by Br. Thomas 09/13/2004
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聖書:出エジプト記3章13節(新共同訳・旧約 p.97)
モーセは神に尋ねた。
「わたしは、今、イスラエルの人々のところへ参ります。彼らに、『あなたたちの先祖の神が、わたしをここに遣わされたのです』と言えば、彼らは、『その名は一体何か』と問うにちがいありません。彼らに何と答えるべきでしょうか。」
私には、鈴鹿のハナちゃん、というロングな茶髪がバッチリ決まった友達がいます。
もう8年ほど会っていません。ハナちゃんは私のこと覚えてるかなぁ、8年前はかわいかったなぁ、もう大人になっただろうなぁ、子供も産まれたかなぁ、時々そんなことを思います。
ハナちゃん、実はゴールデンリトリバーです。8年前にはヤンチャ盛りだったハナちゃん、ある日、散歩の途中で脱走しました。そして通りがかりのお兄さんに飛びついてしまいました。ところがその人は犬が苦手のようでした。とっさに私が大きな声で「ハナちゃん」と呼ぶと、パッと振り向いて今度は私の方に走ってきて飛びつきました。私は犬好きですから、そのまま遊んでいると、ようやく飼い主の人がやってきて、ハナちゃんはあえなく逮捕されてしまいました。
ハナちゃんと同じように、私たちも一人一人が自分の名前を持っています。名前を呼ばれたら、自分が呼ばれているとわかります。たいていの場合、名前というものは自分がつけたわけではないのに、いつの間にか名前と自分自身は切り離せないものになっています。
さて、おとといの日曜日、私は今まで行ったことのない教会に行きました。たいていの教会では新しい人が礼拝に参加すると礼拝の最後に紹介されます。おとといの教会もそうでした。みなさんも学校から教会出席をすすめられて教会に行ったときに「今週新しく来た人です。」と言って紹介された覚えがあると思います。
実はみなさんが出席している教会に「いつもウチの生徒がお世話になっています。」と言うために手分けしてあちこちの教会の礼拝に出席しています。おとといもそのために行きました。そうすると、私自身も最初に受付で名刺を出し、私の名前の前に学校の名前を付けて名乗ります。紹介されるときも「どこそこから来た誰それさんです。」と言って紹介されます。この場合、私の名前だけが紹介されるのではなく、高校から挨拶に来た先生、という肩書きつきで紹介されます。
先程読んだ聖書の話しに戻りましょう。ここはモーセが神から大変な命令を受けたことで有名な箇所の一部です。モーセは神から<エジプトで苦しめられているイスラエル民族を助け出しなさい>という命令を受けます。その時にモーセが神に向かって<あなたの名前は?>と尋ねた場面を読みました。そして、先程読んだ続きのところ(15節、少し前の6節にも同じように書いてあります)には、こんな事が書いてあります。
「あなた達の先祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、」これは全部肩書きなのですね。名前ではないのです。
実はモーセから名前を聞かれた神は自分の名前を名乗っていません。どうやらこの神には名前がないようなのです。なぜでしょう。イスラエルにとって神はただ一人しかいない。だからほかの神と区別する必要はない。従って名前はいらないのだ、ということのようです。私たちとちょうど逆なのですね。先程も言いましたように、私たちにとっては名前は自分自身と切り離せません。名前によって私と他の誰かが区別されます。
最後に質問です。私たちは自分の名前を大切にしているでしょうか?
たいていの人は大切にしているよ、と答えるでしょう。では私たちは周りにいる友達の名前を大切にしているでしょうか?
そんなこと考えたこともない、という人もいるかも知れません。もしそうなら、一度考えてみてください。自分の名前と同じように友達の名前を大切にしているかどうか。
そして大切にしてほしいと思います。自分の名前も友達の名前も。どちらもその名前の持ち主である「私」という人にとって大切なものなのですから。
御在天の父なる神様。
私たち一人一人に、自分にとって大切なものが、他人にとっても大切なものであることに気付かせてください。自分のものを大切にしたいという思いが、他人の大切なものも守ることができるように、力付け、また導いてください。
主イエス・キリストの御名によって祈ります。
アーメン。
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