Brother Thomas' Underground Chapel

ブラックジャック

   by Br. Thomas  02/27/2004

ブラザー・トマスのアンダーグラウンド・チャペル入り口へ
三十番地キリスト教会の案内図に戻る

聖書:ルカによる福音書 14章1〜6節(新共同訳・新約 p.136)

  安息日のことだった。イエスは食事のためにファリサイ派のある議員の家にお入りになったが、人々はイエスの様子をうかがっていた。そのとき、イエスの前に水腫を患っている人がいた。そこで、イエスは律法の専門家やファリサイ派の人々に言われた。「安息日に病気を治すことは律法で許されているか、いないか。」彼らは黙っていた。すると、イエスは病人の手を取り、病気をいやしてお帰しになった。そして、言われた。「あなたたちの中に、自分の息子か牛が井戸に落ちたら、安息日だからといって、すぐに引き上げてやらない者がいるだろうか。」彼らは、これに対して答えることができなかった。

ブラックジャックのDNA

  私は今、宝塚にある手塚治虫記念館の近くに住んでいます。近くといっても、家から30分以内という程度の意味ですが。先日まで、ここで「ブラックジャックのDNA展」と題した企画展をしておりました。
  手塚治虫の漫画といいますと、小学生の頃には祖父の家に行くたびに叔父のコレクション目当てに本棚の前に座り込んでいたことを思い出します。そのころはどのシリーズを目当てに座り込んでいたか、まったく覚えていないのですが、現在の私にとっては息抜き的なものが例えば「七色いんこ」であったり、「ドン・ドラキュラ」であったりします。また、息抜きであると同時に常に何か考えさせられるところがあり、だから、というわけではないのですが、私の好きなシリーズに「ブラックジャック」や「火の鳥」があります。
  近くにあればあったでいつでも行ける、という安心感からか、なかなか足を運ぶことの無かった手塚治虫記念館なのですが、ブラックジャックと聞いてようやく、行って参りました。いつ行っても大混雑なのよ、という評判もなかなか行かない理由の一つだったのですが、幸か不幸か、ファミリーランドが閉園して以来、手塚治虫記念館の入場者も減っているとのことで、それほどの混雑に合わずにすみました。

ブラックジャックの本質

  私自身の関心として、生命(いのち、と読んでください)の始まり、とか、生命の終わり、とかの医学に隣接した領域があります。そこで、「ブラックジャック」や「火の鳥」が出てくるのですが、とりあえず、難しい話は抜きにして、なかなか楽しめました。
  例えば、印刷前の修正だらけの原作であるとか、ブラックジャックのトレードマークであるコートや診療鞄を再現したものが展示されていたりしました。診療鞄は実際に持たせてもらえましたが、かなり重かったです。原作もこれを印刷するとあーなるのか、と頭の中でそのページを思い出したりしていると、時間がたつのを忘れてしまいました。
  宝塚歌劇でもブラックジャックをやっていたとは今回私は初めて知ったのですが、そのほかにも、今まで何度かテレビドラマ化されており、今年も秋にはドラマになるということでした。私が以前に見たドラマではブラックジャックは加山雄三が演じていましたが、私のイメージではむしろ西郷輝彦、ライバルのキリコは草刈正男がぴったりかと、まぁこれは10年以上前の私の勝手なキャスティングですから、今ではもっと他にぴったりの人がいることでしょう。
  ブラックジャックについて漫画の歴史からの意味づけはいろいろあるようですが、とりあえず、知らないぞ、という人のために簡単に紹介しますと、超人的な技術を持ち、無免許で、滅茶苦茶な料金を取る一匹狼の外科医です。彼自身子供の頃に瀕死の大けがを負い、その傷跡が顔にも体中にも残っています。彼の評判は暴利をむさぼる悪徳医師であったり、奇跡の腕を持つ無免許医であったりします。でも、彼の本質はあるエピソードで彼自身がポロリと漏らしたように、誰よりも生命を大事にする人です。

生命の瀬戸際

  私たちは日常、生命の瀬戸際に生きている、とは思っていません。身近に生命の瀬戸際を感じつつ生きている人がいる、という人もおそらく、それほどたくさんはいないでしょう。それだけに私たちは生命の重さ、とでも言うべきものを実感できずに毎日を過ごしてしまいがちです。
  みなさんの中にそのような経験、身近に生命の重さを感じたことのある人は、その経験を忘れないでいただきたい、と思います。初めのうちは、忘れようとしても忘れられるものか、と思っていても、人はいつしか日常の中で、忘れないはずのことをどこかに置き忘れて毎日を暮らしてしまいます。
  例えば、私にとってのそのような経験は、間違いなく、9年前のあの震災であり、もう一つあげるなら、以前勤めていた学校で授業中に亡くなった一人の生徒のことであります。さらに加えるなら、かつて教会学校の帰りに一人の子供が道路に飛び出しそうになったのを走って追いかけて抱き留めたとき、逆に私が車にはねられそうになった、あのヒヤリとした一瞬であったりします。

生命の重さ

  イエスもまた生命を大事にいたしました。
  一方でイエスは力と思いを尽くして、つまり生命の限りに律法を守りなさい、と教えてもいるのですが、同時に今日の聖句のように、律法と生命とどちらを選ぶかギリギリの選択を迫られた時には、ためらうことなく生命を選びます。
  くりかえして申します。私たちは毎日の生活の中で生命の重さを感じることは少ないかもしれません。でも、それを忘れずに毎日を送りたい、送ってほしい、そう思います。

祈り

  御在天の父なる神様。
  私たちがあなたの御手に守られて毎日を生きていることを思います。
  私たち一人一人に、一回限りという意味で平等に与えられた生命の重さを感じます。
  このことをあわただしい毎日の生活の中で忘れることの無いように導いてください。
  主イエス・キリストの御名によって祈ります。
  アーメン。

ブラザー・トマスのアンダーグラウンド・チャペル入り口へ

礼拝堂/メッセージライブラリに戻る

「キリスト教・下世話なQ&Aコーナー」に入る

ご意見・ご指摘・ご感想等は……
 →ブラザー・トマスあてメール
 →三十番地キリスト教会牧師あてメール