【新しいエピファニーを待ち望もう】マタイによる福音書2章1−12節

2022年1月9日(日)徳島北教会新年礼拝説き明かし

マタイによる福音書2章1-12節(新約聖書:新共同訳p.2、聖書協会共同訳 p.2)

▼聖書の言葉(新共同訳)

 イエスは、ヘロデ王の時代にユダヤのベツレヘムでお生まれになった。そのとき、占星術の学者たちが東の方からエルサレムに来て、言った。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです。」

 これを聞いて、ヘロデ王は不安を抱いた。エルサレムの人々も皆、同様であった。王は民の祭司長たちや律法学者たちを皆集めて、メシアはどこに生まれることになっているのかと問いただした。

 彼らは言った。「ユダヤのベツレヘムです。預言者がこう書いています。

 『ユダの地、ベツレヘムよ、
 お前はユダの指導者たちの中で
 決していちばん小さいものではない。
 お前から指導者が現れ、
 わたしの民イスラエルの牧者となるからである。』」

 そこで、ヘロデは占星術の学者たちをひそかに呼び寄せ、星の現れた時期を確かめた。そして、「行って、その子のことを詳しく調べ、見つかったら知らせてくれ。私も行って拝もう」と言ってベツレヘムへ送り出した。

 彼らが王の言葉を聞いて出かけると、東方で見た星が先立って進み、ついに幼子のいる場所の上に止まった。学者たちはその星を見て喜びにあふれた。

 家に入ってみると、幼子は母マリアを共におられた。彼らはひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた。

 ところが、「ヘロデのところへ帰るな」と夢でお告げがあったので、別の道を通って自分たちの国へ帰って行った。

▼あけましておめでとうございます。

 みなさん、あけましておめでとうございます。

 年越しはいかがでしたか? 良い気分で年を越せましたでしょうか。みんながみんなお休みが取れたというわけでもないようで、のんびりした人もいれば、せわしい年越しだった方もいらっしゃると思います。また、私達の間には被災しながら生活しておられる方もいらっしゃいます。

 けれども、なんとか生きて2022年を迎えることもできたなということは良かったなと思いますし、この新しい1年も心を新たにして生き延びてゆきたいと思うのです。

▼エピファニー

 今日は1月も1週間以上経ったところで、お正月気分も冷めてきたところではありますね。

 キリスト教、特にプロテスタントやカトリックが含まれる西方教会の暦では、1月6日はエピファニーと言います。日本語では「公現日」と言いまして、今日は公現日の後の第1主日ということになります。

「公現日」というのは公に現れた日、赤ん坊のイエス様が人の前に初めて姿を現したことを祝う日のことです。

 もうちょっと具体的に言うと、東の方からやってきた3人の博士たちが、イエス様のところやってきた。ここで初めてイエス様がマリア様、ヨセフ様とは別の第三者と出会うことになった。それが「公に現れた」ということで公現日なのですね。

 ちなみに西側のプロテスタントやカトリックでは12月25日からクリスマスが始まって1月6日で終わりますけれども、「お東さん」と言われております、正教会(東方正教会)では1月6日がクリスマスです。これは私たちがグレゴリオ暦という新しい暦を使っているのに対して、正教会はユリウス暦という暦を使っている違いだそうです。

 我々西方教会系は1月6日がエピファニーであり、ここから公現節という教会暦が始まります。ですから今日の日曜日は「降誕節第3主日」と同時に「公現節第1主日」とも言います。

 このエピファニーというのは、単にキリストが世の人の前に姿を現した、人間が神の子と出会ったということだけを指すのではなく、そこから転じて、何か人生を変えるような、人生を転換させる決定的な出会いのこともエピファニーと言うんですね。

 ですから、私たちの人生は年に1回のエピファニーを祝うという単に年中行事としてだけではなく、自分の生涯の中で出会える、何か自分を変えてくれるような出会い、それは人との出会いや出来事との出会い、色々あるでしょうけれども、それを待ち望みながら生きる人生とも言えるわけです。

