「靖國神社」関連年表……日本における政治と宗教の関わりについての学習

〔最終更新日:2002年8月3日〕
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 この学習ノートは、年表形式になっています。
 30番地教会牧師の学習に伴い、順次更新されますので、常に発展途上中です。

1868年 5月  京都・東山に祠宇が設けられ、これが翌年の「東京招魂社」の前身となる(慶応4)。
1869年    「東京招魂社」(靖国神社の前身)が、幕末の尊皇攘夷の志士の霊魂を祀る場として出来た。明治天皇の意向とされる(明治2)。(朝日新聞2001年6月25日参照)
 (1) 江戸時代までは、皇室も将軍家も含めて、ほぼすべての日本人の葬儀は仏教式であったが、ここから国家による神道式の弔祭様式が作り出された。
 (2) また、「人を神に祀る」という風習はそれまでの日本の宗教伝統のなかにも存在したが、現世に生きた人々を戦死者だというだけでことごとく神として祀る様式は新しく作られたものである。
 (3) さらに、その際、祀る対象とされたのは朝廷・官軍側であったのも特徴。これは、その後の戦争でも日本軍側の死者だけ祀るという体質として受け継がれてゆく。これも、従来日本の宗教伝統では敵方の死者をも個別に祀ることで「怨災(おんさい)」をなだめようとするものであったのに対し、異変した部分である。(朝日新聞2001年8月9日、安丸良夫さんコラム参照) 
1879年    東京招魂社は、「靖国神社」と改称され、陸・海軍が所管するようになる。軍人・軍属か、その要請で戦争に参加した人が、天皇の裁定で祀られ、天皇に命をささげた人は「神」になるとされた。(明治12)(朝日新聞2001年6月25日参照)
1889年  (明治22年)大日本帝国憲法発布。28条には信教の自由は明記してあるが、「安寧秩序ヲ妨ケス及臣民タルノ義務ニ背カサル限ニ於テ」とあり、取り締まられることは可能になっていた。また国家神道は「別格」として、役所の管轄も違っていた。(上田栄「教会が自由を手放すとき」(p.4-5)『いのちのことば』2006年2月号)
1932年  上智大学生、靖国神社参拝拒否が問題に。大学やキリスト教全体が日本的でないという批判にさらされる。結局大学側は文部省に「神社は宗教か?」と照会し、「神社非宗教論」を受け入れることで神社参拝を容認してしまう。
1939年    「宗教団体法」施行。キリスト教に関して言えば、日本のキリスト教諸派は「日本基督教団」として強制合同させられる。
1945年 8月  大日本帝国、第2次世界大戦に敗戦。15日、昭和天皇、敗戦の詔勅。
12月  「宗教法人法」施行。宗教法人は、宗教団体法による「許認可団体」ではなく、「自発的結社」として存在することになる。特定宗教団体が国営化されることも禁止された。(深井智朗「原点としての神道指令3」『福音と世界』2001年10月号、新教出版社、p.63参照)
1946年 2月  国家神道としての神社神道廃止。(朝日新聞2001年6月25日参照)
 連合国軍総司令部(GHQ)が、靖国神社は@国家との関係を断って宗教施設として存続する、A宗教色のない戦没者追悼の記念碑的施設にする、という2つの道を示し、靖国神社は@を選ぶ(朝日新聞2001年6月25日参照)
1947年 5月  日本国憲法施行。政教分離を規定。(朝日新聞2001年6月25日参照)
1951年 10月  秋季大例祭に吉田茂首相参拝。(朝日新聞2001年6月25日参照)
1959年 3月  国立千鳥ケ淵戦没者霊苑が完成。(朝日新聞2001年6月25日参照)
1969年 6月  自民党が靖国神社を国家管理する法案を提出する(が、廃案に)。(朝日新聞2001年6月25日参照)
1975年 8月  三木武夫首相、首相で初めて終戦記念日に靖国神社参拝。「私人」として。(朝日新聞2001年6月25日参照)
1978年 8月  福田赳夫首相が参拝。内閣総理大臣と記帳。「首相が私人の立場で神社に参拝することは自由である。閣僚の場合、警備上の都合などから、私人としての行動の際にも公用車を使用している。記帳に肩書を付すことも慣例として用いられている」(10月、参院で安倍晋太郎官房長官が答弁)(朝日新聞2001年6月25日参照)
