【不快語のクリスマス】ルカによる福音書1章46−55節

2021年12月5日(日)徳島北教会アドヴェント第2主日礼拝説き明かし

ルカによる福音書1章46-55節(新約聖書:新共同訳p.101、聖書協会共同訳 p.100)

 ▼聖書の言葉(新共同訳)

 そこで、マリアは言った。
 「私の霊は救い主である神を喜びたたえます。
 身分の低い、この主のはしためにも
 目を留めてくださったからです。
 今から後、いつの世の人も
 わたしを幸いな者と言うでしょう。
 力ある方が、わたしに偉大なことをなさいましたから。
 その御名は尊く、その憐れみは代々に限りなく、
 主を畏れる者に及びます。
 主はその腕で力を振るい、
 思い上がる者を打ち散らし、
 権力ある者をその座から引き降ろし、
 身分の低い者を高く上げ、
 飢えた人を良い物で満たし、
 富める者を空腹のまま追い返されます。
 その僕イスラエルを受け入れて、
 憐れみをお忘れになりません、
 わたしたちの先祖におっしゃったとおり、
 アブラハムとその子孫に対してとこしえに。」

▼アドヴェント

 おはようございます。今日はアドヴェントの第2回目の主日礼拝です。このクリスマスを待ち望む季節に、こうして実に1年あまりの隔たりの時を経て、私自身久しぶりに礼拝堂で礼拝をお捧げすることができることを心から感謝いたします。全く礼拝堂に集まれなかった日のことも考えますと、よくちゃんと礼拝が続けられてきたなと思います。このことについては、まずは神様に感謝すると共に、自分たちを褒めたいと思います。

 また嬉しいのは、直に顔を合わせて他愛もないお話ができることです。この他愛もない雑談が人間にとっては大事なことなんだなと、改めて思わされますし、いまこの時も離れたところで礼拝を共にしている皆さんとも、いつか一緒に集まることができる時が来ることを心から願わずにはおれません。また顔を合わせることができますことを楽しみにしています。

 さて、アドヴェントです。日本語では「待降節」、つまり「神の子イエスの降誕を待つ」、「降誕を待つ」ということで「待降節」と言います。元の言葉のアドヴェント(Advent)というのは、「到来」あるいは「来る」という意味がありまして、「アドベンチャー(adventure)」の語源です。「来る」という意味ですので、「アドベンチャー」というのは「次々冒険や危機がやってくる」という意味で「アドベンチャー」なんですね。ですから、「アドヴェント」というのは「来る」時です。主イエス・キリストがやってくる、近づいてくるという時であります。

 昔、「今いくよ、くるよ」という漫才のコンビがいらっしゃって、今はどうしておられるか知らないんですけれども、アドヴェントというのは、神様の方から見れば「今いくよ」ということでありましょうし、我々人間の方から見れば「来るよ」ということになります。アドヴェントからクリスマスというのは、イエス・キリストという神が、まさに「今いくよ、くるよ」という時を楽しみに待ちながら過ごす季節なのであります。

 このアドヴェントはクリスマスの前の4回の日曜日がそれに当てられていて、クリスマス礼拝の日曜日が4回目の主日になるようになっています。この4回の日曜日に、1本ずつロウソクに灯をともして、そしてクリスマス・イブに5本目のロウソクに灯が灯り、クリスマスを迎えるということになります。今日は、待降節第2主日の礼拝ですので、2本目のロウソクに火が灯った日曜日なわけですね。

 そして今日は、イエス・キリストの誕生を前にした時期ですので、イエス・キリストの誕生を待ち望んでいたマリアの賛歌の部分の聖書を読んでいただきました。

▼貧しい者が上げられ、富める者が引き下ろされる

 この「マリアの賛歌」という歌は、実はもともとマリアという一人の女性が歌ったものではない、というのが現代の聖書学の見解です。そして、これはもともと初代のキリスト教会の女性たちが歌い習わしていたものを、福音書記者ルカが受け継いでマリアの歌としてここに入れたものだという説もあれば、最初にイエスの誕生を語り伝えた洗礼者ヨハネの教団が歌い継いでいたものが、ここでマリアの歌として入れられることになったのだという説もあり、いろいろなことが言われています。

 しかし、いずれにせよ、ここには身分の低い者や貧しい者が神様に引き立てていただき、富める者、権力ある者が引きずり降ろされるのだという思いがよく表れているということは言えます。それはこのルカによる福音書で言えば、6章の20節以降で……

