【苦しい時の神頼みでええじゃないか】マタイによる福音書6章5−6節

2021年8月15日(日)徳島北教会主日礼拝説き明かし

▼聖書の言葉……マタイによる福音書6章5-6節(新約聖書:新共同訳 p.9、聖書協会共同訳 p.9)


▼祈りの時間、場所、姿勢

 おはようございます。今日は「祈り」についてのお話をしようと思います。祈りと言っても、一人で祈りを献げる場合もあれば、教会などで他の人と一緒に祈ったりする場合もあるわけですが、今日は祈りでする祈りについてお話してみたいと思います。

 みなさん、普段から神様にお祈りを捧げていますか? 毎朝お祈りをするとか、寝る前にお祈りをするとか。定期的にお祈りをする習慣にしている方もおられるのではないかと思います。それはすごく大切なこと、良いことですよね。

 毎日決めた時間に祈る人というのは、たとえば朝のウォーキングとか筋トレやスイミングのように、良い習慣を身につけている人のようですね。祈りというのは、信仰のエクササイズのようなものだと思います。

 じゃあ私自身はどうしているかといいますとですね、私は実はそういう規則正しいことをするのが得意な方ではありません。ウォーキングも筋トレもエクササイズも苦手な方です。どちらかというと、「はっ、祈ろう」と思ったときに祈るタイプです。

 ですから、寝そべっている時とか、車を運転しているときとか、列車に乗っている時とか、歩いている時、あるいはぼーっとしている時などに、「はっ、あの人のために祈ろう」と思って突然祈る、ということが多いんですね。

 こんなんでいいのだろうか? と思ってですね、分厚いキリスト教関係の辞典などで「祈り」といった項目を調べてみたりするとですね、「あらゆる時間が祈りの時となり得る」(いのちのことば社『新キリスト教辞典』1991、p.67)と書いてあったり、場所については「庭でも、客間でも、寝室でも、道でも、森の中でも、ショーウィンドーの前でも」(同上)と書いてありますし、祈りの姿勢についても「歩きながらでも、寝たままでも、どんな姿勢でも祈ることはできるし、祈ることが勧められている」(同上)ともあったりするんですね。

 ですから、私のような「無手勝流」と言いますか、そういう型にはまらない、寝込んでても、運転しながらでも「神様~」と祈るのも、これはこれでええんとちゃうかと改めて思ったりしました。

▼人に見られていても

 今日の聖書の箇所には、「偽善者たちは、人に見てもらおうと、会堂や大通りの角に立って祈りたがる」と書いてありましたね(マタイ6.5)。こういう聖書の箇所を読むと、牧師などはドキッとしてしまう人もいるんじゃないかと思うんですね。

 だいたい牧師というのは、人前で祈ることが多いでしょう? 教会ではもちろんのこと、私の場合は職場もキリスト教の学校なので、もう毎日にように人前で祈るんですね。そうなると、人が自分の祈りを聞いている。自分の祈っている様子を見ているということを意識しないわけにはいきません。学校なんて「目を閉じてください」といちいち言いますけれども、それでもどうせ多くの生徒さんは目なんか閉じてないですから、自分の祈る姿を見ている人も結構いるんですね。

 そうなると、今日の聖書の箇所のように「人に見てもらおうとして」目立つところで祈っているというのは、俺のことじゃないかと、ちょっと心に引っかかったりしないわけではないです。だから、まあ「人に見せるためにするような祈り方はなるべくやめとこう」と思うんですね。

 けれども、それ以上あまりこの聖書の言葉を読んで自分のことを恥じたり、葛藤を覚えたりということはありません。それはなぜかと言うと、私は祈りが下手だからです。

▼下手くそな祈り

 私は人前で、人にほめてもらえるような立派な言葉がすらすら出てくる人間ではありません。世の中の牧師の中には、本当に上手に、説教も原稿なし、祈りも原稿なしで、それこそ「聖霊が降りてきました」と言わんばかりに見事な言葉がスラスラと出てくる人がいます。けれども、私にはそういう賜物はありません。そういう聴き応えのあるような言葉がサッとアドリブでは出てこないんです。

 だから、私はたとえばこうしてお話している説き明かしの原稿などは、できるかぎり完全原稿を書きます。アドリブというのは、たまーにはありますけれども、あまりありません。けれども、お祈りだけはアドリブでやります。

 いや、実は完全に全てのお祈りをアドリブでやるわけではありません。実は、学校の教員会議の始まりの時のお祈りだけは原稿を書いています。これは、なぜでしょうかね。学校の先生達の前では、何か間違ったことができない、細かい不手際も許されないという緊張が強いからでしょうか。1分間くらいの短い祈りでもスマホに原稿を書いていて、それを見ながらお祈りしています。