1978年 10月  靖国神社にA級戦犯を合祀。(朝日新聞2001年6月25日参照)
1980年 8月  鈴木善幸首相が参拝(81、82年も)(朝日新聞2001年6月25日参照)
11月  「総理大臣が国務大臣の資格で参拝することは憲法20条との関係で違憲の疑いを否定できない」(政府統一見解:衆院で宮沢喜一官房長官が答弁)(朝日新聞2001年6月25日参照)
1983年 8月  中曽根康弘首相が参拝(84年も)(朝日新聞2001年6月25日参照)
1985年 8月  藤波孝生官房長官の私的諮問機関が「靖国の公式参拝は可能」との報告書。
 8月15日には中曽根康弘首相が、首相として初の公式参拝。(朝日新聞2001年6月25日参照)
 この際、おはらい・玉ぐし奉呈・二拝二拍手一拝の神道形式を避け、祭壇に向かって一礼するにとどめることで、「宗教的意義を有しない」と藤波官房長官談話で口実。1980年11月の鈴木内閣の政府統一見解も変更すると明言。ただし玉ぐし料は3万円を公費から支出。(朝日新聞2001年8月9日参照)
9月  中国外務省が靖国公式参拝を非難。(朝日新聞2001年6月25日参照)
1986年 8月  中曽根首相、参拝見送り。「靖国神社がA級戦犯を合祀していること等もあって、昨年実施した公式参拝は近隣諸国の国民の間に批判を生み、過去の戦争への反省と平和友好への決意に対する誤解と不信さえ生まれるおそれがある」(後藤田正晴官房長官の談話)(朝日新聞2001年6月25日参照)、「近隣諸国の国民の間にA級戦犯に対して礼拝したのではないかとの批判を生んだ」(同)(朝日新聞2001年8月9日参照)
1990年 5月  厚生省(当時)の原爆被爆者実態調査がまとまったのを契機に、海部俊樹首相(当時)が「原爆死没者への弔意の表し方について検討」と発言。ただし、被爆者団体の国家賠償に代わる案として出されたもの。(朝日新聞2002年7月31日参照)
12月  政府が、国として原爆死没者に弔意を表す慰霊施設を広島・長崎両市に建設する方針を固め、1991年度予算に検討費を計上。(朝日新聞2002年7月31日参照)
1991年 5月  厚生省が原爆死没者慰霊施設基本構想委員会を設置。(朝日新聞2002年7月31日参照)
9月  公式参拝に違憲判断を下した岩手靖国訴訟の仙台高裁判決が確定。(朝日新聞2001年6月25日参照)
1994年 12月  被爆者援護法成立。原爆死没者追悼平和記念館は同法41条の「平和を祈念するための事業」に位置づけられる。(朝日新聞2002年7月31日参照)
1995年 8月  村山富市首相が「遠くない過去の一時期、国策を誤り、戦争への道を進んだ」との表現を盛り込んだ談話を発表。(朝日新聞2002年7月31日参照)
11月  厚生省、原爆死没者追悼平和記念館の開設準備検討会設置。(朝日新聞2002年7月31日参照)
1996年 7月  橋本龍太郎首相が誕生日(7月29日:59歳)に参拝。(朝日新聞2001年6月25日参照)
 「いとこはあそこに帰ってくると言って出撃した。大祭とか終戦記念日は避けて、誕生日という私的な日を選んだ」。しかし、参拝の際には「内閣総理大臣」と記帳、形式も「二拝二拍手一拝」の神道形式を踏襲。玉ぐし料は出していない。橋本氏は日本遺族会(自民党の票田)の会長や「みんなで靖国神社に参拝する国会議員の会」会長を歴任している。(朝日新聞2001年8月9日参照)
1997年 4月  『愛媛玉串料訴訟』上告審で、最高裁大法廷判決。愛媛県が靖国神社に納めた玉串料などを公費で負担したのは政教分離を定めた憲法に違反する。よって県は支出した金は賠償するとの判決。(深井智朗「原点としての神道指令3」『福音と世界』2001年10月号、新教出版社、p.64参照)
1998年 3月  小泉純一郎厚生大臣(当時)が、厚生省で検討中の原爆死没者追悼平和祈念館について、「なぜ(原爆資料館などと)重複するものをつくるのか。再検討すべきだ」と国会で発言。被爆者らの反発を受ける。(朝日新聞2002年7月31日参照)
1999年 8月  野中広務官房長官が記者会見で、A級戦犯を分祀し、純粋な特殊法人とする案を示す。(朝日新聞2001年6月25日参照)
2000年 7月  自民党の「靖国問題に関する懇談会」が発足。99年8月の野中案の検討に入るが、靖国神社などの反対で立ち消えに。(朝日新聞2001年6月25日参照)