 「貧しい人々は、幸いである。
  今飢えている人々は、幸いである。
  あなたがたは満たされる。
  今泣いている人々は、幸いである。
  あなたがたは笑うようになる。」(ルカ6.20-21)と書かれていて、更には……

 「しかし、富んでいるあなたがたは、不幸である。
  あなたがたはもう慰めを受けている。
  今満腹している人々、あなたがたは、不幸である。
  あなたがたは飢えるようになる。
  今笑っている人々は、不幸である。
  あなたがたは悲しみ泣くようになる。」(ルカ6.24-25)

 ……という風に書いているこのメンタリティと同じものが流れているということですよね。ルカという人はこういう考えを基本に置いていると読むこともできます。

 その一方で、同じルカの書いた使徒言行録という本では、お金持ちの人たち、特にお金持ちの女性たちが初代教会のスポンサーになって支えていたという記事もいくつか見られるので、ルカという人は、お金持ちが貧しい人を助けるような教会のシステムを理想として自分の作品を書いていたのかもしれません。

▼不快語のクリスマス

 さきほど、これはマリアという女性個人の歌ではないと、最近の聖書学で言われていると言いましたが、それにしても、この「貧しい者が上げられ、富める者が下ろされる」という歌を歌う主人公として、ふさわしいというのも変かも知れませんが、まさにマリアという少女は貧しい暮らしをしていた被差別者であると、日本の伝統では伝えられてきたようです。

 今日は「不快語のクリスマス」という題でお話をさせていただいていますが、今日私がご紹介したいなと思うのは、讃美歌の中の不快語、つまり差別用語です。

 今、私達は『讃美歌21』を使っていますけれども、それ以前に1954年版の『讃美歌』あるいは『讃美歌第二編』という歌集を使っていたのではないかと思います。

 その讃美歌集は1954年に発行されたのですけれども、1988年つまり発行されてから34年後に、不快語がたくさんあるからということで、日本基督教団讃美歌委員会から、『讃美歌における不快語の読み替えについて』という紙を挟んで発行するようになりました。それに従って、言葉を読み替えて歌ってくださいということなんですね。

 で、それを見てみましたら、全部で16箇所ある読み替え部分の、6箇所がクリスマスあるいは、イエスの母マリアや父ヨセフに関する言葉だったんですね。まあ16箇所あるうちの6箇所を多いと感じるか少ないと感じるかは人によって違うと思いますが、色々なテーマの讃美歌がある中で、改訂箇所の4割近くがイエスの両親に関する讃美歌であるというのは、私は多いのではないかと個人的には感じます。

 その改訂部分は例えばこんな感じです。

 「いやしき賤(しず)の 処女(おとめ)にやどり♪」が「御霊によりて 処女にやどり♪」になっていたり、「賤の女(め)をば 母として♪」が「おとめマリア 母として♪」になっていたり、「まずしく低き 木工(たくみ)として♪」が「人の住まいを ととのえつつ♪」に変えられたりしています。

 「賤の処女」とか「賤の女」と言われていますけれども、「賤」というのは「いやしい」とも読みますよね。「賤しい」というのは、身分や社会的地位が低いとか、貧しくてみすぼらしいとか取るに足りないという意味もありますし、品位にかけているとか下品だとかいう意味もあります。

 「こういう呼び方は差別用語だからやめよう」というのは当然そういう流れになるのでしょうけれど、こういう言葉がオリジナルであったということは、マリアとヨセフという、当初このイエスの両親が賤しいと言われていた貧しい被差別者として見られていたということも逆に明らかであったということであろうと思います。

 讃美歌の歌詞を作った人の中にも差別的な心理があったかもしれませんが、それにしても他でもないイエス様の両親ですから、やはり、「その両親は私達が普段差別している人たちだったのだ」とあえて表現したところに、この歌詞の作者の悔い改めの意図も読み取ることができるのではないかと思います。

▼格差への怒り

 聖書の方の本文を読んでみても、「身分の低い、この主のはしため」というのは、もう少し直訳調に訳せば、「身分の低い」は「賤しい」「屈辱的な」とも読めますし、「はしため」というのは「奴隷」というニュアンスもあります(ルカ1.48)。

 この賛歌の歌い手は、「それでも自分は神様に目を留めていただいた。今から後々までも、私は『幸いな者』と呼ばれるのだ。力ある方が私に大いなることをしてくださったから」と歌います(1.48-49)。「幸いな者」というのは、先程紹介したルカの「貧しい人々は幸いである」という言葉とつながってきます。

