Brother Thomas' Underground Chapel

落とし穴

   by Br. Thomas  11/15/2011

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聖書:使徒言行録 4章32節~5章11節(新共同訳)

 信じた人々の群れは心も思いも一つにし、一人として持ち物を自分のものだと言う者はなく、すべてを共有していた。
 使徒たちは、大いなる力をもって主イエスの復活を証しし、皆、人々から非常に行為を持たれていた。
 信者の中には、一人も貧しい人がいなかった。土地や家を持っている人が皆、それを売っては代金を持ち寄り、使徒たちの足もとに置き、その金は必要に応じて、おのおのに分配されたからである。
 たとえば、レビ族の人で、使徒たちからバルナバ——「慰めの子」という意味——と呼ばれていた、キプロス島生まれのヨセフも、持っていた畑を売り、その代金を持って来て使徒たちの足もとに置いた。
 ところが、アナニアという男は、妻のサフィラと相談して土地を売り、妻も承知のうえで、代金をごまかし、その一部を持って来て使徒たちの足もとに置いた。
 すると、ペトロは言った。「アナニア、なぜ、あなたはサタンに心を奪われ、聖霊を欺いて、土地の代金をごまかしたのか。売らないでおけば、あなたのものだったし、また、売っても、その代金は自分の思いどおりになったのではないか。どうしてこんなことをする気になったのか。あなたは人を欺いたのではなく、神を欺いたのだ。」
 この言葉を聞くと、アナニアは倒れて息が絶えた。その事を耳にした人々は皆、非常に恐れた。若者たちが立ち上がって死体を包み、運び出して葬った。
 それから三時間ほどたって、アナニアの妻がこの出来事を知らずに入って来た。パトロは彼女に話しかけた。「あなたたちは、あの土地をこれこれの値段で売ったのか。言いなさい。」
 彼女は、「はい、その値段です」と言った。
 ペトロは言った。「二人で示し合わせて、主の霊を試すとは、何としたことか。見なさいあなたの夫を葬りに行った人たちが、もう入り口まで来ている。今度はあなたを担ぎ出すだろう。」
 すると彼女はたちまちペトロの足もとに倒れ、息が絶えた。青年たちは入って来て、彼女の死んでいるのを見ると、運び出し、夫のそばに葬った。
 教会全体とこれを聞いた人は皆、非常に恐れた。

 今日の物語からは、当時の教会の非常に厳しい一面が窺えます。今日はこの二人、アナニアとサフィラは何故こんな事をしたのだろうか、という疑問を考えて参りましょう。
 今日の本題に入る前にルカ福音書から二つの物語を温習しておきます。

 まず一つは幸いな人の教えです。これはマタイ福音書の山上の説教のものが有名ですが、ルカ福音書にも出ております。比較しながら本文を読んでおきましょう。
 マタイ福音書「心の貧しい人々は幸いである。天の国はその人たちのものである。」Mt 5:3
 ルカ福音書 「貧しい人々は、幸いである。神の国はあなたがたのものである。」Lk 6:20
         「今飢えている人々は、幸いである。あなたがたは満たされる。」Lk 6:21
 トマス福音書「あなたがた貧しい人たちは幸いである。天国はあなたがたのものだから」Th 54
         「飢えている人たちは幸いである。欲する者の腹は満たされるであろう」Th 69:2

 マタイが「心の」と付け足した事は明らかなのですが、実はルカはこの続きに次の言葉を付け足しております。
「しかし、富んでいるあなたがたは不幸である。あなたがたはもう慰めを受けている。」Lk 6:24
 ルカが貧富の問題にこだわりを持っていることは有名な話です。今日はそのことには立ち入りません。イエスの教えとして幸いな人の教えがあったこと。貧しい人や悲しんでいる人は神の国が来たら神によって慰められ、満腹するまで食べるようになるのだという教えがあったこと。を思い出して先に進みましょう。

 もう一つ温習しておきたいのは「愚かな金持ちの譬え」と題されている物語です。これは新約正典ではルカ福音書にしか出て参りません(正典外なら、トマス福音書 63、シラ書 11:18-19にもある)。ある年、金持ちの畑が大豊作でありました。彼は思います。どうしよう、収穫物を仕舞っておく場所がない。そうだ。蔵を建て直して仕舞っておこう。そうすれば、この先食べるにも飲むにも不自由しない。
 しかしその夜、神は彼の生命を取り上げ、「お前が用意したものはいったい誰のものになるのか?」と問います。貪欲には充分注意しなさい。有り余るほどの財産を持っていても、生命を買うことはできない。すべての恵みは神からいただいたのだから、神に感謝し、神に返しなさい。と物語は語ります。(Lk 12:13-21)
 このような教えを身近に聞いていた人たちが、今日の物語の登場人物、初代教会の人たちであったのです。

