、イエスの活動の出発点です。そこはどんな所でしょう?
 それは、イエス様が癒やそうとした病人や障がい者がたくさんいるところ。生まれながらに貧しくて、その日食べる物にも事欠く人がいるところ。そして、「お前がそんな風に生まれついたのは、お前自身か、お前の先祖が罪を犯したからだ」と、苦しんでいる人の苦しみを上塗りするような事しか言えない上流階級の人々によって侮辱され、差別される人のいるところです。イエス様の活動はそこから始まりました。
 十字架につけられたままのナザレのイエスは、この上流階級の人々が本拠地にしているエルサレムにはいない。そうではなく、今日も明日も苦しんで生きる人、あるいは苦しみのあまり死んでしまう人、そんな人がたくさんいるガリラヤに、もうあなたがたより先に行っている。そこで苦しむ人と共に十字架にかけられたまま一緒に苦しんでいるのだ、という事です。

▼あなたのガリラヤに行きなさい

 そして第4のメッセージ。
 「『かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる』と」(16.7)。
 あなたがもしイエス様に会いたいと思うなら、ガリラヤに行きなさい。そこでお目にかかれるよ、と。
 これは物理的に現在もイスラエル国の北部にあるガリラヤ地方に行きなさいという意味ではないのは明らかですよね。そこにはるばる巡礼のように行ったらイエス様に会えるというわけではありません。そうではなく、「あなたにとってのガリラヤに行きなさい」という事ですね。
 この箇所を読むと、私はシスター渡辺和子の『置かれた場所で咲きなさい』という本の中で引用されたマザー・テレサの言葉を思い出します。インドのコルカタ(かつてカルカッタと呼ばれていました)で、路上で死にゆく人たちのお世話をしているマザー・テレサが日本に来られた時、かのじょの講演に感激した学生が、「私もコルカタに連れて行ってください」と言ったのに対して、マザーが「あなたの周りにもコルカタはあります。あなたのコルカタに行きなさい」と答えたという話ですね。
 これはイエス様の時代、社会に当てはめると、「あなたのガリラヤに行きなさい」となります。
 あなたの生きている所の周りにあるガリラヤに行きなさい。そこに行けば、十字架を背負って生きている、そして死んでゆくイエス様と出会えますよ、ということなんですね。
 私たちがかつて「復活」という言葉で読んでいた出来事というのは、そういうことです。私たちが、苦しみに満ちたこの世の現実に出会うとき、そこにイエス様がまさに苦しんでいるということを発見すること。それが「十字架につけられたままのイエス様」と、今も出会うことになるという意味なんですね。

▼恥と苦痛と絶望と孤独

 十字架でイエス様が何を経験されたかを、もう一度思い起こしてみましょう。
 イエス様は、鞭で打たれて全身傷だらけになり、体に着けていたものを全て剥がれて全裸にされ、手足を木に釘で打ちつけられ、この世のものとは思えないほどの痛みを覚え、多くの血を流し、そのまま何時間も苦痛を味わって、あとは自分の人生が終わってしまうだけという、恥と苦痛と絶望を体験されました。
 おまけに愛する弟子たちは全員逃げてしまい、周囲には死んでゆく自分を指差して嘲り笑う人たちばかりという孤独。人間が経験する最悪の状況、これ以上の悲惨な事態は無いということをイエス様は味わい尽くされて、そして誰にも助けられずに死にました。
 神も彼を助けませんでした。
 これが一番イエス様にはこたえたのではないかと思います。ずっと神様のことを「パパ(ヘブライ語ではアッバ)」と呼んでいた人ですからね。パパが最後は助けてくれるんじゃないかという希望も、心のどこか、気持ちの片隅にはあったのではないでしょうか。
 しかし、神様はイエス様を助けませんでした。それを悟ったとき、絶望の悲鳴をあげて、イエス様は死んでゆきました。
 これでイエス様の一生は終わりです。

▼十字架に神を見出す

 なぜこれを私たちは私たちの救いというのか。
 それは、イエス様がそこまで私たち人間の苦しみを一緒に味わい尽くされたからです。イエス様は人間として味わう最大の恥と苦痛と絶望と孤独を味わわれました。もし、そこで神がやってきてかれを十字架から下ろしたり、その傷を奇跡的に治したり、3日目に肉体を蘇生させたりしたら、何の意味も無くなってしまいます。なぜかというと、私たち自身の人生も体も心もそういうわけにはいかないからです。
 私たちも、助かるときには助かるけれども、助からない時は助からない。あるいは、もっと悲しいのは、自分の大切な人を助けたいとあれこれ手を尽くしても、どうにも助けられないということもあります。
 そして、「神さま、どうか助けてください」と願って必死に祈っても、願った通りになる人はいいです。でも、ならない人はならない。「神様は何もしてくれない。神様なんていないんだ」と思って死んでゆくしかない。実は世の中、そんな人間がほとんどでしょう。
 イエスは、そんな私たちの苦しみに終わるしかない人生、まさに「神に見放された」、「どこにも神なんていないんだ」と絶望しつつ死んでゆく、そんな終わりの瞬間を経て、生涯を終えました。
 しかし、何人かの人たちは、実はそんなイエスに神が現れているのではないかということを発見しました。イエスが苦痛に悶えて、何の助けもなく死んでゆく、そこに神がいたのだと読み取ったんですね。
 神は実は私たちと一緒にいるのだと。私たちと一緒に苦しみ、悩み、悲しみ、嘆き、そして一緒に死んでくれるのだということを読み取ったんですね。そして、だからあのナザレのイエスは、今も十字架につけられたまま、私たちと共にあるということを信じるようになったのです。
 何の希望も無い私を決して独りにはしない神様、そこに希望があるという逆説をそこに見出した人たちが、のちに「キリスト教」と呼ばれるようになる信仰を作り上げてゆきます。
 その信仰の始まり、イエス様の再発見、イエス様が十字架につけられたまま私たちと共にいることを思い起こし、記念し、お祝いするのがイースターです。
 皆さんはどのようにお感じになりますでしょうか。






教会の入り口に戻る

礼拝堂/メッセージライブラリに戻る

ご意見・ご指摘・ご感想等はこちらまで→牧師あてメール