【そんな人は知らない】

「そんな人は知らない」

2021年3月7日(日)徳島北教会 日曜の集まり 聖書のお話


▼聖書の言葉【新共同訳……マルコによる福音書14章66-72節】

 ペトロが下の中庭にいたとき、大祭司に仕える女中の一人が来て、ペトロが火にあたっているのを目にすると、じっと見つめて言った。

 「あなたも、あのナザレのイエスと一緒にいた。」

 しかし、ペトロは打ち消して、「あなたが何のことを言っているのか、わたしには分からないし、見当もつかない」と言った。そして、出口の方へ出て行くと、鶏が鳴いた。

 女中はペトロを見て、周りの人々に、「この人は、あの人たちの仲間です」とまた言い出した。ペトロは、再び打ち消した。

 しばらくして、今度は、居合わせた人々がペトロに言った。「確かに、お前はあの連中の仲間だ。ガリラヤの者だから。」すると、ペトロは呪いの言葉さえ口にしながら、「あなたがたの言っているそんな人は知らない」と誓い始めた。するとすぐ、鶏が再び鳴いた。

 ペトロは、「鶏が二度鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう」とイエスが言われた言葉を思い出して、いきなり泣き出した。

▼弱きペトロ

 皆さんは、人を裏切ったことはありますか?

 自分の保身のために「そんな人は知らない」と言ったり、自分が面倒なことに巻き込まれそうになると、「そんな人は知らない」、「知ったこっちゃない」、「私とは関係ないよ/俺とは関係ないよ」と言ってしまったことはありますか?

 私は、あります。それを具体的に告白する勇気はありませんが、私は人を裏切ったことがあります。2度や3度ではありません。

 ですから、私にとっては、今日の聖書の物語は、まるで自分を見ているようです。弱いペトロ、それは私自身だと思ってしまいます。

 今日の聖書の箇所はペトロの裏切りの場面、レントもそろそろ中盤に入りまして、と言いましてもイースターまであと1ヶ月、まだまだあります。ということで、受難物語の前半に収められている、ペトロの裏切りの場面が今日の聖書の箇所です。

 「あの時はそうするしか無かったんだ!」と言いたい気持ちもあるでしょうね。何せペトロは社会的地位とか名誉とか、そんなもの以前に他でもない自分の「命」が奪われるかもしれないという危機的状況にありましたからね。

 ただ、彼はそういう自分の弱さを最初から自覚していなかったということは、本当に悲しいことです。この人はイエス様に「命を捨ててでもついていきます」なんて言ってしまったんですね。「それを言わなかったら、まだしもなぁ」と思わされます。

▼口に出さない方が良い言葉

「お前さんは、今夜、鶏が2度鳴く前に、3度俺のことを『知らない』って言うよ」とイエス様がおっしゃったのは、今日の聖書の箇所の2ページ前、マルコによる福音書の14章の27節以降のところ。「主の晩餐」、すなわち世間で言うところの「最後の晩餐」の直後です。

 イエス様は「あなた方は皆私につまづく」と言います。そしてヘブライ語聖書(ユダヤ教の聖書で、今の私たちの旧約聖書のもとになっているのはこの「ヘブライ語聖書」ですが)を引用して、「『わたしは羊飼いを打つ。すると、羊は散ってしまう』と書いてあるからだ」とおっしゃいます(マルコ14.27)。

 これは要するに、みんな散ってゆくわけですから、「みんな、全員、私を見捨てるよ」と言っているわけですよね。けれども、ペトロは31節で「たとえ、ご一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません」などと言います。他のみんなも同じように言ったと書いてあります(14.31)。

 でも、結果は皆さんご存知の通りです。ですから、人のことを、どんなに本人は本気のつもりであったとしても、「あなたを愛しています」とか、「命をかけてでも」といった言葉を、口には出さない方がいいんじゃないかなと、一般論的にも、個人的には私は思うんですが、いかがでしょうか。

▼火にあたるペトロ

 さて、今日の聖書の箇所に戻りますが、ペトロは先ほども申しましたように、「たとえ死んでもあなたについて行きます」などと言う人ですが、ちょっと鈍感なところもあったのかもしれません。自分も逮捕される可能性があるにも関わらず、イエスが逮捕されて連行されていった後をついていったとされています。

 そして、イエス様は大祭司の屋敷に連れ込まれて尋問を受ける。ペトロはその大祭司の屋敷の中庭で、火にあたり始めたというんですね。

 本来は夜中にユダヤ最高法院が裁判をするというのは違法です。今みたいにテレビやネットなど無いし、そもそも暗闇を照らす電気というものがありませんので、何か後ろめたいことを密かにやってのけるとすれば夜にやるわけです。

 大祭司を始めとする最高法院の議員たちが集まって密談をするわけですが、召使いたちも当然起きていないといけません。それで中庭で火をどんどん焚いて、灯りと暖をとっていた。そこにペトロもやってきて、何食わぬ顔をして火にあたり始めたというんですね。

 ところがそこにいた召使いの女性が、ペトロを見たことがある、と言い始めます。当たり前ですよね。ずっと一番弟子としてイエス様のそばにいたわけですから。

 ペトロは必死でとぼけます。

 「あなたが何のことを言っているのか、わたしには分からないし、見当もつかない。」

 しかし、この召使いの女性は周りにいた人たちにも「この人は、あの人たちの仲間です」と騒ぎます。周りの人たちも「確かに、お前はあの連中の仲間だ。ガリラヤの者だから。」と言い始めます。

