『聖書はもういらない』野原花子著(幻冬社、2020、Kindle版 ¥1,320-)

気の毒としか言いようがないが、キリスト教会は警告の書として厳粛に受け止めなくてはいけない。

これは学問的にキリスト教の教義や歴史上の問題点を検証した研究書ではない。キリスト教会にマインドコントロールされ、人生をボロボロにされた被害を縷々綴った苦難の記録である。

宗教に心を奪われてしまった人が、最悪の場合どのような末路を辿るかを赤裸々に告白した警告の書としての存在意義は大きい。著者の味わわされた苦痛を思うと誠にいたたまれない。

おそらく文面から伺えるのは、著者が取り憑かれてしまっていたのは、キリスト教の中でも「福音派」と呼ばれるタイプの教会だろう。

このタイプの教会は、聖書の字面を「神ご自身の言葉」で一字一句絶対的に正しいと思い込み(その割には自分たちの解釈に都合の良い所しか引用しない)、自然な人間的感情さえも「この世的」と侮蔑し、わずかな疑問を抱くことさえ「不信仰だ」「サタンの誘惑だ」と徹底的に叩く。しかも彼らは悪意からそうするのではなく、心底善意からそうする。神から離れれば、死後、地獄の業火が待っていると信じているからである。

このような教会に深く関わってしまったのなら、著者によるキリスト教の害悪に対する訴えも「もっともだ」と頷ける。

ただ、キリスト教には「福音派」だけではなく、様々な教派、学派がある。聖書を字面だけ取り上げて絶対視したりせず、古代の文献のひとつとして批判的に研究する神学もあるし、神の存在さえも決して自明のこととはしない思索もある。

そもそも、キリスト(救い主)とされたナザレのイエスでさえ、死に際には「神さま、神さま、どうして私を見捨てたのですか!」と泣き叫びながら死んだと伝えられている。「神が何を考えておられるのかわからない」「神がおられるなら、なぜ私がこんな目に遭うのですか」というこの嘆きは、すべての人間の嘆きでもある。その嘆きに徹底的に寄り添ってゆくのもまたキリスト教なのだ。

であるから、この本を読んだ人が、ここに描かれた福音派の実態を見て、「ああキリスト教ってそういうものなのか」と思ってしまうとすればとても残念だ。

この方がもう少し別の教派、別の聖書の読み方をする教会なり牧師、信徒と出会えていたら、キリスト教にも色々あることがわかり、あくまで可能性に過ぎないが、ひょっとしたら救われたかも知れない。そこが悔やまれる。

一方、この本には、キリスト教を批判し続ける文面の合間に、聖書を生み出したイスラエルの地の、数々の名所の写真が散りばめられている。そこにはオマージュ、或いはリスペクトに近い感情さえ感じられる。ここに、著者の心に残る、なにか聖なるもの、美しいもの、真実なものを、今でも求めたい思いを感じ取ることができるように思うのは私だけだろうか。

「聖書はもういらない」。
それでもいい。聖書とは別のものでいいから、この方がこれからでも、何かちゃんとした素敵なものを見つけられることを願ってやまない。

“『聖書はもういらない』野原花子著(幻冬社、2020、Kindle版 ¥1,320-)” への1件の返信

  1. ご紹介いただきありがとうございました。
    野原花子さんの睡眠障碍が気になります。今は眠れるんでしょうか?
    まず、本を書くくらいになられたようなので少しは安心しました。キムチも召し上がっているみたいですし。読み終えて、お大事に、と思いました。

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