【信じてはいなかった。だが助けてはくれないか】

2021年2月21日(日)徳島北教会 日曜の集まり 聖書のお話
「信じてはいなかった。だが助けてはくれないか」

▼聖書の言葉【新共同訳……マルコによる福音書9章14-29節】

 一同がほかの弟子たちのところに来てみると、彼らは大勢の群衆に取り囲まれて、律法学者たちと議論していた。

 群衆は皆、イエスを見つけて非常に驚き、駆け寄ってきて挨拶した。イエスが、「何を議論しているのか」とお尋ねになると、群衆の中のある者が答えた。

 「先生、息子をおそばに連れて参りました。この子は霊に取りつかれて、ものが言えません。霊がこの子に取りつくと、所かまわず地面に引き倒すのです。すると、この子は口から泡を出し、歯ぎしりして体をこわばらせてしまいます。 この霊を追い出してくださるようにお弟子たちに申しましたが、できませんでした。」

 イエスはお答えになった。「なんと信仰のない時代なのか。いつまでわたしはあなたがたと共にいられようか。いつまであなたがたに我慢しなければならないのか。その子をわたしのところに連れて来なさい。」

 人々は息子をイエスのところに連れて来た。霊は、イエスを見ると、すぐにその子を引きつけさせた。その子は地面に倒れ、転びまわって泡を吹いた。

 イエスは父親に、「このようになったのは、いつごろからか」とお尋ねになった。 父親は言った。「幼い時からです。霊は息子を殺そうとして、もう何度も火の中や水の中に投げ込みました。 おできになるなら、わたしどもを憐れんでお助けください。」

 イエスは言われた。「『できれば』と言うか。信じる者には何でもできる。」その子の父親はすぐに叫んだ。「信じます。信仰のないわたしをお助けください。」

 イエスは、群衆が走り寄って来るのを見ると、汚れた霊をお叱りになった。「ものも言わせず、耳も聞こえさせない霊、わたしの命令だ。この子から出て行け。二度とこの子の中に入るな。」すると、霊は叫び声をあげ、ひどく引きつけさせて出て行った。

 その子は死んだようになったので、 多くの者が、「死んでしまった」と言った。しかし、イエスが手をとって起こされると、立ち上がった。」

 イエスが家の中に入られると、弟子たちはひそかに、「なぜ、わたしたちはあの霊を追い出せなかったのでしょうか」と尋ねた。 イエスは、「この種のものは、祈りによらなければ決して追い出すことはできないのだ」と言われた。

▼レントに入りました

 先週の水曜日、2月17日(水)は「灰の水曜日(英語では”Ash Wednesday”)」と言いまして、この日から「レント入り」します。「レント」というのは日本語では「受難節」と言います。イエス様の受難を覚えて、40日間、喪に服するような時期を過ごします。40日間なので、4つの旬(10日間)を通して行うので、「四旬節」と呼ぶ教会もあります。

 灰の水曜日には、キリスト教国では、おでこに灰で十字を書いてもらって、そのまま街を歩いていたりする人は普通にいるそうですね。

 日本でも、この水曜日の夜におでこの炭を塗る教会はたまにはあるようです。日本では、そういう風習はほとんど知られていないと思いますので、おでこに十字に炭を塗って街を歩いてたら、二度見したりされることはあるでしょうね。「何あれ? なんかの宗教ちゃう?」みたいな。まあ宗教ですけどね。

 そのように灰の水曜日からレントが始まって、今年は4月4日の日曜日がイースター、そこまでが節制の時、克己(つまり自分の何かを克服すること)だという風に、私などは高校時代通っていた教会で教育を受けました。

 それで、よくあるように、毎年「お酒を我慢しようとか甘いものを我慢しよう、でもやっぱり無理かなぁ」とかいう話をしているんですけれども、今年もやっぱり無理になりそうです。

 去年の年末に蓄膿の手術を受けるために、アルコールもやめなさいと言われて、およそ2ヶ月間、キッチンにお酒の瓶がいくつも並んでいるのが目に入ってくるのに、割となんなく禁酒はできたんですね。

▼何のために、誰のために

 ですから、やればできるんですけれど、多分できないのは、「これをやらないと体が危ないんだ」とか、そういう切迫感に欠ける生活をしていることということと、もう1つは、多分、「何のために、誰のために節制をするのか」の認識が甘いということなんだろうなということを、最近は思います。

