〔最終更新日:2005年2月23日〕
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「靖国……なにが問題なのか」CONTENTS にもどる


三〇番地キリスト教会が、キリスト教徒として靖国神社公式参拝に反対する理由。

1.政教分離に反するから
    (a)靖国神社は一宗教団体

 「靖国神社」は、たとえば「日本キリスト教団」とか「日本バプテスト同盟」などと同じように、ひとつの宗教法人にすぎません。
 もともとは旧日本軍が管理した、国家宗教の施設でした。そのことは大変な問題ですが、戦後は政治と宗教を分離する意味で、政府から独立して単立の宗教法人となりました。
 (一時、自民党が国家で管理する案を提出、つまり、戦中までの体制に戻そうとしましたが、廃案になりました。憲法20条1項、および89条に触れるので当然ですが。1969年:戦後24年たってからです)

    (b)憲法違反

 ですから、いまの時代に、国家公務員が公用車を使って、公務の肩書きを記帳してというのは問題でしょう。これは国が特定の宗教に関わりを持つことを禁止する憲法20条3項に反します。
 また、玉ぐし料や献花料を、もし公費から支出すれば、これは特定の宗教団体のための公費の支出を禁止する憲法89条に反します。
 まして、「内閣総理大臣であるからこそ参拝する」という態度では、戦中までの国家宗教への逆戻りだと言われても仕方がないのです。 
日本国憲法 

第20条 信教の自由は、何人に対してもこれを保障する。いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない。
A 何人も、宗教上の行為、祝典、儀式又は行事に参加することを強制されない。
B 国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない。

第89条 公金その他の公の財産は、宗教上の組織若しくは団体の使用、便益若しくは維持のため、又は公の支配に属しない慈善、教育若しくは博愛の事業に対し、これを支出し、又はその利用に供してはならない。
 多くの種類の宗教がじっさいに国内に存在する以上、国家公務員はあらゆる宗教法人に対して中立でなければならないはずです。「政治家として参拝は当然」ではなく、「政治家として参拝しない」のが当然なのです。

    (c)ごまかしの政教分離

 じっさいそういう批判があるので、これまで政府・自民党は「二拝二拍手一拝」という神道形式をとらないとか、玉ぐし料を公費からは支出しないとか、小手先だけ変化をつけて「だから宗教行為ではない」という言い訳を立てる方法をとってきました。
 しかし誰が見たって、これはこそくなごまかしの小細工ですよね。どうして正面から討論できないのでしょうか。

    (d)私的参拝だったらいい?

 小泉首相は、「総理大臣は24時間総理大臣」ともおっしゃっているようです。これは確かにそうだと思います。しかし、だからこそ、いくら個人の心情とか感情とか持論だといっても、どうしても「公式参拝」になってしまうのです。
 小泉氏は「公式か私的かは問題ではない」とごまかしますが、どうしたってこれは「公式」になってしまうのです。ということは憲法違反です。
 首相がどうしても行きたければ、誰にも見つからないようにひっそりと、自家用車か公共交通機関で、まったく私費で参拝すればいいのです。それが今の立場で不可能なら、任期終了後か休暇中にでもどうぞ。 

    (e)靖国は国立のカルト宗教だった

 靖国信仰はもともと日本軍兵士の戦死を美化するために、かつての国家権力によって製造された国家宗教です。国家のために命を捨てることを奨励するために、国家自身によって作られた宗教施設ですから、人間を神とあがめたかつての天皇制同様、いわば「国立カルト宗教」と言っても過言ではありません。
 ただ、「死んだら靖国で会おう」と信じて出征した兵士がいたことは事実だし、いまでも靖国に家族が祀られていると信じている遺族はたくさんいます。その信仰を頭ごなしに否定する権利はキリスト者にはないのではないでしょうか。この場合は、他宗教に対応するときの寛容さがクリスチャンにも求められるのではないかと思うのです。
 そして、だからこそ一宗教法人である靖国神社は、私たち他の宗教法人と対等であってほしいし、国の要人が公式参拝することには断固反対なのです。 

2.戦争責任があいまいにされるから
    (a)A級戦犯の合祀

 よくマスコミなどで問題点として紹介されているのが、「A級戦犯の合祀(ごうし)」の問題です。
 この点は中国や韓国など、隣国から多くの非難が寄せられています。
 東条英機以下14名のA級戦犯が、他の「英霊」と一緒に靖国の「神」になったのは、1978年のこと。つまり戦後33年たってからです。合祀したい人たちから見れば、「もうそろそろいいかな」という頃合いだったのでしょうか。
 しかし、戦争責任というものへの感覚、そして過去の歴史への執着の度合いが、たいへん軽薄な日本の環境ならではの行為といえます。日本人以外の人々は、そう過去の事は簡単には水に流さないのです。