 それ以外のお祈りは、個人の祈りはもちろんですが、教会のようなオープンな場でのお祈りは全部アドリブです。説き明かしは原稿がありますけれども、祈りには原稿がありません。アドリブが下手くそな人間がいきなり「祈りましょう」と言って、頭が真っ白なところから始めます。

 ですから、そんなに格好のいい言葉がスラスラで出てきません。むしろいい言葉が見つからなくて、困りながら祈っています。皆さんも私が祈るのを聞きながら、「ああ、富田さん言葉が見つからなくって困っているな」とか「あんまり上手じゃないなあ」と感じることもあるんじゃないかと思います。

 けれども、実は私はそれが自分のいいところじゃないかと、ちょっと思っているところもありまして。それはなぜかというと、余裕のないギリギリのところでやっているので、飾ることができないというか、嘘が言えないんですね。かっこいい言葉が言えません。本心しか言えません。

 新約聖書のローマの信徒への手紙には、「私たちはどう祈るべきかを知りませんが、霊自らが、言葉に表せない呻きをもって執り成してくださるからです」と書いてありますので(ローマ8.26)、そんな上手な言葉でなくていいと。だから、言葉を飾る余裕もない状態で、できることをせいいっぱいやってます。

 私のアドリブの祈りは本当に行きあたりばったりの、ボキャブラリー貧困な祈りなのですが、「こんな祈りでもいいんですよ」と。「神は言葉にならない思いまで、ちゃんと執り成してくださるんですからね」と、逆に私は人に見てもらいたいような気持ちでやっています。もちろん自分が安心できると思う人の前でだけですけどね。

 言葉の無さは恥ずかしいのですが、嘘のない真剣な祈りであるということだけは自信を持っているので、あまり人前で祈るということが嫌ではないわけです。「下手の横好き」というやつですね。

 もっとも、「それは違う。たとえ小さな祈りであっても前もってしっかりと準備しなければ、神様にも人様にも失礼だ」というご意見もあろうかとは思うので、私の考え方が絶対だとは申しませんけれども、まあこれが私流のやり方というわけです。

▼たった独りの裸の祈り

 ところがですね。今日の聖書の箇所には、こう書いてあります。

 「あなたが祈るときは、奥まった自分の部屋に入って戸を閉め、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい」と(マタイ6.6)。

 この「奥まった部屋」という言葉は、もともと「執事」とか「管理人」という意味の言葉から作られた言葉らしいんですね。執事とか管理人というのは、主人のお金を保管したり管理したりするので、建物の一番奥の安全なところに部屋を作ると。それで、これは建物中の一番奥まった部屋を意味しているんですね。

  まあ自分の家に自分個人の部屋がない人もいるかもしれませんけれども、この聖句は「奥まった自分の部屋」じゃなくて、「自分の一番奥まった部屋」と読めるんです。だからまあ住んでいる所の中に「自分の部屋」がない人でも、「自分の家の中の一番奥まった部屋」であればいいわけで、それはひょっとしたらトイレでもいいわけです。要は、「他の誰にも見られていない、自分独りだけになれる空間で祈りなさい」ということですね。他の人に一切見聞きされないところで祈りなさいということです。

 なぜそこまでして、独りの祈り、孤独な祈りが大事とされるのでしょうか。

 それはおそらく、誰にも見聞きされていない所で、完全に独りになって祈る祈りが、一番その人の正直な姿が出るところだからでしょうね。その人の本当の姿、本心、本音が出る。

 たとえ、口先で言葉を飾っても、あるいは人のためにちょっとはいいことをお願いするべきかなと思って本心とは違うことを祈ってみたりしても、「言葉にならない呻き」まで神様はご存知なんですから、意味がないわけです。

 そういうのが偽善というものなんでしょうね。独りぼっちの祈りには偽善というものが意味を持ちません。神様の前には裸の心しかありません。全部見抜かれているんです。自分という1人の人間の真実が神様の前に明らかにされる瞬間です。

 では、その自分という1人の人間の嘘も隠し事もない所で、私達は何を祈るのでしょうか。

▼一人称単数形の祈り

 何を祈るのか。もちろんそれは人それぞれ自由に何でも神様に話しかければいいんです。

 これについても辞典で調べてみると、祈りにはこんな風に内容的に種類があるそうです。

 例えば、まず賛美の祈り(神様の素晴らしさを賛美する、称える祈りですね)。それから感謝の祈り、罪の告白の祈り(ありのままの自分の問題を告白し、赦しを願う祈りですね)。それから願いの祈り、そして執り成しの祈り(つまり、自分のためにではなく他の人のために神様にお願いをする)。最後に導きを求める祈り(何かの決断を迫られた時に、神様のみ心に添う選択ができますようにとお願いするのが、この祈りですね)(前出『新キリスト教辞典』p.67)。まあ、あえて分類すればこんな風に色々ありますということでしょう。