 つまり、「私は我慢した。偉い!」と自己満足的に思うためにやっても仕方がないというか。イエスが何のために苦しい思いをして、命を奪われる所まで行ってしまっても、なお人を愛したのか。その思いをちゃんと思い起こせて、それに応える気持ちがあるかということですね。

 そして、自分もその節制が何のため、誰のためにやっているか。例えば、毎日ビールを買って帰ってくるのを、この40日間はやめておいて、発泡酒くらいにランクを落としておこうかとか、焼酎のお湯割りはいつもより薄めにして、その分浮いたお小遣いは、どこかに寄付しようかな? とか、そういう自分より苦しい場にいる人のためにその分を回すなど事のしているほうが尊いのではないか。

 もちろん、そうしなければ裁かれるとか、神のご意志ではないとか、そんな大袈裟な話ではありません。レントにどう過ごそうが、私たちは自由だと思います。しかし、同じ節制をするのであれば、イエス様と他者との関係性なしにやっていても、自分の満足のためだけにやっていても虚しいのかな……ということを考えるというお話であります。

▼議論ばかりしていても

 さて、本日お読みしました聖書の箇所は、イエス様の受難と、そんなに直接の関係はありません。しかし、後でお話しするように、実は間接的にイエス様の十字架とつながるものがあるんですね。ですから、今日はこの聖書の箇所から引用させていただきます。

 今日の聖書の箇所の冒頭には、「一同がほかの弟子たちのところに来てみると」とありますが、この一同というのは、男性の弟子たちの代表格のペトロとヤコブとヨハネです(ペトロの弟のアンデレは、どうも途中で離脱したか、リーダー格の役割からは降りたんでしょうね)。

 この3人は、この聖書の箇所の前の箇所で、イエスの姿が光り輝くのを山の上で目撃した後、山から降りてきて他の弟子たちと合流したということなんですね。

 すると、弟子たちは、律法学者たちと議論していたと書いてあります。イエス様は「何を議論しているのか?」と訊きます。するとそれに答えたのが。1人の男でした。

 「ラビ、息子をおそばに連れて参りました」

 この男の人によれば、「自分の息子が霊に取り憑かれて、所かまわず倒れてしまうし、口から泡を出して、歯ぎしりをして体をこわばらせる。何度も火の中や水の中に身を投げ込むこともある」ということなんですね。そこでイエスの弟子たちに「この霊を追い出してください」と頼んだところ、できなかったと言います。

 ということは、この弟子たちが律法学者たちと議論していたというのは、議論というより律法学者たちに批判されて、それに一生懸命言い訳をしていたのかもしれませんし、何か自己弁護のために議論に応じていたのかもしれません。

▼なんと信仰のない時代だ

 そこでイエス様は言います。
 「なんと信仰のない時代なのか。いつまでわたしはあなたがたと共にいられようか。いつまであなたがたに我慢しなければならないのか」

 これは誰に言っているとは書いてありませんが、弟子たちを叱りつけていると考えるのが自然だと私は思っているんですね。
 というのは、マルコによる福音書というのは、この箇所だけではなく、大体全体を通して、12人の男性の弟子たちに対する批判が強いんです。何度も繰り返し、弟子たちはイエスの意図が分からなくて、「まだわからないのか」と叱られる、という場面が出てきます。

 このマルコの増補改訂版として出されたマタイとルカでは、そういう部分は改訂されて、12弟子の面目も立つように描かれていますが、マルコはその辺は容赦ないんですね。

 ですから、基本的にここでイエス様が「なんと信仰のない時代なのか。いつまで私がお前たちを一緒にいられると思ってるんだ。いつまで我慢しなければいけないんだ」と嘆いているのは、これはこの男性の弟子たちに怒っているんだと考えるのが自然だと思います。

 ただ、これは、マルコが12弟子を批判したかったという意図の方が先行している記事です。つまり、実際にこういう場面があったかどうかということはわかりません。

 これは、イエス様の時代から40年後に、エルサレムの12使徒を中心とした教会に対する批判を込めて、「お前らは全然イエス様のことがわかってないんだ」という思いでマルコは書いているということなので、ここで「なんと信仰のない時代だ」というイエス様の嘆きの言葉も、イエス様自身がそう言ったかどうかよりは、これはマルコ自身が自分の時代、そしてエルサレム教会の人々のことを嘆いていると受け取る方が良いように思います。

