2021年8月1日(日)徳島北教会平和聖日礼拝説き明かし
聖書の言葉……詩編78編1-8節(旧約聖書:新共同訳 p.913、聖書協会共同訳 p.896)
▼家族の預金を父親が勝手に賭けに使う
おはようございます。
今日は、8月の第1日曜日、日本基督教団の暦では平和聖日にあたります。私たちも今日ひととき、平和について思いを巡らせ、分かち合う時を持ちたいと思います。
オリンピックの開催中です。猛烈な暑さの中で、アスリートの方々が頑張っている姿を見ると、苦しい鍛錬の成果をあますところなく発揮している様子に励まされ、応援したくもなります。
しかし、その一方で、そのアスリートが、例えば水しぶきが黄色くなっているような汚れた水の中を泳がされたり、熱中症の危険を冒すような天候のもとで競技をさせられたりする姿を垣間見ると、本当に気の毒だなとも思います。
この大きな運動会の開催に当たっては、あまりにも大きすぎるお金が動いたようですが、それがどこでどのように使われたのか不透明であると聞いておりますし、必要だったのかどうかがわからないような税金が投入され、差別やいじめに関与したことが公になった人物が開会式の企画に加わっていたのが直前になって外されたり、どうして生活困窮者のために使わないのかと思うような数の弁当が廃棄されたり。
そして何よりも、オリンピックが直接的な原因なのか、オリンピックが開催されるならいいんじゃないのかと思った人びとがもう自粛などしなくなったせいなのか、東京の感染状況はこれまでにないほど増えていますし、この影響は既に全国に波及し始めていますよね。
そして、こうしてマスコミがオリンピック報道一色になっている間にも、沖縄では米軍基地の建設が粛々と進められ、基地の建設費用も当初の予算からどんどん膨れ上がり、工事の期間もどんどん延びていると聞きます。おまけにあろうことか、沖縄戦で亡くなった方々の遺骨が埋まっている土まで埋め立てに使おうとしています。これに投入されているのも税金です。
ある作家が新聞のネット版に寄稿した記事の言葉に私は共感を覚えました。そこにはこんな言葉がありました。
「家族の預金を勝手に全て賭けた父親がその賭けに勝ったとして、父さん凄い! と褒めるのは愚行。国民の命は賭けるものではない。」 (中村文則「【寄稿】五輪利権のため国民の命賭けた政府」『東京新聞ウェブ版』2021年7月28日、https://www.tokyo-np.co.jp/article/119747)
オリンピックでも沖縄の基地でもそうですが、投入されているのは私たちが政府に預けた税金です。それを勝手に賭け事に使っているような、本当に国民一人ひとりが報われるような使い方をしてくれていないのではないか。大きな疑問が私の心の中にはありますが、皆さんはいかがでしょうか。
▼日本基督教団の軍用機献納献金運動
しかし今日は、私たちが国に預けたお金を、国が勝手に自分たちの利権や戦争のために使うという話にとどまらないというお話をします。今日は日本基督教団の平和聖日ですが、この日本基督教団が積極的に献金を募って、旧日本軍に戦闘機を納めたことについての話です。
第二次世界大戦末期の1944年ですから、だいぶ日本にとっては形勢が不利になってきた頃です。
当時の日本基督教団は、こういう言葉で全国の教会や伝道所に献金を要請しました。
「苛烈なる中南太平洋空の決戦場に一刻も早く一機でも多く飛行機を送りて第一線の要請に応えんするは我等一億国民の決意に御座候」(『日本基督教団史資料集第2巻』p.250)。
この全国献金によって日本基督教団は4機の軍用機(少なくともその1つ「九九式艦上爆撃機」という機体の写真も残っていますが)を軍に献納して、それが実際に戦場を飛んでいたんですね。
その献金の報告書にも、「この度の比島沖の大戦果を思ふにつけ我等教団の捧げし日本基督教団機もその中に参加して猛威をふるってくれてゐることであろうと信じます」という文章や、信徒の方が投稿したであろう短歌には、「みをすてて 御国をまもる ますらおに など飛行機を ことかかすべき」というものもあったそうです(守田早生里「終戦から75年 キリスト教と戦争 日本基督教団 軍用機献納献金運動」『クリスチャン・プレス』2020年8月15日、https://christianpress.jp/after-75-2/ 参照)。
戦時中は、キリスト教は敵性宗教だとして監視されていましたし、ある牧師によれば、「礼拝出席者も激減した」と。「ただでさえ食料不足で栄養失調などで人が亡くなっていった時代に、これだけの献金をどのように集めたのか」と、そのようなインタビュー記事も読みました(同サイト参照)。
▼葛藤に追い込まれた時には
当時の教会にも、相当の苦しい葛藤があっただろうと思います。簡単に「そんなことをやった過去の教団はけしからん」と批判するのは簡単ですが、いざそのような状況に立たされたら、私たちだってどのように対応するか非常に悩み苦しむと思います。
当時のキリスト教会は、戦争に反対し、平和を主張する牧師や教会員がいるところは監視され、おおっぴらにそのような主張がなされていたわかったときは、憲兵なり警察に連れて行かれて暴行を受けていたという証言を直接聞いたこともあります。
ただでさえ「スパイではないか」という疑惑をかけられそうになることも多く、キリスト教会も存続してゆくためには、かえって他の国民よりも積極的に国家の政策に賛成して協力しているような態度を取る以外になかったということもあったと思います。
