【変わるべきは男か】

2021年7月5日(日)徳島北教会主日礼拝説き明かし

聖書の言葉……サムエル記上1章1~20節(旧約聖書:新共同訳 p.428-429、聖書協会共同訳 p.412-413)

▼表社会で白昼堂々と行われる差別

 おはようございます。今日は「部落解放祈りの日礼拝」として礼拝を行っていますが、本来は日本基督教団では「部落解放祈りの日」を毎年 7月の第2日曜に決めておりますが、勝手ながら私の説き明かし担当の都合で、1週間早めて行うことにしました。そしてまた、本来ならば部落差別の学びと、部落解放を求める祈りの日ですけれども、同じく差別からの解放を求めるということで、今日は部落差別問題とは別の事柄を巡っての説き明かしをしたいと思っています。

 部落差別も、いまだインターネットという一種の裏社会で、収まることのない誹謗中傷、嫌がらせ、密告などが行われています。ネットの世界では匿名で誰もが好き勝手なことを書けるので、人前に出ている時には、人畜無害に見える人がネットに書き込みをするときには、恐ろしいほどの差別主義者になって、人権侵害の書き込みを連発するということが起こっています。

 特にTwitterというメディアではその差別発言、嫌がらせなどの程度がひどすぎるという印象があります。Twitterを見るたびに立ち直れないほと痛めつけられるという人も少なくありません。これは部落差別に関することだけでなく、在日コリアンに対する差別についても、他のあらゆる差別についても同じことが言えます。

 ところが、裏社会だけではなく表社会で、匿名でもなく名前も顔も晒した状態で、むしろそれなりに立場のある人たちが、白昼堂々と当たり前に行っている差別もあります。今日はこのあからさまな差別についてお話してみたいと思います。

▼同性愛と別姓婚

 いま露骨に日本人の差別意識が表れているのがどのような場面かと言うと、例えば、この前閉会した国会で結局法案が提出されなかった、「性的指向及び性同一性の多様性に関する国民の理解の増進に関する法律」、いわゆる「LGBT法案」に関する論議で出た差別発言のオンパレードですね。

 自民党の議員の中からは、同性愛は「種の保存に反する」とか、「同性愛は生産的ではない」とか、「同性愛者が増えると日本は滅亡する」とか、散々な差別発言がこれまでも飛び出てきていました。

 しかも、この発言を見える場所で顔も名前も出して発しているということは、この人達は自分たちがどんなにひどい人権侵害、人の生存を脅かすような否定をしているかという意識が全く無い。むしろ自分たちは正しいことを言っていると思っているところが、致命的にたちが悪いんですね。

 もう一つは選択的夫婦別姓を巡る論議ですね。つい最近、最高裁で「夫婦は別姓でなくてはならない」という法律が憲法に反してはいないという判決が出ました。これに落胆した人は少なくないと思います。これについても国会議員たちから、「夫婦の一体感が損なわれる」とか「家族が崩壊する」などと言った意見が多く出されました。

 これから結婚してゆこうという若者の過半数が選択的夫婦別姓、つまり、結婚して同じ姓を名乗るか、違う姓を名乗るかを、選べるんだったらそれでいいじゃないか、別に別姓にしろと強制するわけじゃあるまいしと言う人が過半数だという調査結果も出ています。

 いま、人と人の愛や家族に関する2つの問題を巡って、こうして論議が紛糾している時代なわけですが、この2つの問題には同じ背景があると指摘する学者がいます。

 その背景というのは、国会議員、特に年寄りの男性の国会議員の中では、男が権威を持って上に立ち、女は男に従うものであってほしいという願望にしがみついている人が多いということです。

▼男の願望と聖書

 実際、彼らの結婚観というのは、女が家を出て、男の家に嫁いでその姓を名乗り、嫁として男に仕えるというイメージです。そして、女は男の子どもを産み、育て、家事を仕切り、男はその支えで外で働くという固定的な夫婦間に基づいています。

 別にそのような夫婦のあり方自体が、形の上で悪いということではありません。ただ、その形に拘る男たちの背景にある発想が、たとえば、これまで政治家たちが「女は産む機械だ」、「国のためにはがんばって何人産んでもらわないと困る」といった発言の中に表れています。その根底にある発想自体が間違っているというのですね。

