【心の貧しい者は幸いか】マタイによる福音書5章3節

2021年7月25日(日)徳島北教会主日礼拝説き明かし

聖書の言葉……マタイによる福音書5章3節(新約聖書:新共同訳 p.6、聖書協会共同訳 p.6)

 

▼霊において貧しい人々

 おはようございます。

 今日は有名なマタイによる福音書における山上の説教の、これまた有名な幸いについての教えの冒頭の言葉を取り上げてみたいと思います。「心の貧しい人々は、幸いである」(マタイ5.3)という言葉です。

 この「心の貧しい者」という言葉は、日本語ではあまり良いイメージではないと思います。「心が豊かである」という言葉が良いイメージなので、その反対で「心が貧しい」となると、なんだか貧困な精神と言いますか、人に気持ちがわからないとか、想像力や共感に乏しい人間、優しくない、ガツガツしている……といった印象をつい抱いてしまいます。

 もちろん、実際のギリシア語の意味としては、そうじゃないんだろうなぁと皆さん予想はついておられると思うんですね。実際には、この「心の」と訳されているのは、直訳すると「霊において」となります。「霊にて貧しい者」です。

 まあ、「心の貧しい者」でも「霊にて貧しい者」でも、やっぱり日本語のイメージとしてはあまり良くないですけれども、これは元々イエスの言ったとおりではないというのが通説です。つまり、元々イエスが言ったのは「貧しい者、幸いなり」、これはルカによる福音書の6章21節にある言葉ですが、つまり「経済的に困窮している人こそ幸いなのだ」と言ったのであると。そちらのほうが元の形で、「霊において」というのはマタイが付け加えたのだろうというのがほぼ定説になっています。そうやって「霊において」という言葉を加えることで、マタイは経済的に困窮しているわけではない信徒にも配慮したのだろうと考えられるわけです。

 そして、もともと「心の貧しい」というのは、「ひたすら神に依り頼む、へりくだった者、敬虔な者」という意味に解釈されるわけです(『新共同訳 新約聖書注解Ⅰ』日本基督教団出版局、1991、p.53)。

 でもね、それはあまりに平凡すぎるかなぁと私などは思ってしまうわけです。「ひたすら神に依り頼む、へりくだった、敬虔な人」が神さまに幸いを与えられるなんていうのは、当たり前すぎると思いませんか。

 そうではなくて、日本語で私たちが受け止めるような意味での、「心が貧しい」、「精神的に貧困である」、そんな人間こそが、神に愛され、幸いとなる。天の国はそういう人たちのものだ」と。その方がよほどキリスト教的ではないかと思うのですがいかがでしょうか。

 例えば、人の気持ちがわからない者、人間理解が浅い者、共感力が乏しい者、そういう者たち。すなわち「心の貧しい者」こそが幸いなのであると、言ってはいけないでしょうか。

▼心の貧しい者こそが幸いである

 たとえばある人が、人の気持ちがわからなくて、人間理解が浅くて、共感力に乏しい人間に育ってしまったのは何故なんだろうと考えてみてはどうでしょうか。その人は何らかの心の病を抱えている場合があるかもしれない。あるいは、育ってくる過程で深刻な心の傷を受けた、あるいは本当の意味で愛されることなく育った人である場合はどうでしょうか。

 そういったその人固有の事情があって、心の栄養が満ち足りていない結果、愛するということを知らない。極端な場合、自分が人を痛めつけたり、人を殺したりすることが何故いけないのかもわからない人間になることはあるのではないでしょうか。そして、その人がそうなったには、何らかの事情があったからではないでしょうか。

 よくステレオタイプ的に、「暮らしは貧しいけれども、心は豊かだ」という人はいますよね。「貧しい発展途上国の子どもたちの目はキラキラ輝いていました」とか言う人、時々います。もちろんそういう事はあるでしょうし、暮らしが貧しい中で、必死に心豊かに子どもを育てる大人がいて、本当に心豊かな人が育ってくるということはあるでしょう。

 けれども、貧しければ自動的に心が豊かになるわけではありません。育った環境が経済的に貧しいか豊かかということとは関係なく、その人がその人であるだけで愛される、守られる、お世話をされるということがなければ、人は決して心豊かな人に育つことはできないと思うんですね。

