【女は教会では黙ってろ?】

【女は教会で黙ってろ?】

2021年5月30日(日)徳島北教会 主日礼拝 説き明かし

▼聖書の言葉【新共同訳…コリントの信徒への手紙(一)14章24-36節】

 婦人たちは、教会では黙っていなさい。婦人たちには語ることが許されていません。律法も言っているように、婦人たちは従う者でありなさい。

 何か知りたいことがあったら、家で自分の夫に聞きなさい。婦人にとって教会の中で発言するのは、恥ずべきことです。

 それとも、神の言葉はあなたがたから出て来たのでしょうか。あるいは、あなたがたにだけ来たのでしょうか。

聖書 新共同訳
©共同訳聖書実行委員会
Executive Committee of The Common Bible Translation
©︎日本聖書協会
Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988

▼女は教会では黙ってろ?

 おはようございます。

 今日は、パウロの手紙の中でも非常に悪名高い、彼の女性差別がありありと表れているとよく言われてきた聖書の箇所を取り上げました。

 もっとも、結論から先に申し上げますと、この箇所は実はパウロ自身が書いたのではなく、パウロより後の人が、この手紙に挿入したのではないかという説が最近では有力です。

 なので、まずは「パウロはそんなことは言ってなかったのか」とご安心いただければと思います。

 そもそも、今日の聖書の箇所では、「女は教会では黙っていろ」「教会で発言するのは恥ずべきことだ」と言っていますが、パウロ自身が書いたのは間違いない部分、例えば、聖書を手許にお持ちの方は、このコリントの信徒への手紙(一)の11章5節……ちょっと開けてもらえればありがたいんですが、私たちが使っている新共同訳聖書の、新約の313ページです。第1コリントの11章5節ですね。

 そこでは、「女はだれでも祈ったり、預言したりする際には……」と書いています。ということは、パウロにとっては女性が教会で祈ったり預言したりすることは当然と認めているので、今日の14章の「女は教会では黙ってろ」というのとは矛盾します。

 それから、今日の聖書の箇所は、「何か知りたいことがあったら夫に聞け」という風に、教会には結婚した人しかいないかのように言っていますけれども、実際にはパウロは、未婚の女性に対して、「できればみんな私のように独身でいる方がいいですよ」と勧めたりしているんですね(7.8)。

 まあそれは、もうすぐ今日にでも明日でもこの世の終わりが来るとパウロが信じていたからなんですが、そういう意味でも、決して彼は男女は結婚していて当たり前という前提でものを言っているわけではありません。これも、今日の聖書の箇所が結婚した男女しか想定していないのとは矛盾します。

 こういった根拠から、「女性は教会で黙っていなさい」とは決してパウロが思っているわけではないですし、そんなことをパウロが手紙に書いたわけではないんだということがわかります。

▼パウロの「画期的な」混乱

 もちろん、今私が比較のために引き合いに出した第1コリントの11章も、パウロに全く差別意識がないかというと、そうではありません。結構、女性を見下げた文章は続いています。

 いちばんパウロがやり玉に上げられるのは、同じく3節にある「男の頭はキリスト、女の頭は男」(1コリ11.3)という言葉ですね。他にも、次のページをめくると、「男が女から出て来たのではなく、女が男から出てきたのだし、男が女のために造られたのではなく、女が男のために造られたのだから」(11.9)ということも書いています。これは、創世記の天地創造物語で、アダムのあばら骨からエバが造られたとか(創世記2.21-22)、「彼にふさわしい助け手を造ろう」と神が言ったとか(2.18)、そういう風に書いてあることをパウロは思い出して書いているわけですね。

 けれども、そう言いながらパウロは、今日の聖書の箇所に戻りますが、「やっぱり言いすぎたかな」と思って言い直すわけです。「いずれにせよ、主においては、男なしに女はなく、女なしに男はありません。それは女から男が出たように、男も女から生まれ、また、すべてのものが神から出ているからです。自分で判断しなさい」(1コリ11.11-13)という風に。

 自分が言っていることにちょっと無理があるかなと思ってパウロは、「男なしには女はないし、女なしには男もない」と、男女は公平だとちょっと言ってみたり(11.11)、「男も女から生まれたんだし」と、創生にはああ書いてあるけれども、実際には女性が産んでくれないと、男性もこの世に存在することはできないしなぁと思い直しているわけですね。そして最後は「すべてのものは神から出ているのだ。自分で判断しなさい」と、ある意味さじを投げているわけです。

 こんな風にパウロ自身、混乱しているというか、男女の上下関係については迷いがあるんですね。「自分の言っていることは間違っているのではないか」と思い始めている可能性がある。

 これは、男が上で当たり前と思っている古代人にしては、ある意味、画期的な迷いではないかと考えることも出来ます。

▼第1テモテの女性蔑視

 実は、この第1コリントというのは、パウロの活動の中では、割と初めの方に書かれた手紙なんですね。これに対して、ローマの信徒への手紙は彼の活動のほぼ最後の方で書かれたものです。そのローマの信徒への手紙では、パウロは教会の女性たちを褒め称える言葉を惜しんでいません。

 これについては今日のお話の最後で改めて紹介したいと思いますけれども、パウロは実際に教会で活躍する女性の奉仕者たちと接する内に、女性を評価しないなんてありえないという風に心が成長していったのではないかと思われます。

 ちなみに、今日の聖書の箇所として引用した「女は教会では黙っていなさい」という言葉を後から入れたのは、おそらくテモテへの手紙(一)を書いた人たちのグループに近い人たちではないかとも言われています。

 テモテへの手紙というのは、パウロが書いたような体裁を取りながら、実際にはパウロ自身が書いたのではない「偽名書簡」よ呼ばれているものの1つなのですが、そのテモテへの手紙(一)の2章をごらんください。385ページです。

 385ページのテモテへの手紙(一)2章の11節ですね。

 「婦人は、静かに、全く従順に学ぶべきです。婦人が教えたり、男の上に立ったりするのを、わたしは許しません。むしろ、静かにしているべきです。なぜならば、アダムが最初に造られ、それからエバが造られたからです」(2.11-13)。……このあたりは、今日の第1コリント14章と言い方がそっくりでしょう?