私が高校生の時に通っていた教会で、戦前から戦中、戦後とその教会を導いてきた年老いた牧師に、教会の戦争責任について高校生らしい率直な、しかし未熟な正義感で尋ねたところ、「あの頃はしかたなかったんです!」と大声で怒鳴られたこともあります。
ですから、いざ時代がそのような状況を迎えたら、私たちだって「教会をつぶすまい」、「命を奪われまい」と思ったら、国家に協力する可能性はあるでしょう。他の人よりも積極的に協力するかもしれません。
ですから、そのようなことにならないように、まだ戦争に直接関与することになる前から、しっかりと政府を監視し、主張すべきことは署名でも何でも主張し、投票できる者は投票行動でしっかりと私たちの意志を伝えなくてはいけません。
▼偽りの歴史を伝えるのではなく
今日、日本基督教団の過去のあやまちについて紹介したのは、実はかつて徳島のキリスト教伝道に大きな足跡を残した、チャールズ・A・ローガン宣教師の言葉を見つけたからです。
実は11月に日本キリスト教婦人矯風会徳島の100周年の記念講演をするようにご指名を受けまして、そのための下調べをしている中で、現在の日本キリスト教会徳島教会の前身を築き、35年間も徳島で奉仕されたローガン宣教師という方がおられることを知りました。
そして、徳島キリスト教センター創立20周年記念に出された『ローガン先生の人と信仰』という冊子の中で、ローガン先生が記したこんな言葉が紹介されています。
「人間の作る歴史は勝手なものであります。英国人の著者の書く英国の歴史には、その欠点として敵に負けたこと、罪に堕落したこと、他国民を残酷に取り扱うことなどは書いてありません。嘘だらけの歴史を国立の学校で教えます。これは英国のみならずどこの国でも同じで、これは例であります。フランスに生まれたフランス人は決してフランスの歴史を知りません。ドイツで生まれドイツで育てられた純粋のドイツ人はドイツの歴史を知りません。私ども人間は罪の深いもので嘘が好きで、我が国の本当のことを知る勇気がありません』(「詩篇の霊歌」下巻五〇ページ)(岡博『徳島キリスト教センター創立二十周年記念 ローガン先生の人と信仰』徳島キリスト教センター、1980、pp.19-20)。
まあ、ここでアメリカ出身のローガン先生が、「アメリカ人の書く歴史も嘘だらけだ」とまでは言わない所に、先生なりの配慮があったのかもしれませんが、とにかく自分の国がどんなに他の国民や民族をどんなに残酷に取り扱ったかということは、どこの国でも教えようとはしないというのは真実ですよね。
そしてローガン先生は、今日お読みした詩編78編を引用して、これはイスラエル民族が自分たちの悔い改めるべき歴史をまっすぐに見つめようとした歌であると注解しているそうです。
特に8節、「先祖のように頑なな反抗の世代とならないように。心が確かに定まらない世代。神に不忠実な霊の世代とならないように」という反省の言葉が記されています。
詩編というのは、イスラエル民族がいかに敵に苦しめられているかを嘆き、神に「敵を滅ぼして下さい」という願いを捧げる言葉が多く見られます。けれども、この78編はそうではなく、「自分たちの先祖は神に反抗していた。心が確かに定まっていなかった。神に不忠実な霊の世代であった」と告白しています。
その歴史を、「子孫に隠さず、後の世代に語り継ごう」(詩78.4)とも記しています。自分たちがどんな過ちを犯したかを、後からでもいいから、次の世代に伝えてゆかなくてはいけないと言っています。
▼偽りの愛国心ではなく
「自分は愛国者である」と主張する人たちが、過去の戦争で日本が行った残虐な行いを「そんなことは無かった」、「あんなことは無かった」と否定して回ります。そんなことをしても、痛めつけられた国の人は全く納得が行かないでしょうし、そんなことがお互いに理解し合ったり、平和を作り出したりすることにつながるとは到底思えません。
私たちは、自分の先祖たちが何をしてきたのか、あるいは国によってさせられてきたのかを、きちんと見つめ直さないといけないでしょう。
そして、いざという時に私たちもその過ちに加担しかねないことを、しっかりと胸に刻んでおかないといけないでしょう。そのような事にならないように、今からしっかりとしておかないといけません。
かつて軍用機を献納するために献金した人たちの中には、きっとやむを得ずだった人ばかりではなく、本気で喜んで参加した人もいたでしょう。それほどに当時の新聞などのメディアの力は大きかったと思います。
いまのオリンピックの報道のされ方は、ひょっとしたらそれに似てはいないでしょうか。アスリートたちの頑張りは尊いかもしれません。しかし、その華々しさを伝える映像の裏で、どんなどす黒い利権がらみの陰謀が隠されているか。どんなに生活困窮者が見捨てられているか。どんなにコロナの感染防止の対応がなされていないか。
そういう隠された事実があるはずだということを心に留めておかないと、私たちはあっという間に足元をすくわれて、騙されて、政府のエゴに協力させられてしまうことになるでしょう。オリンピックの報道は、そうやって国民がどれくらいマインドコントロールできるかを試す、いいテストになっていることでしょう。
私たちは、悪魔的なものに協力させられることのないように、心が確かに定まらず、神に不忠実だった世代の過ちもしっかりと見つめ、自戒を込めて伝えなければならないのではないでしょうか。
あとになって「あの時はしかたなかったです」と言わずに済むような世の中を守ってゆかねばならないのではないでしょうか。そのためには「偽りの愛国心」は捨てて、本当に国を愛するとはどういうことなのかを考えないといけません。
本日の説き明かしは以上といたします。