2021年9月19日(日)徳島北教会主日礼拝説き明かし
ローマの信徒への手紙12章1-2節(新約聖書:新共同訳 p.291、聖書協会共同訳 p.286)
聖書の言葉(新共同訳)
こういうわけで、兄弟たち、神の憐れみによってあなたがたに勧めます。自分の体を神に喜ばれる聖なるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です。
あなたがたはこの世に倣ってはいけません。むしろ、心を新たにして自分を変えていただき、何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようになりなさい。
月曜から土曜まで
おはようございます。今日もこうしてそれぞれの場所に散らばってではありますけれども、礼拝ができることを感謝しています。こうして御顔を見ることができるのはありがたいことです。
今日はパウロによるローマの信徒への手紙から聖書をお読みしました。ここでパウロは私達に、私達が月曜日から土曜日の1週間の間、どのような生き方をするべきなのかを勧めてくれています。
ある意味それは、この世に流されない、きっぱりとした生き方と言えます。流されないということは難しいことかも知れません。けれども、それは私達が自分の心を守り、自分以外の人を守るために大切な態度でもあると思います。
生ける供え物
今日お読みした聖書の箇所を、もう一度読み直してみましょう。
「こういうわけで、兄弟たち」(ローマ12.1)とありますが、この「きょうだい」というのは、同じ教会の仲間への呼びかけなので、「兄弟姉妹」と読み替えてもいいかもしれません。新しい聖書協会共同訳ではここがひらかなの「きょうだい」になっています。なので、ここは「教会の仲間たちよ」「兄弟姉妹よ」という意味に読めばいいでしょう。
続いて、こう書いてあります。「神の憐れみによってあなたがたに勧めます。自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。」
ここで「いけにえ」というのは、元々はユダヤ教の神殿で献げられる動物のことなのですが、それは当然祭壇に上げられるときには、殺されて死体として献げられているわけですよね。ところが、そうではなく、ここでは「生けるいけにえ」と言われています。
「自分の体を生けるいけにえとして献げなさい」というのは、もちろん自分が神殿の祭壇の上にのぼれと言っているのではなく、あくまでたとえですよね。
少し前の口語訳聖書(新共同訳より前、私の生まれる10年ほど前に出た日本語訳ですけれども)では、ここは「生きた、聖なる供え物」という言葉になっています。こっちの方が私達には馴染みやすいかもしれませんね。「生きた供え物」。
実はこの言葉は、私達の教会の聖餐式の式文の中でも使われておりまして、みんなでパンとぶどうジュースをいただいたあと、最後の第3の祈りの中に出てきます。
ちょっとそのあたりを一部抜粋して読んでみますね……。
「恵み深い神さま。豊かないつくしみをもって、イエスの食卓にわたしたちを招き、聖霊の助けによって聖餐にあずからせ、イエスの命を与えて下さいましたことを心から感謝いたします。
これに応えて私たちは、欠けも弱さも多い者ではありますが、あなたがそれを赦してくださると信じ、あなたが喜んでくださることを信じて、自らを生きた供え物として、み前に献げたいと望みます。」
……というわけで、「私達は色々と欠点も弱点もありますが、そんな私達も自分を生きた供え物として、神様に献げます」という祈りを献げているんですね。
これは、礼拝の最後に行われる「派遣」とも関連があって、「欠点や弱点も色々あるけれど、こんな私でもこの世に派遣してください。私はあなたに私自身を供え物にします」ということになります。
理に適った礼拝
そして、これに続いて、「これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です」と書いてありますが、この「なすべき礼拝」というのはよく意味がわからない翻訳になっていまして、ここは本来は「理に適った礼拝」となります。「これこそ、あなたがたの理に適った礼拝です」という訳し方になります。
何が理に適った礼拝なのかというと、それは先程も言いました神殿での動物の血にまみれた儀式ですね。ああいうおどろおどろしい血と脂とそれを焼く匂いにまみれたドロドロの儀式ではなくて、もっと理性的な礼拝ですよということなんですね。
そして、先程から申し上げていることとつないで読むと、「あなた自身を生きた供え物として献げること。それが理に適った/理性的な礼拝です」ということになります。
つまり、私たちの普段の生活がそのまま礼拝なんだと言っているんですね。日々を生きること、すなわち人生のすべてが礼拝になるのだということです。
世に倣ってはいけません
続いてパウロはこのように述べています。「あなたがたはこの世に倣ってはいけません。」直訳だと、「自分自身をこの世に合わせて形作ってはいけません」となります。
そして、こう続きます。「むしろ、心を新たにして自分を変えていただき」。
この「自分を変えていただき」というのは、ここでは受身形で「変えていただく」になっていますけれども、ここが受身形かどうかというのは実は説が分かれていまして、「自分を変える」という風に能動態で訳す説もあるようです。自分を神様に変えていただく、あるいは自分で自分を変える。どちらにも受け取れる言葉だということです。
そして、「何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようになりなさい」と続きます。
証を立てる?