 別姓婚を認めてしまうと、女が男に家に入り、嫁として仕えるという構図が崩れてしまう。同性愛や同性愛者どうしの結婚を認めてしまうと、女に子どもを産ませ、育てさせるのが結婚という彼らの結婚観が崩れてしまう。そういうことを過剰に恐れ、慎重論に凝り固まるのは、結局、自分たちが女の上に立ち、女を支配していたいという願望が彼らの根底にあるからだということが指摘されています。

 今日お読みした聖書の箇所は、そのような観点から読むと、非常に差別的で批判されるべき箇所です。聖書という本も、所詮は人間の作品であり、書かれた時代の社会的な風潮や、読み聞かされる聞き手を想定して書かれているものです。

 もちろん聞き手の想定といっても、何も期待に答えるだけではなく、聞き手に警告や問題提起をするものもありますが、聞き手の共感を得られるように、時代の精神を反映したような記事もたくさんあります。

 その時代においては当たり前で気づかなかったことも、後の時代になって見直しが必要になる部分もあります。そういう意味で、聖書にも時代や社会の限界というものはあるんですね。

▼サムエルの誕生物語

 今日は旧約聖書のサムエル記上の出だしのお話を読みました。

 サムエル記というのは、預言者サムエルを主役に据えた伝説です。このサムエルという預言者は、イスラエル民族を初めて王国にした預言者ですね。といっても、彼が王様になったのではなくて、王を任命し、油を注いだ。つまり、神の権威によってある男を王として認めるということをやったわけです。

 このサムエルという預言者は、もともと一種の共和制のような部族連合だったイスラエルに王を立てて王国にするのは反対だったんですね。でも、今我々がパレスティナ地方と呼んでいるカナンの地の周りから責めてくる他の民族や王国に対抗するために「我々も王国になりたい。王を立ててくれ!」と要求する民に答えて、仕方なく王を任命するわけです。「お前たちはその王に高い税を搾取されるよ。お前たちの息子は兵隊に取られるよ」と警告を与えながらもそうするわけです。

 そして、最初の王としてサウルという男を任命しました。そしてサウルが王として不適格になると、今度は2代目の王としてダビデという若者を任命しました。

 このダビデというのがイスラエルの歴史では最高の王様とされ、その1000年ほど後になって、イエス様の誕生物語が書かれる時になって、この救い主はこのダビデの家系から生まれるのだという伝説が生まれたくらいです。

 ですから、そういう意味でサムエルという人はイスラエルの歴史の転換点に立つ預言者として、非常に名高いわけです。そして、今日お読みしたサムエル記の最初の場面は、このサムエルが誕生するまでのいきさつを書いています。

▼2人の妻が争わされている

 この物語にハンナという名前の女性が出てきます。ハンナにはエルカナという夫がいます。当時はある程度の甲斐性のある男性は一夫多妻が当たり前だったようで、エルカナにももう1人の妻がいました。

 エルカナのもう1人の妻は、ペニナといいまして、こっちの方には、息子と娘、2人の子どもがいましたが、ハンナの方には子どもが生まれず、そのことでペニナにいじめられて、ハンナはいつも泣かされていたんですね。

 それでエルカナはハンナを慰めます。「なんで泣くんだ。私は10人の息子に勝るではないか」と。でも、このような慰めは、ハンナの悩み、苦しみを全く解決してはくれません。

 問題点がいくつか見つかります。

 まず、当時の社会は、子どもを産むことが妻の役割、至上命令で、それができない女は存在価値の無い人間であり、これを理由に夫が一方的に離縁することもできました。つまり、女性は「産む機械」だったわけです。

 そして、ペニナがハンナをいじめていますが、これも不思議な話です。考えてみると、ペニナが子どもを産んだことで優越感に勝ち誇って喜ぶのならともかく、ハンナをいじめるということは、ペニナ自身も本当の意味では自尊感情が満たされてなかったんじゃないだろうかと。それは夫のエルカナが、ハンナのほうを愛した、つまりえこひいきをしたせいではないのかいうことも、容易に見て取れます。