    (b)東京裁判が妥当でなくても

 戦犯を裁いた東京裁判は、「戦争に勝った国が負けた国を一方的に断罪するもので、妥当ではない」という意見があります。しかし、それを言い出したら、過去の判例というものは何でもなしくずしです。「あれはあの時の法律が悪かったのだ」と言って何でも正当化できる。
 「戦争法廷はしょせん戦勝国の都合で裁かれるものである」。それはそのとおりでしょう。でも、「だからそんなものにことさら几帳面に従う必要はない」という内弁慶な態度では、他国との交渉や駆け引きは出来ないでしょう。国際関係における手続きとはそういうものではないでしょうか。それをナメてかかっては、もう一度痛い目に合わされるだけなのではないでしょうか。

    (c)戦争犯罪者を神にする

 「A級戦犯はもうこの世で死刑という形で罪を償っている。亡くなってからその魂を選別するのはよくない」との意見も聞かれます。そういう言い方をすれば、日本の多くの人に支持されると思っているのでしょうか。
 しかし実は、死者の魂を選別しているのは靖国神社自身なのです。
 靖国神社は、戦闘員と司令官しか合祀しません。「国のために尊い命を献げた方々」を慰霊すると言いながら、その戦闘員を支えた家族の戦災死者や、兵員を乗せた民間船の乗組員などは祀られません。靖国は戦没者を平等に慰霊する宗教施設ではなく、軍服を着た人だけを国家への功労者として選別し、神格化する宗教施設なのです。
 ということは、靖国がA級戦犯を合祀すると決めたということは、A級戦犯も国家への功労者としてあえて選別した、そしてそれを神として祀った、ということです。
 「戦争犯罪者をあえて神にして礼拝する」ということは、国際社会に向かって、「日本は戦争犯罪というものを重要視しておりません」と宣言しているようなものです。

    (d)責任者ははっきりさせてほしい

 加えて、戦争を命令した者と、命令された者を、同列に扱うという感覚も納得がいきません。
 そういう体質が、政治家・指導者の責任の所在をあいまいにしていくのです。
 合祀を望む立場からすれば、「東条英機以下の14名も戦勝国に殺されたようなものだ」という意見も出るでしょうが、そういう問題ではありません。ごくごく少人数の一糸乱れぬセクト集団ならともかく、これは国民国家の話ですから、賛否両論ある多数ある中で国家や軍の責任者の命令が全体を動かしていくのですから、責任者はちゃんと責任者として分けておいてもらわないと困ります。
 「みんな一緒だ」では、納得できないまま不本意に死んでいった兵士が浮かばれません。

(e)いちばんの卑怯者は誰か

 最も憤りを感じるのは、昭和天皇に対してです。
 よく、「昭和天皇は平和を望んでおられたが、軍部が独走した」と言われますが、そんな無責任な話はありません。天皇が軍部の独走を止められなかったというのも疑わしい話ですが、それが本当だったとしても、やはり法的には最高責任者は天皇だったとしか言いようがないのです。
 じっさい、天皇は神とされて崇められ、その神と神の体である国体=国土を守るために、たくさんの兵士の命が消費されたのです。自分の名のもとに多くの命が奪われていったわけです。なぜ、止めなかったのですか? 軍部が独走したから? 軍部が自分の名前を使って、たくさんの人を殺しているわけですよ、敵も味方も。なぜ止めなかったのですか? 止めようとしたら自分が軍部から殺されるからですか? だとしたら、天皇はやはり自分の命惜しさに、多くの日本人を犠牲にして生き延びたことになりますね。
 それなのに、戦争に負けてしまうと「実は私は神ではなく人間でした」などと平気で口をぬぐってのうのうと生きのびている。
 皇軍兵士たちは皆、「お国のために死ね」と特攻に駆り出され、「生きて虜囚の辱めを受けず」と玉砕し、捕虜となって生き延びた方の中には今もなお「生き恥」であると素性を隠している人が何人もいるのに、です。
 昭和天皇はきたない。戦没者への日本最大の裏切り者は昭和天皇といえるでしょう。そんな天皇にささげた命を、さらに神格化して、参拝して、美化することで、この国の歴史上の重要なあやまちをごまかすことに加担するのはイヤです。