 なぜ、ここで周りの人たちが「こいつはガリラヤ人だ」と分かったか、みなさんわかりますか? それは、ペトロの話し言葉にガリラヤの訛りがあったからです。ここには明らかにエルサレムの人々のガリラヤに対する蔑み、差別意識があります。しかし、イエス様一行はあえてガリラヤ訛りで通していたということですよね。

 とにかく、ここまで来てペトロはそれでも「あなたがたの言っているそんな人は知らない」と言い張りました。

 そして、2度目の鶏の鳴き声が響き、ペトロは自分がイエス様の予告通りにイエス様を裏切ったことを自覚して泣きました。

 「あなたと一緒に死なねばならなくなっても」などと口に出したぶん、この罪は重いのではないでしょうか。この事実がどんなにイエス様を傷つけたでしょうか。

▼裏切ったままのペトロ

 このペトロが、マルコによる福音書に登場する場面はこれで終わりです。この後、私たちは彼の姿を目にするのは、ルカの書いた使徒言行録になります。

 そのルカは、自分の福音書の中では、イエス様のお墓が空っぽだったと言う女性たちを誰も信じなかったのに、ペトロだけは信じてイエス様のお墓まで行って確かめた、という話を付け加えていますが(ルカ24.12)、マルコの方はその女性たちがペトロにも誰にも何も言わなかったと書いています(マルコ16.8)。あくまでマルコは「ペトロは何も分かっていないし、裏切ったままだ」と言っているのですね。

 そして実際、そのルカの書いた福音書であれ、使徒言行録であれ、その後ペトロが自分の犯してしまった裏切りを、悔い改めて懺悔して死ぬほど後悔したという話はどこにも載っていません。

 彼は徹底的に自分の裏切りを懺悔して、謝罪して、悔い改めて、それから改めてキリスト教会の建設に携わっていったとはどこにも書かれていません。

 彼は、自分のやったことの総括を全然やってない。そのまま口を拭って、逃げたはずのグループに戻ってきて、またリーダーのような顔をして人を教え始めたんですよね。

 厚顔無恥なのか、あるいはやはり鈍感だったのか、イエス様が殺された後、自分たちまで逮捕されないようにしながら、このイエス様の弟子たちをまとめて生き残り戦術を図るという綱渡りをやろうとしていたわけです。

 この時点では、彼は自分の裏切りの精算をしていません。

▼赦された罪の総括

 このペトロの罪の問題を、後になってから取り上げたのは。ヨハネです。ヨハネは自分の福音書のラスト近くで、ガリラヤ湖畔で何人かの弟子たちがイエスと再会したシーンを描いています。

 イエスが3回ペトロに「わたしを愛しているか」と尋ねています。ペトロは3回も自分にイエス様が「わたしを愛しているか」と言われたので「悲しくなった」と書いてあります(ヨハネ21.18)。この場面でペトロは悲しみながら、「主よ、あなたは何もかもご存じです」と言っていますが、この場面がペトロの3回の裏切りを踏まえていることは明らかですね。

 イエス様も、そしてみんなも、ペトロのやったことは知っているわけです。だからこそ、4つの福音書全部に書かれています。実は4つの福音書全部に書かれている話というのは珍しいのにですね。

 ヨハネは、私が言うのもおかしいかもしれませんが、一種の「大人の解決の仕方」を示したのではないかなと思います。ペトロの裏切りは誰もが知っている事実です。しかし、「イエス様はそんなペトロの弱さを知っておられる。イエス様は分かっておられるのだ」と、イエス様がペトロを赦しているかのように、読む人を諭しているようです。

 しかし、その一方でヨハネは、ペトロがこの先、どのような重荷を負うことになったかも、こんな風に語っています。

 「『あなたは、若いときは、 自分で帯を締めて、行きたいところへ行っていた。 しかし、年をとると、両手を伸ばして、他の人に帯を締められ、行きたくないところへ連れていかれる。』 ペトロがどのような死に方で、神の栄光を現すようになるかを示そうとして、イエスはこう言われたのである。」(ヨハネ21.18-19)。

 ヨハネはペトロが亡くなってからずっと後にこの福音書を書いていますので、これがヨハネなりに出したペトロという人の人生の総括なのでしょう。

▼裏切り者への福音

 ペトロはイエス様に赦されています。ペトロほどの裏切りでもイエス様は赦しておられるのです。けれどもペトロの人生は、口を拭って、何事も無かったかのようにキリスト教会を運営してゆくというような甘いものにはなりませんでした。

 彼にも、自分の負うべき十字架が用意されていました。ペトロは伝説によれば、逆さ磔にされて、苦しみ抜いて死んだと伝えられています。その苦しみによって、彼は「ああ、私はやっとイエス様と一緒になれた」と思ったかもしれません。少なくとも自分が何をやったのかということは思い知らされたことでしょう。

 けれども、それは罰ではありませんし、イエス様の仕返しでもないと思います。それは、「私と一緒に苦しみを負いなさい」という招きです。

 ペトロはイエス様を踏みにじりました。けれどもイエス様は「自分と同じ道を歩こう」とペトロを誘ってくださっているのですね。「苦しむ者と共に苦しもう」、「私と一緒に苦しもう」という連帯への誘いです。

 これが裏切り者に示された福音(すなわち「良い知らせ」)であり、人の苦しみから目を背けず、向き合って、受け止めるという以外に、誠実に生きるということはあり得ない、悔い改めるとはそういうことだということを、このことを通して私たちは教えられると思うのですが、これはあくまで一つの解釈です。

 皆さんはいかがお感じになりますでしょうか。

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