【混乱があって当たり前で一緒に生きてゆく】創世記3章1−7節

2021年8月22日(日)徳島北教会主日礼拝説き明かし

聖書の言葉……創世記3章1-7節(新約聖書:新共同訳 p.3-4、聖書協会共同訳 p.3)

善悪の知識の木

 おはようございます。

 今日は「混乱があって当たり前で一緒に生きてゆく」というタイトルでお話をしようとしていますが、最初は「善悪の知識がどんなに危ないか」というタイトルも考えていたんですよね。ですから「善悪の知識がどんなに危ないか」という副題があるんだよということでお聞きいただければありがたいなと思います。

 今日お読みした聖書の創世記3章1節からの箇所は、いわゆるキリスト教用語で言う所の「堕罪物語」というやつですね。「堕罪」すなわち「罪に堕ちる」、「堕落する」、人間が罪に堕ちるという場面です。

 神様との約束を破ってしまいますよね。この創世記の2章の16節で神様が「園の全ての木から取って食べなさい。ただし、善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう」と言います。それを人間たちは破ってしまうんですね。

 蛇はズルい問いかけをします。「神は本当に、園のどの木からも取って食べてはいけないと言ったのか?」と聞いてきます(創世記3.1)。女は(まだエバという名前はついてません。聖書には「女」とだけ書かれていますよね)「園の中央にある木は食べてはいけないんです」と言います(3.3)。

 神様は園の中央に、「命の木」と「善悪の知識の木」の2つを生えさせていた。でも「善悪の知識の木」からは取って食べたらあかんよと言っていたわけです。ところが、女は「園の中央にある木はどっちも食べんとこう」と自分に言い聞かせていたんですね。こういうの分かる気がしませんか? 私なんかこういうところあります。何がOKで何がNGかわからない場合は、両方ともNGにしとこう。そうすればややこしいことを考えなくて済むなという判断をしてしまうときがあります。女はそれをやったんですね。こういう発想は分かる気がします。

 続いて女は「取って食べてはいけないんです。触れてもいけないんです。死んではいけないからと言われました」と言います(3.3)。これもさっきと同じ発想ですよね。「触れてもいけない」とは神様は言ってません。けれども、もう近づかんほうがいいと思ったこの女は、「触れてもあかんことにしておこう」と考えて、近づかないようにしていたんですね。こうすることで余計なことを考えなくてもいいわけです。余計なことを考えるというコスト(時間と労力)を削減して、楽に生きる道を選んでいたわけで、これはこれなりにライフスタイルとしては間違っていないと言えるのではないかと思います。

 ところが蛇は言うんですね。「決して死ぬことはない。それを食べると目が開け、神のように善悪を知る者になれるんだぞ」と(3.4-5)。

 「決して死ぬことはない」と蛇は言います。そして、2人は食べてしまいます。実際食べた時は死にませんでしたよね。神様は嘘を言ってたのか。確かに食べた時に白雪姫の毒りんごみたいにすぐ死んだりはしなかったんですが、この善悪の知識を身に着けたことで、人間はさっそくこの男女の次の世代、カインとアベルの間で兄弟殺しを始めますよね。

 本来だったら一番仲が良くあってほしいはずの兄弟、一番身近な存在が、どっちが善いどっちが悪いという判断で相手に嫉妬して、相手の存在を否定しないと自分が肯定できないという心理に陥って、相手を殺してしまうということをやってしまっていますよね(創世記4.1-16)。

 そういう意味では、「善悪を知る者になることで、死を招くことになる。殺し合いに手を染めることになるんだよ」ということで、神様の言ったとおりになるわけです。

人を不幸にする発想

 「善悪を決めるということは神の領域の事柄なんだよ」ということが、この物語のメッセージですね。何が善いか、何が悪いか、それを決める絶対的な基準は人間は持っていない。人間にはそれを決めることはできない。それは人間の領分を超えている。何が善いことで何が悪いことなのかを、「あれかこれか」の二分法で決めること。それを決める権利を自分が持っていると思うことほど危険なことはないんですよということを、この物語は訴えているんですね。

 「善と悪を決める」というのは、「どちらかを承認し、どちらかを承認しない」という二者択一の発想です。片方を承認すれば、もう片方を承認しないことになるという二分法です。これが本当に良くないんですね。

