【裏切り者の食卓】ルカによる福音書22章31−34節

2021年10月3日(日)徳島北教会世界聖餐日礼拝説き明かし

ルカによる福音書22章31−34節(新約聖書:新共同訳 p.154-155、聖書協会共同訳 p.152)

 聖書の言葉(新共同訳)

 「シモン、シモン、サタンはあなたがたを、小麦のようにふるいにかけることを神に願って聞き入れられた。しかし、わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」

 するとシモンは、「主よ、ご一緒になら、牢に入っても死んでもよいと覚悟しております」と言った。

 イエスは言われた。「ペトロ、言っておくが、あなたは今日、鶏が鳴くまでに、三度わたしを知らないと言うだろう。」

裏切りの予告

 聖餐は裏切り者の食卓です。

 主の晩餐は裏切り者どもがイエスのパンと杯を受け取る食事でした。

 今日の聖書の箇所はイエス様が「最後の晩餐」(いわゆる「主の晩餐」)の、その食事の場で、パンと杯をご自分の体と血になぞらえた、聖餐のもとになった出来事に続いて起こった会話で、イエス様が弟子たちの裏切りを予告する場面です。

 と言っても、この場面は4つの福音書全部に載っているとはいうものの、少しずつ描き方、書かれ方が違っています。

 この最初の「シモン、シモン、サタンはあなたがたを、小麦のようにふるいにかけることを神に願って聞き入れられた」(ルカ22.31)という言葉はルカだけに書かれています。

 この、弟子たちを試練に遭わせることを、サタンが神に願うというのを読むと、旧約聖書のヨブ記を思い出します。ヨブ記という本の始めのほうに、主人公のヨブの信仰がどれほど強いものかを試すために、ヨブに試練を与えることをサタンは神様に願い出て、聞き入れられます(ヨブ1.8-12)。そういう場面を連想するんですね。

 もし、ルカさんがそういう連想を念頭に置いていたとすれば、ヨブ記というのは、ヨブが苦しみを与えられて、誘惑に落ちてしまいそうになりながらも、最終的には神の圧倒的な存在にひれ伏し、もう一度祝福にあずかることになることをルカさんは知っているはずですから、ルカさん自身、弟子たちが最終的には再び戻って来るということをわかった上で、この裏切りの予告を描いているということになります。

 だから、更に続きを読んでいくと、ルカさんはシモン・ペトロがやがて戻って来ることも含み置いた上で、この裏切りの予告の場面を描いているんでしょうね。

立ち返りの予告

 読み進みますと、イエス様はこんな風に言っています。「しかし、あなたのために、あなたの信仰が無くならないように、私は祈った。だから、あなたは戻ってきたら、兄弟たちを力づけてやりなさい(サポートしてやりなさい)。」(22.32)

 その後シモン・ペトロは「私は牢であろうと、死であろうと、準備はできています」と言うんですけれども、イエス様に「ペトロ、あなたは今日、鶏が鳴くまでに3度私のことを知らないと言うだろう」と言われてしまいます(22.33-34)。

 先程のイエス様の、「あなたのために、あなたの信仰が無くならないように、私は祈った。だから、あなたは戻ってきたら、兄弟たちを力づけてやりなさい(サポートしてやりなさい)」というペトロにかけた言葉も、ルカによる福音書にしか書かれていません。他の福音書には、このようなペトロがやがて戻って来ることまで予告している記事はありません。ここにはルカさん独特の裏切り者ペトロに対する優しい眼差しがあるように私には思えます。

 ペトロは実際この後、イエス様を裏切ることになります。「牢であろうと死であろうと、私は準備ができています」と言っていましたが、実際にイエス様が逮捕されしまうと、自分も捕まってしまうことが怖くなって、イエス様のことを3度も「そんな人は知らない」と言って逃げてしまいます(ルカ22.54-62ほか)。

 イエス様を裏切った直後ペトロは、「あなたは3度わたしを知らないと言うだろう」という言葉を思い出して、「外に出て、激しく泣いた」と、その裏切りの場面には書いてあります(ルカ22.62)。

 ペトロはどんなに自分のことが情けなかっただろうかと思います。そして、そんなペトロが再びイエス様亡き後の教会を率いてゆくことになる様子を見ていると、見ている側の人間としては、「どの面下げて戻ってきてんねん!」と、その図々しさを批判したくもなる気持ちが起こっても仕方がないと思うのですけれども、ルカさんはそんなペトロを励ますイエス様の言葉をここに書き込んでいます。