    (f)内政干渉か

 「中国・韓国の非難は内政干渉だ。連中の国内教育も偏った自国中心的な歴史間に基づいているではないか」という意見もあります。それは、いくらか当たっているような気がするときもあります。向こうの政治家も、この問題を外交のカードとして使っている可能性もあるでしょう。
 また、「首相はヘタに説明などしないほうがいい。そうやって出て行くから、向こうの政治家も引くに引けなくなってしまう。国外の非難は適当に流しておけばよい」という意見もあります。政治家の立場としては、そういう面も否定しきれないでしょう。
 しかし、たとえば「新しい歴史教科書をつくる会」のように、「だから、こちらも自国中心主義でいいのだ」と居直っては、まるで子どものケンカと同じです。
 また、いまや国境を挟んであちらとこちらで国民がにらみ合っているような時代ではありません。日本と中国・韓国は、お互いの領土に引っ越して住んでいる人がたくさんあるし、経済的な相互依存も深まって、お互いなくてはならないビジネス・パートナーとして歩み始めているのではないでしょうか。
 それを思うと、「内政干渉だ」と居丈高になったり、「どんな批判があろうとも」と硬直するのではなく、歴史観を一致させるのは不可能であるにしろ、対話にたいして開かれた態度をとって、お互い豊かになろうじゃないかと持ちかけるのが、大人の国というものではないでしょうか。
 それとも、いつもガンを飛ばして肩をいからせていないと、自分のアイデンティティが確認できないほど、この国は未熟なのでしょうか。

3.国家主義的だから
    (a)日本のためというより天皇のため

 靖国神社はもともと明治2年にできた東京招魂社がその前身です。これは、明治維新のときに起こった戊辰戦争(ぼしんせんそう)で亡くなった、官軍側の戦死者だけを祀ったものです。つまり、同じ日本人でも、天皇をかついだ薩摩や長州などの関連は祀るけど、幕府についた藩士たちは入れてあげないよ、ということだったのです。明治天皇が、「わしのために死んでくれた者たちを祀りたい」と言ってできたわけですから当然といえば当然ですか。要するに「日本のために」というよりは、「天皇のために」「朕のために」だったわけです。
 それから後は、日清戦争にしろ日露戦争にしろ、そして第二次世界大戦にしろ、それを戦ったのは「皇軍」すなわち天皇の軍隊だったわけですから、天皇を神とする国家神道で、日本軍戦死者を祀っていくのです。
 国家は「国体」であり天皇の体であるとされていたのですから、大日本帝国においては国家=天皇でした。かつての日本の国家主義は、天皇という絶対的な君主による神権政治によるもので、この君主に命を献げることが国民の美徳であると教育する一つの装置が戦死した「皇軍兵士」を祀る靖国神社だったのです。
 そういう意味でも、天皇が最高責任者であり、最大の戦犯だと言いたい当教会の主張がお分かりでしょうか。 

    (b)味方しか祀らないのは日本的ではない

 天皇制にしろ靖国神社にしろ、「日本の伝統」とか「国民の自然な感情」という事がよく言われますが、見方だけしか祀らない、というのは、実は明治時代になって新しく作られた独特な方式であり、それ以前の日本の長い歴史では珍しいことです。
 古来、日本では敵方の武将などを、殺した場合は神社を作って祀ったり、生かしておいた場合も僧職や神官にしてどこかのお寺か神社に押し込んでしまう、ということが多かったのです。この背景には、敵の怨念やタタリを恐れる気持ちがありましたし、また、政界の実権は奪っておきながらも、聖なる世界での権威を持ってもらってプライドは維持させ恨みを鎮めるという現実的な機能もあったのです。そして、そうやって敵も味方も供養する中で、戦というものの悲しさ、人の命のはかなさを客観的にみつめる目も養えたのでした。
 明治天皇の「招魂社」の発想は、そういう「日本的なよき伝統」を破って、自分のために死んだものだけを慰霊するという、たいへんエゴイスティックな宗教を捏造したものだったのです。まぁだいたい近代天皇制というものが、すべて明治以降に捏造された「ニセの伝統」なのですけれど。