2001年 4月  小泉純一郎氏、自民党総裁選中、日本遺族会事務所などで「首相になっても(靖国に)参拝する」と明言。
5月  小泉純一郎首相、衆議院で「公式参拝は憲法に違反しない。8月15日は真心を込めて参拝する」と明言。(朝日新聞2001年6月25日参照)
7月  広島の原爆死没者追悼平和祈念館の展示説明文に「国策を誤り、戦争への道を歩んだ」と表記するとの厚生労働省の案に、開設準備検討会から異論。被爆者団体側は「『国策を誤り』の表現は不可欠」との要望書を厚生労働大臣あてに提出。(朝日新聞2002年7月31日参照)
8月  13日、小泉首相が参拝。中国・韓国などが反発、政府・与党内でも自重を求める声が高まったことから日程を前倒しした。「内閣総理大臣 小泉純一郎」と記帳、「二拝二拍手一拝」の神道形式ではなく一礼にとどめ、玉ぐし料の代わりに「献花料」を事前に私費で支払った。「総理として一旦行なった発言を撤回することは、慙愧の念に耐えません」と首相談話。(朝日新聞2001年8月14日参照)
10月  8日、小泉首相は中国の江沢民国家主席と会談。盧溝橋事件の現場を訪問し、中国に対する侵略を謝罪、しかし靖国神社参拝問題には触れず。(朝日新聞2001年10月8日参照)
2002年 1月  原爆死没者追悼平和祈念館の開設準備検討会が「誤った国策」との言葉を含む説明文案で合意。(朝日新聞2002年7月31日参照)
4月  21日、小泉首相が突然、靖国神社を参拝。5−6月の日韓共催ワールドカップサッカー、10月の日中国交正常化50周年記念行事への悪影響を懸念して、との事。首相は参拝後、8月の参拝はしないと明言。(朝日新聞2002年4月22日参照)
7月  2001年夏の小泉首相靖國参拝に対する違憲確認訴訟をめぐり、靖國神社を支持する立場から旧日本兵や戦没者遺族ら計16人が求めていた訴訟への補助参加の申し立てを大阪地裁が却下。旧日本兵らは「違憲訴訟によって宗教的・民族的人格権が侵害され、多大な苦痛を受ける」と主張。村岡寛裁判長は「申立人の法的地位や利益に影響を及ぼすとは認められない」とした。(朝日新聞2002年8月1日参照)
8月  1日、「国立広島原爆死没者追悼平和祈念館」が開館。(朝日新聞2002年7月31日参照) 
11月  18日、福田赳夫官房長官の私的懇談会「追悼・平和祈念施設の在り方を考える懇談会」が、戦災による死没者ら戦争犠牲者を広く追悼する無宗教の国立の新施設を建設するよう提案する方針を決定。追悼の対象は、明治維新以降の戦争の死没者。ただし、国内・外、軍人・軍属・民間人、A級戦犯の取り扱いについては明言せず、追悼対象を特定化しない考え。靖國神社とは「対立したり矛盾したりはしない」と今井敬会長(経団連名誉会長)。自民党内には、「靖國が否定される」との反対論も。(毎日新聞2002年11月19日)
12月  24日、福田赳夫官房長官の私的懇談会「追悼・平和祈念施設の在り方を考える懇談会」が、「国立の戦没者追悼施設が必要だが、最終的には政府で判断されるべき」とする報告書を提出。追悼対象として、明治以降の日本が関わった戦争の死没者、戦後の国際平和活動などでの死没者も含み、将兵だけでなく民間人や外国人も含め、宗教施設のように個々の人間が追悼対象かどうか問わず、誰を追悼するかは施設を訪ねる人の自由に任せるというもの。ただし、自民党内、また日本遺族会もほとんど無視の構え。(朝日新聞2002年12月25日)
2003年 1月  14日、小泉純一郎首相、突然の靖國神社参拝。中国・韓国からは批判。国内からも、対北朝鮮の連携を深めるべき時に不適切であったと批判。
2004年
2005年
2006年 2月  新憲法草案第20条に、「国及び公共団体は、社会的儀礼又は習俗的行為の範囲を超える宗教教育その他の宗教的活動であって、宗教的意義を有し、特定の宗教に対する援助、助長若しくは促進又は圧迫若しくは干渉となるようなものを行ってはならない」という文言が入る。「社会的儀礼又は習俗的行為の範囲」という言葉はどうにでも解釈できる。靖国神社参拝も護国神社参拝もその他のケースも社会的儀礼・習俗的行為で片付けられ、かつての神社非宗教論が復活する危険性がある。


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