
2021年5月2日(日)徳島北教会 主日礼拝説き明かし
「神さまは水をやったり肥やしをやったり」
▼聖書の言葉【新共同訳…ルカによる福音書13章6-9節】
そして、イエスは次のたとえを話された。
「ある人がぶどう園にいちじくの木を植えておき、実を探しに来たが見つからなかった。そこで園丁に言った。『もう三年もの間、このいちじくの木に実を探しに来ているのに、見つけたためしがない。だから、切り倒せ。なぜ、土地をふさがせておくのか。』
園丁は答えた。『ご主人様、今年もこのままにしておいてください。木の周りを掘って、肥やしをやってみます。そうすれば、来年は実がなるかもしれません。もしそれでもだめなら、切り倒してください。』」
▼園丁は神さま?
イエス様のたとえ話で「ご主人様」というのが出てくるときには、文字通りの人間社会における地主とか奴隷の主人だったりする場合もあれば、どうやら神さまのことをたとえているのかな? と推測されるところもあります。けれども、ここの聖書の箇所は、どうやらご主人様に雇われている園丁に神さまの愛が表されているように、私には思われますが、皆さんはいかがでしょうか?
この園丁さん、畑のお世話をしている人ですが、この人は、ご主人様が「3年間実がならないから、切り倒せ」と言っているのに対して、「今年はこのままにしておいてください。肥やしをやりますから、来年まで待ってください。来年こそは」と言って、このいちじくの木を庇います。
▼置かれた場所で咲きなさい?
考えてみれば、このいちじくの木も可哀想なんですね。そもそもぶどう園にいちじくの木を植えるというのが、場違いなところに置かれてしまっている人、というイメージを連想させませんか?
「私、なんでこんな所で働くことになってしまったのかしら?」とか「なんでこんな人間関係の中で生活しないといけないのかしら?」と思いながら毎日を過ごしている人というのは案外多いのではないかと思うんです。
この箇所を読むと私の頭には、1冊の本の題名が浮かんできます。みなさまも題名くらいはご存知、あるいは読んだこともある方がいらっしゃるのではないかと思いますが、シスター渡辺和子さんの『置かれた場所で咲きなさい』です。
私はこの『置かれた場所で咲きなさい』という言葉が大嫌いでした。「そもそも置かれた場所で咲けない人はどうするんだ」とか。「自分が置かれた場所で、ただただ忍耐してその状況を受け入れて我慢しなさいという意味なのか」とか。「置かれた場所で咲けなかったら、他の場所に移ってもいいんじゃないのか」とか。「『置かれた場所で咲きなさい』じゃなくて『呼ばれた場所に行きなさい』だろ」とか。
そうやって、この言葉の揚げ足をとって、拒否反応ばかりをつのらせていました。本の題名だけでそうやって文句をたれていた。いわゆる「食わず嫌い」というやつですね。そうやってこの本を避けておりました。
▼神が養ってくださるから
ところがひょんなことから、この本を読む機会がやってきました。
どうということのないきっかけなのですが、この本の「大文字版」と言いますか、「大きな文字で読みやすい『置かれた場所で咲きなさい』」という本を見つけたんですね。
それが、まるで絵本のように大きな字で、「これは読みやすいな~」と思うようになったということは、私も歳をとってきたんじゃないかと思いますけれども、まあ、多少お歳を召した方でも読みやすそうです。そして装丁がとてもきれいだったんですね。
それで、「まあこういう形だったら読んでもいいか」と思いました。
あと、最近知り合ったカトリックの元修道士さんが、非常に渡辺和子さんを尊敬しておられるので、「ひょっとしたら自分の知らない世界があるのかもしれない」と思い、読むことにしたんですね。
読んでみてわかりましたが、この「置かれた場所で咲きなさい」というのは、「自分が今いる場所で、とにかく我慢しなさい」という意味ではなかったんですね。
これは元々は渡辺和子さんがある外国人の神父さんに言われた、「Bloom where God has planted you.」(神があなたを植えられたところで咲きなさい)という言葉でした。
「『神が』あなたを植えられた」という言葉が入っていることで、「あなたは孤立無縁で花を咲かせろと言われているわけではないんだよ」ということがわかります。
これは「神があなたを植えたのですから、その神に向かってあなたは花を捧げなさい」という、「神と人との関係」にそのメインテーマがある言葉だったんですね。「神との関係の中で、神に向かってあなたらしい生き方を捧げなさい」ということを言っています。
ですから、この今日の聖書の箇所に出てくる園丁のように、神さまは私たちを手入れしようと関わってくださっているのだと。そこに植えられたまま放置しているのではなく、いちじくの木のような私たちを一人ぼっちにしないで、水をやったり、肥やしをやったりして養ってくださるんだよ、という信仰がここで証しされているわけです。
▼花も実も無い人生
「花も実もある人生」という言葉もありますが、逆に「花も実も無い人生」というものもあると思います。別にパッとしたところもない、どちらかといえばさえない人生もあるでしょう。
あるいは――うちには観葉植物が2人おりまして、この2人に朝晩葉水を吹き付けてやるのが私の日課なんですけれども――たとえば観葉植物のような人生もあると思うんですね。別に花を咲かせるわけでもないし、実をならせるわけではないし、おとなしくそこにいるだけ。成長もゆっくりだし、存在そのものが地味です。けれども、確かにそこに生きている。その存在が愛おしいんですね。
人間である自分が、花が咲くわけでも、実がなるわけでもない観葉植物をこんなに愛おしいと思っているくらいだから、神さまだったら、観葉植物のように地味な人間がいたとしても、自分よりももっと大きな愛で見守ってくださるだろうと思うんですよね。
今の世の中というのは、かなり強制的に花も実もある人間を求めているというところがあるんじゃないでしょうか。
資本主義社会の行きつく先としては当然だと思いますが、弱肉強食の様相を呈しています。強い者、速い者、多くのものを持つ者が先んじて自分の利益をためこみ、更に強く、更に速く、更に多くのものを持ちたいと飢え乾く人々が世の中を支配し、また子どもたちも「それがこの世における成功だ」と教え込まれています。
せっかくこの世に生まれたからには、自己実現しなければならない、成功しなければならない、効果を生み出し、数字に現れる結果を出さなくてはならない。そんな方向に向かって加速度を増している世の中で、弱い者、時間をかける者、少ないもので生きようとする人は、遠慮なく置いてゆかれます。
しかし、そんなに強くなくてもいいじゃないか。もっと時間がかかってもいいんじゃないか。少ないもので生きていてもいいんじゃないのか。花も咲かないし、実もならないけれども、そこにありのままに生きていればいいじゃないか。人間は本来その人らしく生きていて、神さまに「良し」とされているのではないでしょうか。
▼私がそばでお世話するから
確かに、木は勝手に今いるところから足を生やして逃げてゆくわけにはいきません。逃げられる人は逃げたらいいでしょう。けれども、逃げるわけにはいかない事情を抱えた人もたくさんいます。
そのような人に神さまは「とにかくそこで我慢しろ」とは言っておられません。そうではなく、「私がそばで水をやったり、肥やしをやったりするし、怖いご主人様が来ても、お前が切り倒されないよう守っているから、どうかそうやって生きていてくれよ。実をならせるなら来年でいい。でも実がならなくても、来年またお前を守ってやるから」と言ってくださっているのだと、私は今日の聖書の箇所を読みたいと思います。
皆さんはいかがお感じになりますでしょうか。