【神に必要とされた私たち】創世記1章27節

2021年7月18日(日)徳島北教会主日礼拝説き明かし

▼聖書の言葉……創世記1章27節(旧約聖書:新共同訳 p.2、聖書協会共同訳 p.2)

 この説き明かしは、原題「神々にしている人間たち」のタイトルを替えたものです。

天地創造は神話

 今日は有名は天地創造の場面からほんの1コマだけを抜き取って、「人間は神にかたどって造られたのだ」ということに焦点を当ててお話をしてみたいと思います。

 もちろんこれは科学的にどうこう言う話ではありません。私自身、地球上の生命は何億年か昔にドロッとした原初の海に生まれた1個の原始的な細胞から全ての生物に進化したという説を信じています。

 もちろん進化論も完全に確定したわけではなくて、今でも進化論自体が進化しているような研究の状況らしいですが、それでも私は「7日間で神様が世界を造った」という聖書の物語は神話だと思っています。

 7日間というのが、そもそも古代のイスラエルが7日に1日安息日を作るために作り出したお話なんですけれども、それはそれで画期的な発明です。休日というものが無かった世界に、7日に1日休んで疲れを回復させたほうが、実は効率がいいんだというのは、古代のイスラエルの偉大な発見、発明だと思います。そして、それを天下の人々に知らせて命じるために、「神がこうされたのだから、我々もそうするのだ」、「神様が休まれたんだから、我々も休もう」という物語が造られたのですね。

 ですから、この天地創造の物語というのは、こういうことが事実としてあったのだという読み方よりも、この物語を通して何を言いたいのだろう? どういう意味があるんだろう? ということを考えるほうが良いのだと思います。

人、みな神の子

 今日は「神はご自分にかたどって人を創造された」と書いてあるところを読みましたけれども、その前の節で、神さまが「『我々』にかたどり、『我々』に似せて、人を造ろう」(創世記1章26節)言っていますよね。

 ここで「我々」という複数形になっているのは、この物語が書かれたよりもっとずっと昔に口伝えで言い伝えられていた時代の、多神教だった時の名残が残って、こういう言い方になってるんですね。

 で、ここで神が「我々にかたどって、我々に似せて人を造ろう」というのは、直訳すると「我々の姿・形に似せて像・コピーを造ろう」という言葉になるんです。じゃあ、やっぱり神は人間みたいな頭と胴体と手足のある体を持ってるんかと思いたくなるんですが、そういう意味ではなくて、この「神の像」というのは、古代の王様のことを言っているらしいんです。

 この創世記が書かれた時代も、それより500~600年近くあとのイエス様の時代のローマ帝国の皇帝も、中世の王国もみんなそうですけど、王とか皇帝というのは、「自分は神の子だ」とか「神の似姿だ」とか、あるいは神そのものだと言うものなんですよね。日本だってつい80年ほど前まで天皇は神だって崇めてましたよね。王とか皇帝というのは、みんなそういう自己主張の仕方をするんですね。

 でも、聖書というのは、これもイエス様のことを書いてる新約聖書も、今日のこの旧約聖書でも同じなんですけど、そういう地上の王様を神の子だとか神の似姿だという考えに抵抗しているんですね。

 地上ではあちこちの王国の王たちが「俺は神の化身だ」と言ってるけれども、違うんですよと。「あの王様だけではなく、あなたがた自身が既にみな神の化身なのですよ」と。「あなたがた一人ひとりが皆、神のイメージどおりの存在なんです!」と。「人は皆、神のような存在なんだ」と言っているんです。

人が神に似ているとは

 さて、それでは「神は人を自分のかたちに創造された」というのはどういう意味なのでしょうか? 他の動物とは違う高度な知能を持つ者として造られたという意味なのでしょうか? 人間は精神とか理性を持っている特別な存在だということを言っているのでしょうか?

 実はこういう問いは信仰的にはよくないと言われています。というのは、結局こういう疑問に答えようとすると、いま私が言ったように、「それは知能のことだろう」とか「それは理性のことではないか」といった風に、人間の特徴を逆に神の性質に当てはめてしまうということをやってしまいがちだからなんですね。それは、「人間は神に似ている」という認識ではなくて、「神は人間に似ている」という考え方に論理を逆転させてしまうことになるからなんですね。

 神という方は、人間には把握しきれない、まあはっきり言えば人間にはわからない存在です。だから、私達は「神はこういう方だ」ということは、はっきりとは言うことはできないし、言ってはならないんですね。ただ私達は、聖書に書いてあることから、その神についてのごく一部について、先人が学び得たことを受け取って、「人間とはどういう存在なのか」ということを知ることができるだけ、というわけです。