 そして、そうだとすれば、その人の心が貧しいのは、もちろんいい大人になっておれば、その人自身の責任もあるだろうけれども、大元をたどれば、特に子ども自体の生育歴のことを考えれば、必ずしもその人だけがが悪かったのだとは言えないのではないかと思います。

 育った環境のせいであれ、本人の生き方の責任であれ、その貧困な精神は、別の人の豊かな精神によって愛され、育ち直す、育てられ直すということが必要なのではないでしょうか。

 言うなれば、「心の貧しい者こそが幸いにならなくて、何が本当の幸いと言えるだろうか」ということなのではないかと思うのですが、いかがでしょうか。

▼エッセンシャル・ワーク

 けれども、それは誰がどのようにすればよいのでしょうか。たとえば、30年~40年かかってそのような貧困な精神に育ってしまった人の育ち直しには、やはり30~40年かかるのでしょうか。それとも、リカバリーに30年かかって、育ち直しには更に30年かかるのでしょうか。あるいはもっと早く人生を取り戻す場合もあるのでしょうか。

 そのままでは生きている限り癒やされることなく終わる人もいるでしょう。その人は見捨てられたままで仕方がないということになるのでしょうか。本来なら、その破壊された心は誰かに受け止められて、せめて生きている間に丁重に扱われる権利があるのではないでしょうか。

 心の貧しい人こそが幸いにならなければならない。心の貧しい人こそが愛されなくてはならない。もし人が変わるとすれば、愛されることと本人の努力の両方が必要になってくるのではないかと思います。そして、そういう心の貧しい人をも幸いにすることが、世の中の幸いにすることにつながるでしょう。

 けれども、それは誰が担うのでしょうか。

 それは一筋縄ではいかないし、時間も手間もかかります。何度も裏切られることも傷つけられることもあるでしょうし、一人の人でできることでもありません。

 それを直接的に担っているのは、福祉や教育や保育、そして相談員やボランティアなどを含む一部の分野の人に偏っているというのが、この国の現状ではないかとも思われます。

 それは、エッセンシャル・ワーク、つまり世の中に必要不可欠の仕事の一つなんですけれども、資本主義的には何の利益も生み出さないからです。

 エッセンシャル・ワークというと、飲み物・食べ物を売る人、社会のインフラ設備を維持する人、医療従事者などの方々を指しますけれども、人を育て直したり、人生を取り戻すための援助をする人も、間違いなくエッセンシャル・ワーカーでしょう。

 けれども、そういう仕事は大きな利潤を産む仕事ではありません。むしろ、人的にも物的にも資源を使うばかりの仕事という風に、資本主義的には捉えられてしまうでしょう。だから、政治家たちもそのような分野には予算を配分しません。だから、人が荒れ、世の中が荒れ、国が滅びるということになるんでしょうね。

▼心の貧しい国

 それを考えると、人の心がどんなに貧しくなろうが、枯れ果ててしまおうが、荒れ果ててしまおうが、知ったこっちゃないという様子で、利潤の追求に励んでいる国家全体が、「心の貧しい国」になってしまっているのかもしれませんね。

 「心の貧しい国」だから、「心の貧しい人」がたくさん生まれてきても当たり前かもしれません。しかし、そのままではいけないのではないかと思うなら、私たち一人ひとりが価値観を変えないといけないのでしょう。

 利潤の追求のために、どんなに人の心が荒れ果ててもいいとするのか。それとも、人のお世話をする人を支えるための資源が潤沢に投入されて、世の中が生きやすくなることによって、愛されなかった人が愛されるようになることを考えるか。

 本来は、私たち一人ひとりが「心の貧しい者」を愛する心、「心の貧しい者」こそがケアされなくてはいけないという考え方を持ち、それを広めてゆかなくてはいけないのではないでしょうか。

 それは極めてキリスト教的な価値観ではないかと思います。けれども、それはひょっとしたら、単に信仰を広めるということよりも喫緊の課題と言えるかもしれません。信仰よりも優先して愛というものを行き渡らせるようにすることが、かえって優れてキリスト教的なのかもしれません。

 「心の貧しい者」自身も、心の貧しいままでいたいと思っている人がどれだけいるでしょうか。心の奥底で救われたいと願っている人は少なからずいるのではないでしょうか。

 「暮らしの貧しい者」も「心の貧しい者」も「幸いである」と、キリスト教会は宣言するべきではないかと私は思います。いかがでしょうか。

 本日の説き明かしを終わります。

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