 先程私は教会でお祈りするのは好きです、と言いましたけれども、教会でするお祈りというのは、圧倒的に他の人のためのお祈りが多いんですね。それは、今さっき紹介した中で言うと、「とりなしの祈り」です。

 あるいは一人称でも複数形の祈りですね、「私達」と。一人称複数形か三人称の祈りばかりで、一人称単数形の祈り、つまり「私は」「私に」「私を」という祈りは、教会のような集まりで祈ることは基本的にはありません。これは牧師でなくても、人が集まっている所で代表して祈る場合は、皆んなそうだと思います。

 これがですね。実は私の場合、かなりおろそかになってしまいがちなんですね。教会で人のためにお祈りをするのは好きなんですよ。でも、実は案外自分のことになると、祈りがおろそかになります。「まあ自分はいいかな」とかね、「自分のことは今のところなんとかなっているし、このままなんとかなるだろう」なんて、いい加減に考えてしまったりすることがよくあるんです。

 そして、時折、急にあることについて心配事に取り憑かれて極度の不安に悩まされたり、突然恐怖に叩き落されるような事件が起きたり、希望を見失ってすっかり落ち込んでしまったり、もうほとほと弱ってしまって自分は死んでしまった方がいいんじゃないかと落ち込んでしまったりする時も、ないわけではありません。そういう時、祈らずにはおれない気持ちになって、急に自分のために色々とお願い事をしてしまったりします。

 こういうのを、いわゆる「苦しい時の神頼み」と言うんですよね。

▼どこでも、何度でも、ダラダラと

 けれども、「祈らずにはおれない!」という思い、否が応でも「私を助けてください」という祈りですから、カッコをつけたり言葉を飾ったりしている余裕はありません。素っ裸の心で祈るしか無いわけです。これ以上の真実の祈りはありません。

 必死に「助けてください」と祈る。しかし、1回簡単に祈ったからといって、すぐに自分の恐怖や不安が簡単に去るわけではないので、「まだあかん」と思う度にまた祈る。とにかく何度も真剣に祈る。

 祈っているうちに、実は何も問題は解決していないのだけれども、自分のために必死に祈るということ自体によって、心がほんの少しずつ、少しずつだけれども安定してきます。

 そして冷静に問題に対処しようという落ち着きが、これも少しずつ生まれてくる。恐怖と不安が次第に引いていく。というより、不安が去るまで、何度も祈るということが大事なのかなと思います。

 そして、アドラー心理学みたいな話ですが、自分を苦しめている出来事や状況、現象そのものと、それに悩まされている自分の心とは別のものだと気づいていくようになってきます。

 確かに自分にとってつらい出来事や状況というのはあるわけですが、それに不安を感じたり、恐怖を感じたり、失望したりしているのは自分の感情の問題であると。

 私には感情があるけれども、出来事は出来事に過ぎないのであって、出来事自体には感情がない。ある感情を持つのは、自分の主観の問題に過ぎないということに、だんだんと祈りの中で自分の感情に向き合い、見つめてゆく中で気付かされてゆきます。

 ただ、それは誰かに話してみるということで初めてまとまってくるものではないかと思うのですね。誰かに離してみないと自分の心は整理できない。けれども「誰にも話せない!」ということもあります。

 ですから、その時には、たった独りになれる場所で、トイレでも、山の中でも、海岸でもいいから、独りになって神様に話しかける。ダラダラとでいいから、何度でもいいから話しかけるわけです。

 それは神様と自分だけの秘密です。しかし、「秘密を誰かと共有する」ということはとても大切なことです。人間の誰にも話すことがはばかられることは、神様に打ち明けたらいいのだと思います。

 そういうことを何度もやることで、次第に心に平安を与えられるということはあるのではないかと、私は体験的に思います。もちろん個人差はありますけどね。

 「苦しい時の神頼み」でええじゃないかと。遠慮なく、誰も見ていないところで、「私を助けてください! 私を助けてください!」と祈りましょう。

▼苦しい時の神頼み

 さて、そうやって不安や恐怖が一旦去ってしまうと、怠け者の私は、すぐ祈ることを忘れてしまうのです。特に「自分のことをどうにかしてください」というのは忘れます。「喉元過ぎれば熱さを忘れる」というやつですね。

 でも、「便りがないのが良い便り」という言葉もあります。神様だってそう思ってくださっているのではないだろうかと。「あいつ、最近わしに『助けてください!』ってすがりついてこんけど、どうやら調子よくやってるみたいやな」と思ってくださっているでしょう。

 そしてまた、本当に困ってしまった時には、やっぱり祈るのです。

 自分が本当に困ってしまった時、途方に暮れた時、他にすがる人もいない時、祈る相手さえもいないというのは、本当につらいことです。

 だから、「苦しい時の神頼み」ができるということは、とても幸せなこと、ありがたいことです。どうぞ皆さん「苦しい時の神頼み」をしてください。