関係性の中で生きる存在

 そこで聖書を改めて読んでみると、「男と女に創造された」(27節)と書いてあります。

 ここで誤解されがちなのですが、「神が男と女に造ったと書いてあるのだから、世の中には男と女しかいないんだ」という解釈をする人が今でも結構いるということです。

 確かにここには「男と女に創造された」と書いてあります。けれども、これは例えば最初に「神は7日間で世界を造られた」という事と同じです。古代人はそうだと信じていたけれども、現代人はそうではないことを知っている。じゃあ、私達はここをどう解釈するのか。解釈というものは時代によって変わってくるし、ひとつの聖句から何を学ぶのかということも時代によって変わってきます。

 神が6日間で世界を造られて1日休んだということは、事実そうであったということではなく、人間にとって1週間に1日は必ず休むということが大切なんだということを言いたいのだと解釈するのと同じように、神が男と女に人間を造られたということは、事実そうではないことは、もう今の世の中ではわかっています。

 人間は男と女だけではなく、トランス・ジェンダーの人もたくさんおられるし、ノンバイナリーといって、男とも女ともはっきり区分しない人もおられるし、男と女だけが愛し合うのではなく、男と男、女と女が愛し合うという人も思いの外たくさんおられます。

 しかもそれは最近増えてきたのではなく、もともと人類には一定の割合で存在していて、差別によってずっとクローゼットに押し込められていたのが、最近になってやっとカミングアウトする人たちが少しずつ現れてきただけなんだということもわかってきたわけです。

 そうすると、聖書の解釈も変わってきます。神は男と女だけに人間を造ったという自体が事実ではないので、この聖書の言葉を字義通りに受け取ることはあまり大事なことではありません。もっと大事なことは、「人は最初から孤独な存在として造られたわけではない」ということです。人は他者との関係の中で生きる存在だということです。

 先程、もともと神は「我々」と自分のことを言う複数形の存在だったとも言いました。その言い方が一神教になってからも残されているということの意義を再認識したいと思います。「我々と同じように、人間を複数で生きるものとして造ろう」と神がおっしゃったということです。

パートナーとして生きる

 この事は創世記第2章の天地創造の物語でも、別の形で表現されています。もともと、創世記の1章の物語と、2章の物語は全然別の資料からできているというのが定説で、だいぶこの2つは世界観が違うんですけれども、それでも現代的な解釈では、同じようなテーマも潜んでいることが明らかになってきています。

 2章の18節ではこう書いてあります。

 「主なる神は言われた。『人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう。』」(創世記2.18)

 この「助ける者」という言葉は、例えば英語ではかつては「helper」と訳されていました。そこで、「女は男を助ける存在だ」という解釈が生まれて、男性優位の社会を作るためにその解釈が利用されました。

 しかし、近年の英語訳では、この単語が「partner」と訳されるようになってきています。そして、実際大元のヘブライ語でも、もともと「お互いに向き合って助け合うパートナー」という意味なんだそうです。

 そう解釈すれば、1章の天地創造物語の「人は男と女に造られた」という言葉も、2章の天地創造物語での「人はお互いにパートナーとなるように造られた」というのも、人間というのは互いに他者と助け合って生きる存在として造られているんだと言っている、という意味では相通じる意味を持っていると言えます。

 人間が神に似た存在として造られているということの意味は、実は人間は独りで生きるものではなく、パートナーシップを結んで生きるように造られているのだということ。もし、独りぼっちになってしまっている人がいたら、誰かがパートナーになる(必ずしも結婚しろという意味ではなく、友情であれ何であれ)、誰かが助ける者になるということが大事なんだよということ。それがこの聖書の言葉のメッセージではないかと思われるわけです。

神に必要とされる者

 人間は、他者との関係の中で初めて自分というものを確認しながら生きてゆくことができます。他者に承認されることによって自分という存在の価値を確認し、改めて自分でも自分自身を承認することができて生きてゆけます。それこそが、神がご自分のように我々人間を造ったということの意味なんだと聖書は言っているわけです。

 そして、さらに考えを進めるならば、神さまが人間を無駄に造ったとは考えられませんので、神さまにも他者が必要だったから人間を造ったんじゃないかということにも思いが及ぶわけです。

 そう思うと、神という言葉がもともとは複数形、つまり「われわれに似たものとして、人間を造ろう」と言っていたことにも、実は深い意味があったのではないかという気もしてきます。神は自分たちが複数の存在として存在しておられたからこそ、人間も複数の存在として造られたのではないかと、そんなことを考えてしまいます。

 そんな風に、神は神のパートナーとして私達人間を造ってくださったんじゃないか。それほどまでに私達は神から必要とされているんじゃないか。だから神様は人間を大切な大切な存在としてくださっているんじゃないか。そんなことを思います。

 だから、私達はそれを信じることで、自分の存在価値を再認識できるし、神と一緒に人生を歩むことで、人生の深みを更に知ることができると思うんです。

 そして、自分独りではなく、自分以外の人も誰もが神に必要とされている大事な存在としてそこにいるんだということも、改めて覚えることができると思うのです。

 いかがでしょうか。今日の説き明かしはここまでと致します。

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