 何か善で何が悪か。こういうことを絶対的に決めようとすると、ともすれば人間は「自分が善で他人は悪」という発想に陥りがちです。 あるいは「私が正しい。だからお前は間違っている」という思考法に陥る場合が多いです。世の中の争い、個々人の争い事、民族と民族、国と国の争いも須くそういう思考法で起こっているのではないでしょうか。

 だいたい自分が正しいと主張しないと、とんでもない損害を被ったり、下手をすると殺されかねなかったりするのが往々にして今の世の中の仕組みになっています。「私が善である」、「私が正しい」と言い続けないと負けてしまう。生きてゆけなくなっているわけです。

 あるいはこの思考法は、「私は善ではない」、「私は間違っているのだろう」と、自己否定の方向に自分を落とし込んでゆく可能性も持っています。実際、最初の女性と男性が善悪の知識の実を食べて最初にしたことが、自分が裸であることに気づいて体を隠すことだったと書かれていることはとても示唆的ではないかと思います。

 2人が善悪を判断する知恵を手に入れた瞬間やったことは、自分のあるがままの姿を否定することだったんですね。自分をあるがままで受け容れられなくなった。自分を裁くことから始めてしまったんですね。

 そうやって私達は、他人を裁くことで自己肯定したり、自分をも裁くことで、自らを生きづらいところへと追い込んでしまうこともあるわけです。

 あの人間は善い。この人間は善くない。あるいは、自分の感情や行動は善いのか、悪いのか。そういう二者択一の発想が人間を互いに争わせ、優越感と劣等感の間で人の精神を不安定にさせ、人間を不幸にしているんじゃないかと思うのですが、いかがでしょうか。

善悪の判断が人の命を奪う

 つい先ごろ、8月7日のことですが、ある有名なYouTuberが、「ホームレスの命はどうでもいい」、「ホームレスは生きていても意味がない」、「消えてしまえばいい」、「生活保護を受ける人のために税金を納めているわけではない」といった発言を繰り返す動画を放映し、大問題になりました。大変人気のあるYouTuberの方だったようですが、さすがに批判が殺到し、あわてて謝罪の動画も出しましたが、反響は収まっていません。

 この人はこの反響に驚いたのか、北九州で生活困窮者の支援をしているNPO法人「抱樸」の理事長で、東八幡キリスト教会牧師の奥田知志さんとコンタクトを取ったそうで、奥田先生が「抱樸」のサイトに出された文章によれば、この人に根本から生活困窮者の現状と社会の問題について学び直してもらうとおっしゃっておられます。

 けれども、このYouTuberがこのような発言をするのは、そういう発言をすれば支持してくれる人もたくさんいるだろうと踏んでいるからでしょうし、どこかで「ホームレスなんか消えてなくなればいい」、「あいつらのために税金を払っているわけじゃないんだ」と本音では思っている人も視聴者の中にはじっさい結構たくさんいるということではないかと思います。

 このYouTuber、そして彼を支持する人びとの、その根本的な間違いは、富の再分配ということが全くわかってないということがひとつ。そしてもうひとつは、今日のこの説き明かしのお話に関連して言うと、人の存在の意味、命の価値を、自分が選別したり判断できると思っているところではないかと思います。

 自分の存在は肯定できる。自分がお気に入りの存在も肯定する。その存在は言うなれば善である。しかし、自分がお気に入りでない存在には意味がない。そんな存在の命はどうだっていい。むしろ死んでもらっても一向にかまわない。それらの存在は言うなれば悪である。そういう判断が自分にはできると思っているところに大きな罪があると思うんですね。

 そして、どんな人間の存在が善で、どんな人間の存在が悪であるかを判断するというのは、人の生死を左右するような話になってくるわけです。たとえばあのYouTuberの発言で、「やっぱりホームレスは死んでもいいような存在なんだ」という本音を後押しされて、ホームレスに暴力を振るったり、殺したりする人が増えることが考えられます。人の存在に優劣があるという発想を広げることが、人の命を奪うことにつながるわけです。

人の命を奪う発想がもてはやされる時代

 これはホームレスに限った話ではありません。コロナ禍においても「命の選別」ということが普通に話題に上がるようになりました。

 昨年には、イタリアの70代の親父が若者に人工呼吸器を譲って死んだというニュースが美談のように流されて、これが実はフェイクだったということが後からわかったということもありました。これも、事実の報道ということではなくて、「高齢者の命は軽いのだ」というメッセージが意図的にマスコミによって流されている例です。