 さぁ、今日の物語に入っていきましょう。
 弟子達が伝えたイエスの教えを聞いて信じた人々は何をしたでしょうか。集まって、祈って、賛美を献げておりました。そして共に食事をしておりました。今のように日曜の朝に集まって礼拝をするのではなく、毎日の仕事を終えて三々五々集ります。そして共に食事をし、その席上の話しとして、イエスの出来事が語られ、賛美の歌が歌われます。食事を祝福する祈りが捧げられ、イエスを記念する食事として、いつもイエスがしていたようにパンが割かれ、アガペー(愛餐)が行われるのです。これは現在の聖餐式と違って(量的には)普通の食事です。
 ルカはさらにこう書きます。食べ物だけではない。それぞれが持ち物を持ち寄り、金持ちは財産を売り、それは必要に応じて、貧しい人に分け与えられた。シェアされた。バルナバと呼ばれたヨセフも畑を全て売って人々に捧げた。(一人も貧しい人がいなかったというのはルカによって理想化された姿です。しかしエルサレム教会は、そう書きたくなるような場所であったようです。多少はノスタルジーもあったかもしれないし、ルカ自身の教会への何某かの批判もあったかもしれません。ルカが使徒言行録を書いている時点ではエルサレム教会は70年のユダヤ戦争の結果として消滅してから既に20年経っていたのですから…)

 今日読みました最初のところには、心も思いも一つにして全てを共有していたと書かれております。私たちの間でも、家族や特に親しい友達の間では貸したのか譲ったのか、借りたのか貰ったのか、よくわからないことがあります。そういう状態を想像してもらえればいいでしょう。それぐらいにエルサレム教会の人々は仲間意識が強かった。と考えられます。
 では何故、彼らは全てを共有するようなことができたのでしょう?そこを押さえておかないと、逆にアナニアとサフィラは土地を売った代金を何故ごまかしたのか?が見えてきません。

 そこで、今日、最初に温習した話しを思い出していただきたいのです。彼らが終わりの日が近いと思っていたことは今までも何度も話しております。終わりの日は間近い。まもなくイエスの再臨があり、神の国がやってくる。そう思っていたからこそ、当時の人々はこう考えたのです。
 私たちはあの愚かな金持ちのようになるべきではない。あの金持ちは、おまえの持ち物は誰の持ち物になるのか?と問われたのだ。財産を持ったまま神の国に入る(行く)ことはできないのだよ。しかも私たちの世代が生きている間に神の国は来る。自分の子どもに財産を相続させることはできない。それならば、何かよい使い道はないだろうか?

 その結果、彼らはこうしたのです。
 神の国では貧しい人は満腹するまで食べることができる。もう間もなくに神の国が来るのであれば、その先取りとして、今、私の目の前にいる、教会の中の貧しい人にも充分な食事が用意されたっていいのではないか。そのための資金は、ほら、天国に持って行けない私の財産がここにありますよ。
 終わりの日が近いと思ったからこそ、彼らは持っているものを熱心に持ち寄り、(わかりやすい言い方をすれば)財布を共有したのでした。ところが実際には、終わりの日はなかなかやってこなかったのです。あるいは、熱心な人ほど早くに土地を売ってしまい、食べ物をシェアする側から、シェアされる側に回ってしまった。なんてことも実際にあったのかもしれません。どうしたのだろう。終わりの日はまだかなぁ、といぶかる人が出てきます。すぐにも終わりの日が来ると思ったから財産を全部売ったけど、どうなったんだ。と思う(元)金持ちが出てきます。人々の間に動揺と不審と気の緩みが拡がります。

 アナニアとサフィラも気の緩みに捕らわれた一人(二人?)でした。貪欲には注意しなさい、と言われていたのに、足元を取られてしまいます。ようやく、この二人に辿り着きました。5章に入って、このように書かれています。「ところが、アナニアという男は、妻のサフィラと相談して土地を売り、妻も承知の上で、代金をごまかし」た。ごまかした、という一言がクセ者です。アナニアに対して、ペトロはこう言っていますね。「売らないでおけば、あなたのものだったし、また、売っても、その代金は自分の思い通りになったのではないか」
 ペトロの言うところはこうです。財産を全部差し出せとは言ってないよ。土地を売った代金も全部出せとは言ってないよ。一部なら一部と言ってくれればよかったのに、何故ごまかしたのか?どうして一部なのに全部のようなことを言うのか?
 おそらく二人は、人々から怪しまれないために、代金のほとんどをペトロの足下に置いたと思われます。あんまり少ないと相場から見て安すぎるということですぐにバレてしまいます。ごまかした代金が本当にごく一部だからこそ、サフィラと相談した時に、これならバレないよね。じゃぁそうしようか。ということになるのです。