 ペトロは、イエス様が「兄弟たちを力づけて、サポートしなさい」と言ってくださったから、それを実行しているのだ。ペトロが戻ってきたのはふてぶてしいように見えて、それはイエス様が望んだことなのだ、とルカさんは言っているんですね。ここにルカさんの優しさがあります。

 思えば、ルカという人は他にも、1枚の銀貨を無くした女性が見つけるまで念入りに捜し回る話とか、いなくなった息子がすってんてんになって戻ってきても、大喜びして宴会を開く話。主人の財産を無駄遣いしたあげくに、更に貸し金の証文を書き換えるような不正を行った使用人が逆に神に受け入れられる話など、過ちを犯したり、道を外れてしまった人でも、神様は愛して受け入れてくださるんだよということを何度も説いて聞かせるように書いてくれています。

 ルカさんは、こんな風に、ダメ人間をリサイクルするような、そんな神様の愛を証しする福音書を書いてくれたんですね。私たちは、神様の御心通りには生きられない。あるいは裏切ってしまうかも知れない。けれども、「神様はそんなあなたが立ち返ることを信じてくださっている。立ち返ったあともあなたの役割を用意して待ってくださる」というのが、ルカさんの大事なメッセージのように思われます。

裏切り者の食卓

 主の晩餐/最後の晩餐は12人の男性の弟子たち(つまり「使徒」と呼ばれる人たち)だけがイエス様と一緒にとった食事だから、「だから聖餐は選ばれた者だけの食事だ」という主張をする人が多いです。

 けれども、ルカによる福音書だけはちょっと違っていて、こんな書き方をしています。今日の聖書の箇所の前のページ、ルカの12章14節ですけれども、こう書いてあります。

 「時刻になったので、イエスは食事の席に着かれたが、使徒たちも一緒だった」(ルカ22.14)。「使徒たちも一緒だった」と書いてあるので、つまりルカさんにおいては、主の晩餐の食事は12弟子だけが招かれた食事ではなかったということですね。

 しかも、12人の使徒たちは、早い話が全員裏切り者です。イエス様を直接当局に売り渡したユダはもちろん裏切り者ですけれども、ペトロだって「死んでも着いていきます」と言ったはずなのに、公衆の面前で「私はイエスなんていう人は知らん!」と言ったわけですから、裏切り者の筆頭株です。

 そして、他の弟子たちも全員逃げています。ですから、裏切らなかった他の多くの弟子たちよりも責任は重いわけです。

 そんな裏切り者こそがイエスの食事に招かれていたのですから、なおさらのこと、そうでない人が招かれていないなんてことがあるだろうか。イエスの食卓に招かれない人なんているだろうか……というのが、誰にでも開かれた聖餐式の根底にある考え方です。

 そこを更に進めてルカさんは、「そのような裏切り者こそが、イエス様に、そして神様にリサイクルされる。立ち直ったら仲間を励ましてやりなさい」という優しいメッセージを込めてくれていると考えられるんですね。

敵を愛する神

 ここで私が連想するのは、ローマの信徒への手紙の5章に書かれているパウロの手紙の言葉です。ローマの信徒への手紙の5章にはこんな言葉が書かれています。

 「キリストは、私達がまだ弱かった頃、定められた時に、不敬虔な者のために死んでくださいました」(ローマ5.6)、「正しい人のために死ぬ者はほとんどいません。善い人のためなら、死ぬ者もいるかもしれません。しかし、私達がまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対する愛を示されました」(5.7-8)。あるいは、「敵であったときでさえ、御子の死によって神と和解させていただいた」とも書いています(10節)。

 弱く、敬虔でもなく、罪にまみれていて、敵でさえある。そんな人間のためにキリストであるイエスが命を捨てて下さった。神に背を向けて、神を裏切って生きているような人間に、神の方から和解を申し出て下さった。神様自らが御自分の敵を愛して下さった。そういうことをパウロは書いていますが、これはペトロが体験することになった救いと同じことを言っているのではないかと思います。