▼お前に力があるのなら

 さて、このお父さんが息子をイエス様の所に連れてくると、この息子さんはまた発作を起こして、倒れたり、転び回って泡を吹いたりします。

 おそらくてんかんのような脳の疾患であろうと現代人には思われますが、正確には何かわかりません。ただ、当時のこのような症状の人を見たら、誰もが、ここで言われているように「何らかの霊に取り憑かれてしまったのだ」と考えたでしょう。

 お父さんに言わせれば、霊はこの息子を「殺そうとして」と日本語では書いてありますが、むしろ「滅ぼそうとして」という意味合いが強いように思われます。

 そして、さらにこのお父さんは言います。
 「おできになるなら、わたしどもを憐んでお助けください」。

 この「おできになるなら」という言葉を、私たちはどう受け取ったら良いでしょうか? 弟子たちに対する失望から、この人たちの指導者も大したことないだろうから、「ご無理はなさらないように」と言っているのでしょうか?

 この「おできになる」というのは、どちらかというと「力がある」「能力がある」という意味です。ですから、「あなたに力があるのなら」とこのお父さんは詰め寄っているんですね。

 そして、ここでこのお父さんが言っている「私たちを憐れんで助けてください」という言葉の「憐れんで」というのは、これまでも何度もこの教会における礼拝で確認されてきたように、ギリシア語で「スプランクニゾマイ」という言葉で、「はらわたが千切れる」という意味です。

 もっと正確に言うと「内臓(心臓も肺も肝臓も胃腸も全部含んで)」という単語の動詞形です。あえて訳せば「内臓する」とでも言いましょうか。だから、「内臓がねじれるような、ちぎれるような思い」とでも言いましょうか。「あんた、憐んでくれないか」と言うのは、もうこのお父さん自身が、もうはらわたがねじれ、ちぎれているんですね。

 しかも、このお父さんは「私たちを憐んでくれ」と言っています。もう息子と自分は一心同体なんです。もう一寸の余裕もありません。

 さらに言うと、この日本語では「憐んでお助けください」になっていますが、実際には「助けてください」の方が先です。

 ですからここは、「あんたにできるんだったら、助けてくれ! あんたがはらわたをちぎってくれ!」となります。必死なんです。

▼信じる人にはどんなことも可能だ

 するとイエスは答えます。

 「『力があれば』というのか。信じる者には何でもできる」。原典を忠実に読んで言い換えると、「信じる人には全てが可能だ。力がある」ということは、ここでイエスはこのお父さんに、「信じる気持ちがあったら、あなたにも可能なんだよ」と言っているんですね。

 この「信じる」という言葉も、よく新約聖書に出てきますが、ギリシア語では「信じる」という動詞が「ピストゥーオー」、「信じること」という名詞を「ピスティス」と言います。日本語の聖書では大抵「信仰」と訳されますが、別に神に対する信仰という意味とは限りません。

 そもそも「信仰」って何でしょうか? それは神様やイエス様に対する「信頼」じゃないんでしょうか。「信仰」と漢字で書くと「仰ぐ」という字が入ってしまうために、まるで神様が高いところにおられて、我々人間が下の方で、「信じて仰ぐ」みたいな感じ方をしてしまいますよね。そういう距離感を感じます。

 でも、本来「ピスティス」には「仰ぐ」「見上げる」という意味はありません。ただ「信じる」です。目の前にいるこの人、イエスを信用するかどうかということです。

 イエスはここで、「『あなたに力があれば』と言うけれども、信じる人は何でもできるんだよ(つまり、あなたにも可能なんだよ)」とおっしゃっています。

▼信じてはいなかった。でも助けてくれ

 その瞬間、この人は叫びました。

 「信じます! 信じる心のない私を助けてください!」

 信じる者には全てのことが可能なんだ、と言われたこの人は、「自分には信じる心、信じる思いが無かったから不可能だったんだ」と気づかされたのでしょうか。

 でも、そうなっても仕方がないと思います。我が子が幼い時からずっとこんな様子で、「誰も助けてはくれない。神も仏も(まあ仏は聖書には出てこないけど)、人も運命も、何も俺は信じないんだ!」と怒り狂っていて当たり前でしょう。

 けれども、イエスに「あなたがそうやって何も信じようとしないから、何も起こらないんだよ」と知らされたんですね。

 この時この人は、最初は「わたしども」つまり「わたしたち」と言っていたのに、ここでは「わたし」になっていることに、お気づきでしょうか。この人はもう息子ではなく。「わたし」を助けてください! と叫んでいるんです。「わたし」の問題だと気づかされたのです。