 そして、49節から50節で神様への賛美を歌ったあとに、この賛歌を歌う人はすぐにこういう言葉を続けます。

 「主はその腕で力を振るい、
  思い上がる者を打ち散らし、
  権力ある者をその座から引き降ろし、
  身分の低い者を高く上げ、
  飢えた人を良い者で満たし、
  富める者を空腹のまま追い返されます。
  その僕イスラエルを受け入れて、
  憐れみをお忘れになりません。」(51-53)

 「身分の低い者」というのは、要するに一般大衆のこと、私たちのような人間のことです。借金に追われていたり、慎ましい生活でなんとか毎日をやりすごしているような人間です。また飢えた者というのは、更にもっと貧しい、路上で生きていて、この寒い空のもと凍死しそうになっている人たちのことです。そのような者たちが高く上げられるのだとこの賛歌は歌っています。

 まあ私などは、別に高く上げられなくても、なんとか死ぬまで安心して暮らしていければいいかなと思う程度ですけれども、それにしても世の中は、あまりにお金を持ちすぎている者と日々を生きるのが精一杯の人間との格差が開きすぎています。そういうことに対する怒りがこの歌には込められています。

▼ルカと「貧しい人」

 ルカはなぜこのような歌をこの聖書の箇所に入れたのでしょうか。イエスの誕生がこのような生活の劇的な改善を起こす社会の改革につながると考えたのでしょうか。

 ここからは私の推測になりますが、ルカは福音書から使徒言行録へと繋がる自分の物語のなかで、お金持ちの人間が貧しい人間を支えて、教会が営まれてゆくことを理想として描いていると思われる。そういうことを先程私は言いました。

 もうそうであるならば、ルカは革命などによって劇的に社会変革をするのではないけれども、教会が貧しい者を養う働きをすることを志していたのではないかと考えられます。

 たとえばルカの福音書の14章には、「宴会を催すときには、貧しい人、体の不自由な人、足の不自由な人、目の見えない人を招きなさい」というような言葉が2回繰り返されています(ルカ14.13、21)。

 16章には「金持ちとラザロ」という小見出しがついたたとえ話があって、金持ちは死後の世界で炎に焼かれるけれども、金持ちの家の前で横たわっていたラザロというできものだらけの貧しい人は、死後の世界で宴会にあずかっているという話があります(16.19-31)。これはルカだけが書いている物語です。

 また、徴税人で金持ちのザアカイがイエスに出会って悔い改めて、財産の半分を貧しい人に施します」と約束した話もルカだけが書いています(19.1-10)。

 そしてルカは使徒言行録で、初代教会の人々が個々人の財産を持ち寄って共有し合って、この世の終わりを待っている姿を描いています。

 こういうルカの描く世界は、私たち自分の持っているものにしがみついてなんとか自分の生活をやりくりしている人間にとっては、共感するところもあり、耳が痛いところもあり、といったところではないかと思います。

 私たちは中抜きの派遣会社で大儲けしているような大金持ちではないし、かといって路上で飢えているわけでもありません。個人差はあれど、中間的な立場にいるのではないかと思います。そのような中間的な立場にいる者に対しては、ルカは何を伝えようとしているのでしょうか。ルカの言葉から私たちが学べることは何なのでしょうか。

▼ルカの問いかけ

 実は、ルカの書いた第1作である福音書には、こうやって「貧しい人」に関する話がたくさん出てきますが、第2作である使徒言行録には、ほとんど出てきません。むしろ、使徒言行録の4章34節には、「信者の中には、一人も貧しい人がいなかった。土地や家を持っている者が皆、それを売っては代金を持ち寄り、使徒たちの足もとに置き、その金は必要に応じて、おのおのに分配されたからである。」と書いてあります(使徒4.34-35)。

 これはあくまで推測ですが、「信者の中には、一人も貧しい人がいなかった」(34節)の言葉に、ルカが相手にしていたのが財産のある人たちが多かった教会だったのではないでしょうか。ですから、そのような人たちに対して、自分の持っているものを差し出すことが理想のように述べたのではないかと思われます。

 実際に、初代教会の人たちがそのような原始共産制のような生活をしていたかどうかはわかりません。あるいはしていたとしても、エルサレムの人たちだけだった可能性があります。というのも、パウロが手紙を書きながら旅をしたのは、イエス様が無くなってから20年後ほどの紀元50年代ですが、その手紙の中には初代教会がみんなで財産を完全に共有していたという話は一つも出てこないからです。