 代金の大部分を手元に置いたのではなく、むしろ大部分をペトロに渡したのに、「少しだけ私の手元に残しました」と言わなかったのは何故でしょう。ここには、所有欲とは別の貪欲。名誉欲(関西で言うところのエエかっこしい)という貪欲が有るように思えるのです。「愚かな金持ち」の譬え話ではどんな貪欲にも注意しなさい、と言われていました。貪欲への戒めですから、所有(欲)を全否定しているわけではないでしょう。おそらくは、名誉(欲)も全否定されてはいないでしょう。
 それらの欲求は、人間が生きていく上ではやはり必要なものです。でも、それが勝ちすぎてはいけない。行き過ぎて、それらが貪欲になったとき、私たちは神を忘れ、神の恵みを忘れ、神への感謝を忘れ、神への愛を忘れてしまうのだ。神への愛を忘れたとき、隣人への愛も忘れてしまうのだ。
 そのように福音書記者ルカは語ります。

 終末がなかなか来ないという、緊張感が薄れてくる状況の中、アナニアとサフィラの二人はバルナバが賞賛されるのを見て、出来心で代金をごまかしてしまったのです。終わりの日が来る来ると言われながらも、実際にはなかなか来ないという微妙さが彼らに足払いを喰わせたのです(夜よりも夕方のドライブの方が危ないのと似ているような気がします)。終わりの日なんか当分来ないよ。1900年経ってもまだ来ないらしいよ。と彼らが既に知っていたら、代金をごまかすどころか、そもそも土地を売ろうとは考えなかったでしょう。近いウチに来ると(本気で)思っていたからこそ、彼らは土地を売ったのです。しかし、そこには思いがけない落とし穴があり、そして二人はまんまと引っ掛かってしまったのです。ペトロが言うように、サタンに心を奪われたと彼らに指摘するのは簡単ですが、これが人間の哀しい現実の姿なのです。

 この物語は現代に生きる我々に何を語りかけるのでしょう。
 私たちはすでに終わりの日の緊張感というものをほとんど持たずに生活しています。むしろ、今の生活が続くことを前提に生きています。僅かな財産であっても次の世代に託そうと思って生きています。初代教会がしていたような生活はできませんし、それは現代社会においては現実的ではありません。しかも、現代という時代は、2000年前には想像もつかなかった様々な誘惑があります。(ウソかホントか)楽をして簡単に儲けられるというメールが毎日何通も届きます。お金さえあれば、時間さえあれば、と言いたくなるような楽しみも数限りなくあります。
 その中で私たちはどう生きていくのでしょうか。ペトロは、この物語は、持っているものを全部捨てなさいとは言っていません。全てを捨てて修道生活をせよと言っているのでもありません。文明を離れよとも言っていません。そうではないのです。むしろ、こう読むべきです。
 神よ、あなたの御存知の通り現代社会には様々な誘惑があります。私はこんな欲を持っています。あの誘惑に負けました。この逸品をきわどい手段で手に入れました。赦しなさいと言われているのに、あいつだけは赦せません。身体に悪いと思いつつ、タバコがやめられません。他のギャンブルはやめたけど、競馬だけはやめられません(私のことではないですよ)。
 それやこれやを含めて、神の前にごまかしなく生きなさい。ごまかそうとしても、神はそれを見て居られるのだ。誘惑があることも、誘惑に負けたことも知って居られるのだ。どのみちごまかし通すことはできないのだ。それならばこそ、このように祈りなさい。
 私に生命を与えてくださった神様、私があなたのためにできることを教えて下さい。うまくできないかもしれないけど、できるだけのことはします。でも御心ならば、示されたことを完成させて下さい。そこまであなたが導いてください。

 私たちは現代という時代の中で様々に肩肘を張って暮らしています。しかし、神の前では肩肘を張る必要はない。すべてをお任せして居ればよいのだ。すべてをさらけ出してよいのだ。と、私たちは教えられています。しかし、そのことを忘れてしまうのも現代人である私たちの悪い癖です。あらためて、思い出しましょう。神は私のすべてを見て居られます。神に対しては、私という人間をごまかすことなく、真摯に向き合い、しっかりすがりながら、祈りによって常に対話しつつ、生きてゆきましょう。

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