 ペトロがなぜ立ち戻っていったのか。それは弱く、敬虔でもなく、罪人でもある自分のために、イエスが命を捨ててまで愛を示して下さったということを悟ったからではないでしょうか。「そのような愛があるなら、その愛を信じたい!」と思う、その信じる気持ちによってペトロは救われたのではないかと思います。

変えられる期待

 イエス様は、そして神様は、私たちが強い人間であり、信仰深い人間になるから救ってくださるわけではありません。私たちが弱く、不敬虔で罪深いままで、そんな私たちを愛してくださるんですね。

 しかもイエス様は、私たちが立ち戻るということを信じてくださっているわけですから、私たちはいつでも自分が立ち戻りたいと思いさえすれば立ち戻ることができますし、立ち戻ったからと言って、責められたりはしないんですね。

 そしてそういう愛が、私をひょっとしたら、少しずつ変えていってくれるかもしれない。私は欠けも弱さも罪も多い自分が、神様によって何らかの善い方向に少しずつでも変えてもらえたらいいのになと、ちょっと期待する気持ちも無いではありません。

 私が神様を愛する前に、神様の方が先に私を愛してくださっている。迷っていても探してくださっている。そういう愛があるんだよとルカさんは知らせてくれているわけですから、それを希望の光として信じてゆきたいと思うんです。

派遣され、トライする

 聖餐は、裏切り者でさえも招く神様、イエス様の愛に応えて、それを証しするような食事でありたい。

 イエス様の食卓が多くの人に開かれているというのは、教会の中だけに閉じられた聖餐ではなく、私たちに与えられているパンや杯を、教会の外の人にも開かれたものとすることではないでしょうか。

 それは、単に聖餐式をオープンにするだけのことではなく、聖餐式で共有された神様の愛を、教会の外にも持ち出してゆくということではないかと私は思っています。

 今はコロナ禍のために礼拝堂での礼拝ができていませんが、徳島北教会の礼拝堂の正面右側には「愛される喜びを伝えたい」というモットーが刻まれたプレートがあります。「伝えたい」というのは、教会から教会の外へと発信したいということではないでしょうか。

 聖餐は裏切り者の食卓です。実態としてどんなに自分の人生が神を裏切っているものであったとしても、イエス様はご自身の食卓に私たちを招いてくださるということを心に覚えたいと思います。

 そして、裏切り者でさえも招かれているのだから、誰でもが招かれている。この食卓に自分以外の人も招かれている。誰でもが神様に愛されているということを伝えたいと思うのですが、いかがでしょうか。

 聖餐をオープンにしているということは、どなたでもこの聖餐をお受けになることができますよ、ということに加えて、私たち自身がこの世に対して開かれた心を持って生き、神様に愛された、その愛を教会の外のこの世へと持ち出すということにも繋がっていると私は思っています。

 その目標を持ってトライするために、私達は礼拝の終わりに派遣されてゆくのではないでしょうか。

 神の愛は人から人への愛によって証しされ、伝えられてゆきます。ですから、私達はその神の愛の器として、欠けた茶碗、穴の空いた桶ではありますが、ほんの一滴でもその愛のしずくを携えて、この世に派遣されてゆきたい。それが、聖餐によって与えられた恵みを本当に意味でオープンにすることではないかと思います。

 皆様はいかがお考えになりますでしょうか。

祈り

 お祈りを致しましょう。

 神様。今日は世界聖餐日を覚えて礼拝をしています。

 世界中の多くのクリスチャンが、共に主イエスの晩餐をいただく日です。この聖餐によって私達は、かつては敵対していたキリスト教の諸々の群れが、元々はひとつであったということを思い起こすことができます。そして平和を作り出す思いを新たにしようとしています。

 そして神様、あなたは私達があなたを裏切ったままの状態にあったときから、私達があなたを愛する前に愛してくださいました。この恵みを私達の隣人に伝えることができたらどんなに嬉しいことでしょうか。

 どうか、そのようにあなたの愛をこの世の人と分かち合うことができるように、私達をこの世へと送り出してください。

 この1週間を勇気を持って歩むべく、あなたの御心をもってこの世に私たちを送り出してくださいませ。

 神さまは言われます。「いかに美しいことか、山々を行き巡り、良い知らせを伝える者の足は。平和を告げ、恵みの良い知らせを伝え、救いを告げよ」。

 イエス・キリストの名によって祈ります。アーメン。

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