 そこで、イエスは霊を叱りつけ、男の子から霊を追い出しました。

 ここには、書かれていませんが、私がこれを読んで思い出すのは、「あなたの信じる心があなたを救った」という言葉です。これは同じマルコ福音書の5章にあります、12年間出血が止まらなかった病気の女性をイエス様が癒した時に、イエス様が言った言葉です。

 イエス様が治したのです。でも、それはあなたの信じる心が可能にしたのですよ、という意味で、今日の聖書の物語と通じるものがあります。

▼引き起こすイエス、引き起こされるイエス

 さて、イエスが霊を追い出すと、この子は死んでしまったようになりました。みんな死んでしまったと思ったようです。

 しかし、イエスが手を握って起こすと、立ち上がりました。

 ここでやはり思い出すのが、先ほども触れた、マルコ5章の12年間出血が止まらなかった女性と同時に癒された、12歳の少女のことです。ここでも、イエスは子どもの手をとって起こします。するとこの子は起き上がって歩き出しました。

 ここで「起こす」という言葉がありますが、これがイエスのことについて使われると、日本語にする時には自動的に「復活」という言葉に変換されます。でも(復活についてはイースターに詳しくお話ししますが)、イエスは「再び起こされた」と書いてあるだけです。そして、今日の聖書の箇所でも、イエスはこの少年を「再び起こした」と書かれています。同じ言葉です。死んでいた子をイエスが引き起こしてくれた、ということです。

 それは、あなたの信じる気持ちがあれば、倒れてしまった人間は、それはあなた自身かもしれないし、あなたの大切な人かもしれないけど、その人はイエス様に再び起こしてもらえるんだよ。だからそれを信じなさいということなんですね。

 なぜこんな事を言っているのかというと、これは実はイエス自身の死と復活の伏線になっているからです。

 イエスは「我が神、我が神、なぜわたしをお見捨てになったのですか!」と大声で叫んで死んでいった、とこのマルコ福音書は語っています(15.34)。他の福音書みたいなきれいごとは言ってません。「我が神、我が神、なぜわたしをお見捨てになったのですか!」

 つまり、イエスは神への信頼を失って死んでいったのですよ。

 彼は最期には神に見捨てられた。何も信じられない心に落ちたまま、その命を終わっていったのです。

 でも、彼は再び起こされました。おそらく神様によって。

 逆に言うと、それら全てのことを予め知っているマルコは、「イエスがそのようにして亡くなったのだから、あなたが『とても何も信じられない』という気持ちは、イエス様自身が一番わかってくださるよ」と伝えようとしているのです。

 それでも信じて欲しい。それがあなたをあなたの大切な人を、たとえ死んだようになってしまったとしても、引き起こしてくれる力になるから、ということなのですね。

▼せめて祈るくらいは

 最後に、マルコはまた、弟子の男性たちがいかに愚かであるかを示して、この話を締めくくります。

 「イエスが家の中に入られると」とありますが、これは誰の家かは書かれていません。でも、おそらくこの子どもを癒してもらったお父さんの家ではないでしょうね。弟子たちがイエス様に「ひそかに」尋ねることができたような、そんな彼らの旅を受け入れてくれたような信徒の家でしょう。そこで弟子たちはイエスに尋ねました。

 「なぜ、わたしたちはあれを追い出す力がなかったのでしょうか?」

 そこでイエスはこう答えたことになっています。

 「この種のものは、祈りによらなければ決して追い出すことができないのだ」。

 でも、私の乏しいギリシア語の読解力から言うと、間違っているかもしれないんですが、多分こんな風になると思います。

 「こういった種類のものは、何も無しで出て行くことはできないんだ。祈りがなかったらな」と。

 つまり、「あんたらには祈りが足りないねぇ。それは、人を苦しませている霊に、手ぶらで出て行けと言っているようなもんだ。愛がないね。せめて祈りなさいよ」と言っているように、私には思えます。

 先ほども言いましたように、これはマルコが12人の男性たちが建てた教会を批判して言っていることです。しかし、この批判はどの教会にも陥りがちな状況に当てはまる忠告のような気もします。

 つまり、イエス様は、「こんな時代だから、『神も仏もあるものか』と思う気持ちはわかる。でもな、私の弟子だというのなら、議論ばかりしてないで、せめてその人のために祈るくらいのことはしたらどうだ」とおっしゃっている。そういうことではないかと思います。