……さてと、ここまで聖書の言葉を読んで、私はなんだかこのままでは疲れてしまうな、と思いました。
字面通りに読むと、心を入れ替えて、この世の月曜から土曜までの生活の中で、まるで世の中の人たちと違う、神様に喜ばれるような立派で完全な生活をしなさいと言われているような気がします。
私が高校生のころに通っていた教会では、こういう気合の入った「おすすめ」のようなものが、声高に教えられていました。たとえば「この世に対して証を立てなさい」というように言われていました。
この世の人々に対して、自分がキリスト者であることで、こんなに人とは違う生き方をしているのだと誇れるような、立派な生き方をしなさい。それが「証を立てる」ということだというように教えられました。
また、他の教会のクリスチャンたちとの交流の中で、若いクリスチャンたちが、やたらと「この世的」という言葉を使うのを聞いてもいました。「そういう考え方はこの世的だよ」とか「この世的なものに流されてはいけないよ」とか。
私は、そういう教えや言葉に2つの相反する感情を持っていました。
1つは、「よし、自分もこの世で立派な証を立てられるように頑張ろう」、「世の中の人に『ああ、やっぱりクリスチャンというのは、ひと味違う人だな』と尊敬されるようにならないとな」と気負う気持ち。
もう1つは、どこかでそういう「この世で証を立てる」ということに嘘くさいものを感じる気持ちです。いや、というより、そのような生き方をしようとする自分自身に嘘くささを感じると言ったほうが当たっているように思います。
私はそんなに立派な人間でもないし、いつもいつも「私はクリスチャンですから、いつも喜んでいます! ハレルヤ! アーメン!」と言っていられる人間ではありません。
アーメン、ハレルヤ
もちろん、そのようにいつも「アーメン、ハレルヤ」と喜んで生きていられる人のことを頭ごなしに否定するわけではありません。そういう心持ちで毎日を生きられる人はむしろ羨ましいです。
けれども、そのように喜んで生きている人、「この世的なもの」を拒否して生きる人が、本当にこの世に対して良い証を立てていることになっているのだろうかと疑問に思うこともあります。
ある意味、信念を持って立派に生きているようであっても、自分の周りの人に共感的ではなかったり、どこか上から目線で見下していたり、あるいは信仰的には熱心でも、人のことを傷つけたり、人の尊厳を踏みにじっていても、人権を侵害していても平気で、そういう自分に全く気づかない。
あるいは、あろうことか、自分の至らなさを聖書で理由づけしたり、あるいは神が赦しているから問題ないのだと開き直ったりする人もいます。
そして逆に、信仰がなく、洗礼も受けていない人でも、寛容で、愛に満ち溢れていて、気遣いが細やかで、人格的に素晴らしいと思わずにはおれない人もたくさんいます。そして、多くの人は問題の多いクリスチャンよりも、立派なノンクリスチャンの方により魅力を感じて寄り集まってゆきます。
そうすると、クリスチャンであるということは何の意味があるのか。クリスチャンになってどんないいことがあるのか、と疑問を抱かざるを得ないような気分になることもあります。
私達は何のためにクリスチャンになるのでしょうか?