    (c)望まない合祀もある

 本人や遺族が望んでもいないのに、勝手に靖国に祀られてしまっている人もいます。
 たとえば、沖縄で集団自決に追い込まれたひめゆり学徒の生存者からも、「本当は生きたかった」と国のために死んだことを祭り上げることに反対の声があがっていますし、「あの人は靖国にはいない」と言う遺族の方もおられます。
 それでも、靖国神社は機械的に十把ひとからげで、祭り上げてしまうのです。不本意のうちに死んだ当人、親しい生存者や遺族の思いと無関係に一律に勧められる合祀とは一体なんなのでしょうか。それはとてもファシズム的なのではないでしょうか。
 戦後も、殉職自衛官が残された妻の意志と反して、勝手に護国神社:各地にある靖国の支部のようなものに祀られてしまうということが起こっています。これは憲法20条の信教の自由に対する侵害ではないでしょうか。

4.差別的だから
    (a)女性差別

 先にも一度触れましたが、靖国神社は原則的に戦闘員と司令官しか合祀しません。「国のために尊い命を献げた方々」を慰霊すると言いながら、その戦闘員を支えた家族で空襲や飢餓などで死んだ戦災死者は祀られません。そのような、背後で国家を支えた人々は、「銃後の守り」とか、「進め一億」とか、「食糧増産の戦士」とか何とかおだてられはしたけれども、「国のために尊い命を献げた方」の中には入れてもらってはいないのです。
 しかし、「戦後日本の自由と繁栄のために犠牲になられた方々に敬意と感謝をささげる」と言うのであれば、このような戦災死者たちにも同じようにささげるべきなのではないでしょうか。なぜ天皇のために死んだ兵士だけ特別扱いしておいて、何の違和感も感じないのでしょうか。
 それは、「敬意と感謝をささげる」と言っている現代の男性の政治家、その人自身が、たとえば自分のパンツは誰が洗っているのか、自分のメシは誰が炊いているのか、といったことに思い至る人ではないからです。

    (b)官民差別

 そもそも、靖国神社は原則的に軍服を着た人しか合祀しません。
 同じ艦砲射撃の砲弾に当たっても、駐屯中の陸軍兵は合祀されて、農民は合祀されないのです。
 同じ潜水艦の雷撃にあっても、乗客の中の陸軍幼年学校の生徒は合祀されて、一般乗客は合祀されないのです。
 大陸で同じ戦闘を戦っても、軍人は合祀されるが、いっしょに武器を取って戦った在留民自衛団員は合祀されないし、戦闘中の炊き出しや傷病兵の看護に当たった在留婦人の死者たちは、合祀されないのです。たとえ、同じ戦闘で死んだ夫婦でも、軍服を着た夫は合祀されて、妻は合祀されません。
 靖国神社の合祀基準にはこういう差別があるのです。

    (c)少数者差別

 日本という国があり、その国に多くの人が住んでいる。その中には、国籍が日本国でも、人種的あるいは民族的にはいわゆる日本人ではない人もたくさんいます。また、宗教的にもキリスト教徒、仏教徒、その他さまざまな信仰を持つ人が日本には住んでいるのです。
 にもかかわらず、小泉首相のように「日本人は死んだらみんな仏様になる」とおっしゃる。もっとも靖国は仏教ではありませんで、そういう不勉強はともかくとしても、結果的に日本人のクリスチャンは全員、総理大臣によって自らの信仰を愚弄されているのだということは、認識しておいたほうがよいでしょう。首相は、息子をキリスト教学校で面倒見てもらっておきながら、この図々しさです。
 先にも一度述べましたが、多くの種類の宗教がじっさいに国内に存在する以上、国家公務員はあらゆる宗教法人に対して中立でなければならないはずです。「政治家として参拝は当然」ではなく、「政治家としては参拝しない」のが当然なのです。