 むしろ、聖餐に関する記事で、裕福で暇のある人達が先にエクレシアの集会にやってきて、長時間労働をして遅れてやってくる貧しい階級の人達のぶんまで飲み食いしてしまうなんてことが書いてあるくらいですから、信者たちの間で貧富の差が完全に無くなっていたというようなことはなかったのでしょう。

 しかし、そのような社会の現実を見て、ルカはなんらかの形で異議を申し立てたかったのではないでしょうか。そして、おそらくイエス自身が本当に言ったのであろうと考えられる「飢えている者が満腹になり、満腹している者が何も持たされずに追い返される」という言葉を、どうしても伝えたかったのではないかと思います。たとえそのとおりに人々が実践できなかったとしても、ルカは彼なりの理想を目指して、人々に問題提起をしたかった、特に豊かな人に対して問いかけたかったのではないでしょうか。

▼私たちの応え

 私たちは路上で冬を過ごす人間ではありません。しかし、マリアの賛歌に出てくる「身分の低い者」としての一般庶民であることは間違いありません。ルカが言ったとおりのような大胆なことはできませんし、私たちもそんなに余裕のある暮らしをしているわけではありません。このクリスマスにおいても、さほど贅沢なことをするわけでもなく、自分たちの持てるものを持ち寄って、ささやかな楽しみを共有しようとしています。

 しかし、ルカの伝えるイエス様の問いかけに応えて、このイエス様が「今来るよ」と言って来られるこの季節に、イエス様がまずはどこに来られたのか。貧しい、低い、「賤しい」とされたマリアとヨセフの所にまずは来たのではないか。

 そんな物語を書いたルカの問いかけに応えて、少しでも自分よりも貧しい人、飢えている人を覚え、その方ひとりひとりのために何かできるとしたら、それは一体何なのでしょうか。ルカの問いかけに応えることのできる私たちでありたいと思うのですが、いかがでしょうか。

 私はこの時期になると、ある年の年末のことを思い出すんです。大阪の西成の釜ヶ崎でその年の最後の夜回りのボランティアに参加していた時に、お弁当を配って「良いお歳を」って言って回っていたんですが、その歳初めて路上に出ることになってしまった人なのかもしれない。一人の40代くらいの男の人が呆然と立っているのに出くわしました。

 お弁当を渡して「良いお歳を」と声をかけました。弁当を受け取ってくれたのですが、弁当に目を落とすわけでもなく、私を見るわけでもなく、ただ自分の置かれた状況に呆然と立ち尽くしているだけという様子でした。

 これから彼は、寒空の下、どのように夜を過ごすのか。そもそも「良いお歳」を迎えることができるのか。私もどうしようもない。そんな中で、ただ「良いお歳を」としか言えなくて、その人を置いて帰るしかなかった情けなさを憶えています。

 あの人は新しい歳を生きて迎えることができたのだろうか。今も生きているのだろうかと、何度も思い出します。そんな記憶が蘇るたびに、このルカの問いかけが痛く感じられます。

 私は、今年もそんなことを思い起こしながら、クリスマスと年末を迎えようとしています。この「マリアの賛歌」を書いたルカの問いかけに私たちはどのように応えたらいいのでしょうか。

▼祈り

 祈りましょう。

 まもなく今年もイエス様の姿で私たちのもとに来てくださる神様。今年もあなたの到来をお待ちする季節がやってまいりました。

 昨年に引き続き、今年もウイルスのために、大いに苦労をさせられた私たちですけれども、将来に不安を残しながらも、こうしてあなたへの礼拝を捧げることが許されておりますことを、心から感謝いたします。

 北半球のクリスマスは寒いです。この冬の寒さの中で命を危険にさらしながら歳を越さなくてはならない人のことを覚えます。私たちに何ができるのでしょうか。私たちにできることにどうか気づかせてください。そしてそれをなす力を与えてください。

 また地上には、寒いクリスマスを送る人たちもいれば、温かいクリスマス、暑いクリスマスを迎える人たちもいます。それぞれの場所で、それぞれの形で、私たちはあなたの到来を待ち望んでいます。もうすぐやってくる、あなたの御子イエス・キリストからの問いかけに、私たちなりに応えることができますように、どうかお導きください。

 そして今日も、明日も生きてゆく私たちに、勇気と希望と力を与えてください。私たちに使命を与えて、この世へと送り出してください。

 イエス様の御名によって祈ります。

 アーメン。

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