 そして、まだこのテモテへの手紙を書いた人は続けます。「しかも、アダムはだまされませんでしたが、女はだまされて、罪を犯してしまいました」(2.14)。このテモテへの手紙が書かれたのは第1コリントの時代よりだいぶ後ですから、言葉が付け加えられて、より激しくなっているように思います。

 そしてさらに続けます。「しかし婦人は、信仰と愛と清さを保ち続け、貞淑であるならば、子を産むことによって救われます」(2.15)。「何を寝言言ってんねんボケ」と言いたくなりません?

 こんな事言って、子供のいない家庭の人、あるいは親のいない子供をどれだけ傷つけてるか、この人はわかっていません。でも、それがこのテモテへの手紙を書いた人の考えなわけです。

 やはり、第1コリントの14章に挿入された文章を書いた人みたいに、結婚した男女のことしか考えていませんし、「女性は子供を産む機械」と平気で言えるような日本の政治家たちみたいな発想しかないわけです。

▼ローマの女性たちへの挨拶

 最後に、パウロがいかに女性の活躍を褒め称えているかがわかる箇所を読んで終わりにしたいと思います。ローマの信徒への手紙の16章です。私たちの聖書では新約の297ページです。

 ローマの信徒への手紙6章1節から。これは、これからローマの教会に行こうとしているパウロの、ローマの信徒の皆さんへの手紙の最後にある挨拶です。

 まずここでは、「ケンクレアイの教会の奉仕者でもある、わたしたちの姉妹フェべを紹介します。どうか、聖なる者たちにふさわしく、また、主に結ばれている者らしく彼女を迎え入れ、あなたがたの助けを必要とするなら、どんなことでも助けてあげてください。彼女は多くの人々の援助者、特にわたしの援助者です」と、最初から「フェべ」という1人の女性の推薦から挨拶を始めます。(ローマ16.1-2)。大変丁重な紹介の仕方をしていますよね。

 それから、3節にある、「キリスト・イエスに結ばれてわたしの協力者となっている、プリスカとアキラによろしく。命がけでわたしの命を守ってくれたこの人たちに、わたしだけでなく、異邦人のすべての教会が感謝しています」(16.3-4)。

 このプリスカとアキラというのも当時の教会でよく知られていた夫婦の名前だったようですが、大抵の場合この時代では、夫の名前が先に出てきて、妻の場合は名前も書かないのが習慣だったのに、ここでパウロは妻であるプリスカの方を先に書いています。きっとプリスカが主に奉仕する人で、アキラのほうがついてくるといった感じだったのかもしれません。

 次に、6節に出てくる「あなたがたのために非常に苦労したマリアによろしく」。

 そして7節に、「わたしの同胞で、一緒に捕らわれの身となったことのある、アンドロニコとユニアスによろしく」とありますが(16.7)、このユニアスというのが、実は「ユニア」という女性であった。つまり訳し間違いであったというのが最新の見解で、3年前に出た聖書協会共同訳では、そのように修正されています。

 次はちょっと飛んで、12節「主のために苦労して働いているトリファイナとトリフォサによろしく。主のために非常に苦労した愛するペルシスによろしく」(16.12)。この3人はいずれも女性です。

 続いて、「主に結ばれている選ばれた者ルフォス、およびその母によろしく。彼女はわたしにとっても母なのです」(16.13)。ここではルフォスのお母さんということで、名前は書かれていませんが、パウロにとってもお母さんなのですと言って、とても称賛と愛情がこもっています。

 更には、15節「フィロロゴとユリアに、ネレウスとその姉妹」(16.15)。この「ユリア」というのも女性ですし、ネレウスの姉妹たちという人たちも登場してきていますね。

 他の手紙でも、たとえばフィリピの信徒への手紙には「エボディアとシンティケ」という女性たちを「助けてあけてください」という言葉が出てきたりしますし(フィリピ4.3)、コロサイの信徒への手紙には「ニンファと彼女の家にある教会の人々にもよろしく伝えてください」という言葉がしめくくりのあたりに書かれています。ということは、女性が主人だった家がエクレシア(家の教会の集まり)になっていたこともわかります。

▼パウロは成長した、私たちも

 これだけたくさんの女性たちが男性とまぜこぜになって「よろしく、よろしく」と言われているのですから、「女は教会で黙っていなさい」というのは、全くパウロらしくないですし、最初の頃に第2コリントで書いていた「男は女の頭なんだ」とかいった発言も、それは最初の方の手紙で書かれていたことで、最後に書かれたローマ書では完全に考えが修正されています。先程も申し上げましたように、パウロの女性観は成長していったわけです。

 パウロは、教会で女性が奉仕し、証をし、教会のみんなの前で祈るということは当然だと思っていました。そして、そういう女性たちに対する称賛を惜しまず、遠方にいても決してその存在を忘れず、「よろしく、よろしく」と挨拶しています。

 パウロがそうやって、活動の初期から後期にかけて、その女性観を成長させていったこと、そしてこの女性たちが実際に教会で活躍する姿こそが、パウロを成長させたことに思いを馳せたいと思います。

 それと同時に、今も教会を支える女性に私たちも惜しみなく称賛したいと思います。

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