    (d)民族差別

 小泉首相は、靖国参拝を正当化しようとして、実にカンタンに「日本人の国民感情として……」という言葉遣いをされます。しかし、その「日本人」とはいったい誰の事をさしているのでしょうか?
 かつて中曽根元首相が「日本は単一民族だから……」と言って問題になったことがありましたが、もちろんこれは事実に反します。
 本当に単一の民族しかいない国の国内で、人に聞こえないように言うのなら、身内のお国自慢でも済まされましょうが、少数とは言え、多様な民族が帰化したり、在留したりしていて、ちゃんと在日外国人からも税金を取っておきながら、そんな一国の首相たる人物が、公然と「この国は単一民族で構成されている」などと言っていては、現実認識を疑われます。
 その上、中曽根氏は、この発言を「アメリカのようにプエルトリコとかああいうのが混じっていないから日本人は優秀だ」という文脈で続けています。つまり、差別発言なのです。
 靖国の戦死者との関連で言えば、戦没者・戦災死者の中には出身地が日本軍に占領されたために「日本国民」にされた台湾人や朝鮮人・韓国人が含まれています。そして生き残った人たちは、今度は敗戦後、「ハイ、あんたたちは今日から日本国民じゃないよ」と見放されました。これでは、使い捨てです。
 そういう経緯をまるでなかったかのように、「日本は単一民族である」と言い切ることは、これらの人々の存在に目をつぶっているということです。小泉氏の「日本人の国民感情」発言にも、それと同種の感覚の鈍さを発見するのです。
 ごくたまに、「使い捨てにされるような民族がレベルが低いのだ」という差別発言を聞くときがあります。敗軍の兵が何を言う。負け犬の遠吠えです。

    (e)単一民族幻想

 中曽根元首相の「単一民族発言」、さらには「第三国人発言」の石原東京都知事も、「みんな仏様」の小泉首相も、「神の国発言」の森元首相も、結局同じような思想の持ち主です。いや、中曽根氏によれば「同じDNA」だそうです。
 彼らは、「国籍」と「民族」と「人種」が同じではないということが理解できていないし、宗教というものがいかにひとりひとりの生き方を深く結びついて多様であるかがわかってないのです。
 「日本国」に住んでいるのは、「日本国籍」を持つ人だけではありません。
 「日本国籍」持っているのは、いわゆる「日本人」という民族ばかりではありません。
 「日本人」も、みんなが「日本民族主義者」でもないし、みんなが仏教徒でもないし、みんなが靖国や護国神社の信者でもないのです。
 それでも「日本人は……」とか「日本の国民感情は……」と無邪気に言い切れるのは、その政治家が少数派を排除する体質・差別的な体質を持っているからです。

5.戦争を美化しているから
    (a)これでは不戦の誓いにならない

 こうして考えてくると、この国は、
  (1)国家が宗教を捏造することの危険性の認識:特に天皇制の欺瞞への反省
  (2)戦争責任や戦争犯罪についての認識
  (3)国民のための国家ではなく、国家のために国民を利用する国家主義への反省
  (4)差別を国内外に広める父権的な単一民族幻想に対する反省
 ……などを、きちんとしていないことがわかります。
 これらの反省点をないがしろにして、なお、天皇のために死ぬ者を神格化する靖国神社に、国家公務員が公式参拝するということは、天皇の軍隊、そして天皇の戦争を肯定する行為にあたります。
 これは政治家個人の持論や意見と関係なく、そういう意味を持ってしまう、対外的にそういう意味に受けとられても仕方がない行為なのです。「オレはそういうつもりじゃない」と言ったところで、「それはあんたが深く考えてないだけです」と言われてしまうだけです。自分のやることの持つ意味や文脈というものを、ちゃんと大局的に認識しないといけません。
 「日本が戦争に進んだのは孤立したからだ」と小泉首相は言います。それならば、孤立主義的な持論にはこだわらないほうがよろしいのではないでしょうか。

    (b)戦死を美化している

 小林よしのりという漫画家の『ゴーマニズム宣言・戦争論』には、派手な戦闘で命を散らす兵士や、生き残った兵士の姿がたいへん英雄的にカッコよく描かれています。
 だけど、実際には「戦死」というのは、そんなにカッコよくないそうです。
 第二次世界大戦での旧日本軍の戦死者は、特に後半、1943年以降は7割が餓死、1割は輸送中の沈没死だったそうです。7割が餓死ですよ? 
 こういう死に方に、「天皇あるいは国家のために命を献げた」というようなカッコイイ表現が妥当するのでしょうか。むしろこれだけ多数の兵員の命を無駄にした日本軍の失敗責任のほうが問われるべきなのではないでしょうか。
 にもかかわらず、こういう表現であたかも戦死が甘美なものであるかのように演出するのは、国民を欺く行為と言えます。
 参拝の理由として、明らかに現実とは違う形で戦死を美化する物語を捏造しているのですから、これは戦争賛美だと言われても仕方がないのです。

 以上、
 国と宗教の分離という視点からも、
 全ての人の一人一人の命と存在を大切にしてほしいという望みからも、
 キリスト者であるがゆえに、三〇番地キリスト教会は、政治家の靖国神社公式参拝に反対いたします。
 

 (第1版:2001年8月15日)
 (第2版:2005年2月23日)


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