 しかも、「私は10人の息子に勝るではないか」というのが、一体何の慰めになっているのかということですね。この時代、妻はただ子どもを産むだけではなく、男の子を産むことにが望まれています。なぜなら、男の子こそが家の後継ぎになり、その家系を存続させることができるとされていたからですね。

 エルカナは、息子を産むことができない妻に対して、「私は10人の息子に勝るではないか」と言うことで、やはり息子が生まれることが一番の祝福だけどね、という論理を自分で肯定してしまっているんですね。これではハンナが慰められないのは当たり前です。

 エルカナはこんな風に、自分が置かれている社会や自分自身の問題に気づいていません。もちろんそういう時代に生きている人自身に、その問題に気づけというのは難しいことです。けれども、この物語を読んでいる21世紀の私達までもが批判的な目を失って、これを鵜呑みにするとすれば、それは間違っているのではないかと思うのですね 。

▼めでたしめでたしではなく

 この物語は、一応ハンナが男の子を授かって一段落します。しかし、「ハンナは子どもを授かることができました。めでたしめでたし」という受け止め方では、この物語をきちんと読んだことにならないのではないか。「これでいいのだろうか?」という疑問を持ってもよいのではないでしょうか。私達はこの聖書の記事を乗り越えていってもよいのではないかと思うのですがいかがでしょうか。

 ハンナは子どもを産むことができますように、と主に祈っています。それは自分をいじめるペニナを見返してやりたいし、自分のことを理解してくれないエルカナに対して自分の存在価値を認めさせたいということもあるかもしれません。

 しかし彼女は、自分が男の子を産むことができたなら、その子は主に捧げますと主に約束します。つまり、エルカナの跡取りにはしませんというわけです。これはある意味、夫に対する裏切りとまでは言わないまでも、当てつけ、あるいは抗議である可能性はあります。

 出産が神の祝福だという記事は聖書中にはいくらでもあります。アブラハムとサラのように、歳を取るまで子どもがいなかったのに、神の力で子どもが出来たとか。旧約聖書だけではなく新約聖書でも、イエスのお母さんになったマリアの親戚のエリサベトが、歳をとっているのに「神にできないことはなにひとつない」と天使ガブリエルが言ったとおりに子どもが出来たとか。そういう捉え方が基本的にはあるわけです。

 けれども、事はそんなに単純でしょうか。

▼あなたはあなたのままで良い

 先程にも触れたように、子どもを授かることができて、本来なら祝福されているはずのペニナが、なぜハンナをいじめないといけないのか。ペニナはなぜ満たされていないのか。ペニナはなぜ救われていないのか。それを考えると、子どもを産んだから祝福されている、だから彼女は幸せだ、というわけではないのだという現実も、この聖書の物語から読み取ることができるわけです。

 本当の祝福は、子どもがいるとかいないということではないのではないか。本当の祝福は、「あなたがどのような現実に生きていようと、神はあなたを肯定しているよ」、「あなたはあなたのままでいいんだよ」ということなのではないでしょうか。

 何の条件もなく、ハンナはただハンナであるままで祝福され、ペニナもエルカナに媚びることもハンナをいじめる必要もなく、ペニナのままで愛されること。それが一番の祝福であり、ありがたいことなのではないかと思うのですが、いかがでしょうか。

 そう考えれば、「エルカナ、おまえさんはちょっと認識を改めないといけない。問題の在り処に気づかないのはおまえさんだよ。」

 2人の妻を自分の気持ち次第で不公平に扱ったり、「できれば愛する妻の方から跡取りが欲しい」などと思ったり、「子どもができるなら実は男の子のほうがいいのだが、まあそうもいかないから慰めないとな……」などと思っていたりするエルカナは、ちょっとその感覚を改めないといけない。

 これはエルカナにとどまる話ではなく、子どもを男性中心的な「家」、「家系」を存続させるための道具として産ませようとすること。またその跡取り息子を産んで育てるための道具として女性を扱うこと。そのような発想を根本から見直さないと、この社会はいつまでたっても一人ひとりを大切にする幸福な社会にはならないのではないのではないでしょうか。

 そのようなことを聖書の物語のひとつから読み取ることができるのではないかと思われるのですが、皆様におかれましては、どのようにお読みになりますでしょうか。

 説き明かしは以上とさせていただきます。