 「トリアージ」という言葉がよく聞かれるようになりましたが、この言葉が本来の意味を離れて、「生きてもいい命と生きなくてもいい命を選別する」という間違った意味で使う人がいます。「トリアージ」というのは、本来は「重症の患者から優先的に診る」という選別の基準だったはずなんですね。「早く手当をしなければ助からない。それは患者の年齢や身分などに関係ない」というのが本来の意味です。

 それが、いつの間にか「生きる価値がある命は生かして、生きる価値のない命は見捨てる選別」という方向でこの言葉を使う人が出てきた。「若者はこれからがあるから生かしていかないといけないが、年寄りはもう先が短いから死なせてもよい」という発想につながったり、「国会議員などの地位のある人は優先的に検査を受けたり、入院もできるし、治療を受けたりもできるけれども、庶民は自宅療養で苦しんでいてください」という現実に如実に顕れてきています。

 善悪の判断を人間がするというのは、突き詰めればそのように人の存在や命の重さを人が判断するというとんでもない状況へと人間を追い詰めてゆくことにつながる。それが「罪」なんだと、聖書の言葉は洞察しているわけなんですね。

善悪の知識を捨てる訓練

 私達は聖書を読み、教会に生きる者として、このような罪の状況に対して、どのように向き合ってゆくべきなんでしょうか。

 私は、少なくとも人間に対して「誰が善であり、誰が悪なのか」、「私は善なのか、悪なのか」といった発想は捨てないといけないというということ。「誰が善で、誰が善ではない。何が善であり、何が善ではないという判断はしない」。この姿勢は徹底していなければいけないのではないかと思います。

 私達はそのためのトレーニング、エクササイズを毎週やっていると思うんです。私達は礼拝の中の分かち合いにおいても、あるいは「こころの会」においても、互いに相手の言ったことを絶対に裁きません。ただ耳を傾け合い、自分とは違う人の言葉に触発された自分の思いを話し、お互いに自分の中に起こる変化に気づいてゆき、その変化を味わっています。

 それは、多少大げさかもしれませんが、自分も大事、人も大事、決して互いの存在、ひいてはお互いの命を決して否定しないということを表していると思っています。

I’m OK, You’re OK.

 私が神学生時代にある牧師から教えてもらったことに「I’m OK, You’re OK」という言葉があります。どうということのない簡単な言葉ですが、この言葉の精神が結構大事だと思うんですね。「私もオーケー、あなたもオーケー」。

 もちろん、そうやって互いの違いをそのままに受け入れ合うということは、時として混乱を招いたり、忍耐を要求されたり、葛藤を生むこともあると思います。

 それでもその混乱や忍耐や葛藤をできる限り引き受けてゆくということも、私達には必要なことなんじゃないかと思うんですね。混乱や忍耐や葛藤を抱えながら、一緒に生きてゆくというのが教会というものではないでしょうか。

 「そういうことでは何でもありになってしまう。それではいけないのだ」と、ことさらに「一致」ということを求める教会、そういう風に言う牧師も広いキリスト教会の中には一定数います。

 けれども、私は一致することがキリスト教会の第一目的だとは思わないんです。一致することよりも「一致できない者が一緒にいる」ということの方がはるかに大事です。そもそも人間がお互いに完全に一致できるというのは幻想じゃないでしょうか。

 けれども、お互いに違いすぎるほどの人間が、お互いを受け入れ合い、そういうことを通して自分をも受け入れて生きてゆくためのトレーニングを教会では毎週やっていると思うんですね。

 私達はそういった、誰に対しても「I’m OK. You’re OK. だからどうぞここにいらっしゃい。ここなら誰もあなたの善悪を裁きません。あなたのありのままを開いて下さって大丈夫ですよ」と呼びかけることのできる教会でありたいと思うんです。

 そして、私達の礼拝では、締めくくりに「派遣」というプログラムがあり、それによって、それが教会から派遣されてこの世に送り出されてゆくわけですが、それはこの教会で養われた、この「I’m OK, You’re OK」の精神を、送り出されていったこの世においても発揮してゆく。そうすることで、「誰もが生きるに値する」と思える世の中を作るために、自分にできることをする。それが私達の奉仕になり、証になるのではないでしょうか。

 善悪の知識をあえて捨てる。人の存在や命を、善か悪かでは決して判断しない。それが誰をも切り捨てない世の中を作ることにつながってゆく。そうすることによって私達は世に仕えてゆくことができる。そんな姿勢で生きてゆきたいというのが、私の願いです。

 皆様はいかにお考えになりますでしょうか。

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