この世に倣わなくていい
そんな疑問を持つなかで私は、「クリスチャンになり、この世に倣わない生き方をするというのは、この世に対して自分が立派な人間になるように見せつけるとか、ちょっと人とはひと味違う人間として評価されるという意味ではないのではないか」と思うようになりました。
むしろ、今日の聖書の箇所の「世に倣ってはなりません」という言葉は、この世のあり方についてゆけない人が、この世に合わせて自分を装ったり、飾ったりして、自分ではないような自分を作り上げるようなことはしなくもいいんだよ、という風に読んでいいのではないかと思うんです。
この世のあり方というのは、基本的には弱肉強食です。皆んなが自分は弱くない、自分は有能だ、向上心がある、成功を目指している人間の一人なのだと、自分の強さを誇ろうとする人に満ちている、そんな有様です。
そして、弱さ、悩み、嘆き、苦しみ、劣等感、失敗、敗北など。自分の人生のマイナスの部分を人前で認めることができない。そのような自分を開示することは、この世においては認めてはならないことで、恐ろしいことだという思いにとらわれてしまう。それが「この世的」ということではないでしょうか。
でも、「世に倣わない」ということは、「あなたはそんなこの世に合わせた自分を取り繕わなくて良いんだよ。ここでは、あなたがこの世に合わせて作った、自分に似合わない服、あるいはそれは鎧かもしれない。そんなものを着ている必要はないんだよ。もうこの世に倣う必要はない。自由になりなさい」と、呼びかけられているのではないかと思うのですが、いかがでしょうか。
本来の姿に作り変えられる
一体、何が善いことで、何が神に喜ばれることでしょうか。
これは聖書の人間観の基本中の基本ですが、聖書の一番始め、旧約聖書の創世記の天地創造の物語に、こう書いてあります。「神はお造りになったすべてのものを御覧になった。見よ、それは極めて良かった。」(創世記1.31)。
神は地上のあらゆる存在を造った最後に人間を造りました。「それは極めて良かった」と神は言いました。人間は、最初から神の目から見て「極めて良い」者として造られている。もともと人間というのは良い存在なんです。
だから、自分は良い存在なのだということを信じて生きることが、神のいちばん喜ばれることに違いない。それは当たり前のことではないでしょうか……。
だから、自分はこの世に倣う必要はない。もし、この世に倣って必死に自分を作り込んでいたとしたら、そんな自分を一新して、本来の姿に作り直していただきなさい。そういうことだと思います。
心を一新して自分を作り直していただこう
更に今日の聖書の箇所には「何が完全であるかをわきまえるようにしなさい」とあります。
「完全である」とはなんでしょうか。
聖書において「完全」というのは、「全体的な」とか「満たされた」という意味があります。余分なものや欠点と思われる部分を削ぎ落として、理想的な美しい姿を作り上げるという「完璧さ」とは違います。あれこれ色々な要素全てを含んだ大きな自分であることが、神に喜ばれる「完全さ」なんですね。
「この世的」な価値観で判断すれば、自分の中でこれは要らないのではないかと思われるもの。これは自分の欠点でないかと思われるもの。たくさんあると思います。
あるいは、この世の中で生きるために、私達は自分の本来やりたくないことをやらずにおくわけにはいかず、不本意な生き方をしているのかもしれない。
そうやって、私たちはこの世に合わせる生き方をしています。
けれども、私達はこの世のあり方に異を唱えないといけないこともあるのではないでしょうか。クリスチャンとして生きることは、この世の多くの人たちよりも立派で、道徳的で、能力的にも優れた人間でなければならないという意味ではないのです。
むしろ、この世の価値観ではこぼれ落ちてゆくような、弱さ、小ささ、欠け、そして罪を抱えている人間をそのままに受け止め、疲れている人の重荷を下ろせるような教会でありたい。「疲れている者は来なさい。休ませてあげよう」と言うイエス様と一緒に生きよう、ということではないでしょうか。
「心を一新して本来のあなたに作り直してもらいなさい。」あるいは「自分で自分を作り直しなさい。そうすれば、神様はその本来のあなたを喜んでくださるはずですよと」と、そのように私は受け止めたいです。
私達はこの世に異を唱えます。それは、私達に本来のあり方を許さないこの世のあり方、価値観に対する抵抗です。
それは大切な抵抗です。私達は私達自身を守らないといけないからです。また、この世でその人の本来の姿や生き方を守られていない人に重荷を下ろしてもらえるような教会でありたいと思いませんか。
そういう意味で、「この世に倣わない生き方」を私達はするべきなのてはないでしょうか。
祈り
祈りましょう。
神様。私たちひとりひとりを御心のままにお造りくださったことを、心から感謝いたします。この世は私たちに強さ、速さを求め、成功するための力を持つことを迫って来ます。
しかし、私たちの間には色々な個性、考え方、生き方をする者がおり、またさまざまな状況に置かれた者がおります。あなたがそのように、私たちを多様な者として造ってくださいました。
あなたが造られた人間に、何ひとつ無駄なものはありません。あなたがありのままの私たちを愛し、守ってくださいますように、お願いをいたします。
この1週間を勇気を持って歩むべく、あなたの御心をもってこの世に私たちを送り出してください。
神さまは言われます。「平和のうちにこの世へと出てゆきなさい。わたしはあなたがたを世に遣わす。」アーメン。