▼新しい王はどこに

 さて、エピファニーの物語の中で、東の国からやってきた学者たちは、「新しい王はどこにおられますか」と言いますよね。

 これは、年末の礼拝でも園ちゃんが言ってたように、かなり間抜けな話ですよね。こんなことをわざわざヘロデ大王に言いに行くから、たくさんの幼児がヘロデに殺されるような結果を招いてしまう。この学者たちがヘロデみたいな人に「新しい王が生まれるんです」なんてことを言わなかったら、惨劇は起こらなかった。ですから、この学者たちのやったことは、ほんまにアホなことです。

 しかし、この物語はマタイが作った物語で、要するにイエス様というのは、エジプトから出てきたモーセのような役割をするユダヤの救い主ですよと。そういうことを言いたいがために、エジプトに行ったとか、2歳以下の子どもは殺されたけれども、イエス様はモーセのように生き残ったんだというようなことを、マタイさんは伝えたかったからこう書いたんだろうと推測されるわけなんですね。

 だから、実際にユダヤ地方で2歳以下の幼児が大量虐殺されたとか、そんな記録は同じ時代の他の資料には残っていません。そんなことが実際にあったという歴史的記録はないんですね。

 マタイが本当に言いたかったのは、「ヘロデやローマ皇帝は、我々の本当の王じゃない」「そういう王とは違う、新しい王が私たちのために生まれたんだ」と。そして、その新しい王との出会いが私たちの人生を変えるんだということなんですね。

 これは、現状そこで王をやっているヘロデに対する皮肉であると同時に、さらにその背後にいるローマ皇帝に対する挑戦です。ヘロデやローマ皇帝とは全く違う意味での新しい王が生まれたんだという主張。これが、やがて皇帝を神の子として崇拝することをやめたり、他の神々を拝むのをやめたりといった、後々のクリスチャンの態度に反映されてゆきます。

 この皇帝や他の神々を拝まないという態度が、周りの人には非常に強い違和感をもって受け止められたんですね。そして、それが初期のクリスチャンたちが迫害されるひとつの原因にもなりました。

 クリスチャンは人が当たり前のように拝んでいるものを拝まない。そのために、クリスチャンというのは誠に信心の薄い、無節操な連中であるという風に見なされたわけです。

 ▼重要なことはひとつ

 これは現代のクリスチャンにおいても同じことで、クリスチャンというのは信仰的に浮気をしません。もちろん聖書に「偶像礼拝はしてはいけない」、「他のものを神にしてはならない」と書いているということが原則としてありますが、ひとりの神さまへの信仰でじゅうぶん事足りているので、他の神々を拝む必要がないわけです。

 だから初詣などに自分からは行かない。友達や家族が行くからそれについていっても、自分は拝まずに露店の焼きそばとかフランクフルトとかイカ焼きとか、そんなものを食べて遊んでばかりいる。そんな自分を、友達や家族は「変わった人間だな」というような目線で見ているわけです。

 私事になりますけれども、家族、親族で集まったりしますと、まるで自分が信心の薄い無神論者、無宗教者になったような気分になる時があります。

 普段は毎週教会の礼拝に参加してるよと言うと、なんと宗教くさい、変わった人間だという目でみられますし、親族は皆んな自分のことは無宗教だと言います。

 けれども集まって一旦お墓の話などになったりすると、もうお墓の話から始まって、戒名の話、位牌の話、仏壇の話などを口を酸っぱくして延々と論じあっています。そんな中で、私はそれをひとり静かに観察しております。

 私は周りの親族たちがいかに宗教熱心かということをひしひしと感じます。それに対して私は、そういうことに何十万円もお金をかけて打ち込む気にはとてもなれない。そういうものを信じていないわけです。だから話に乗れない。置いてけぼりになっていくわけです。あまりに周りの人達が宗教熱心なので、置いてけぼりを食らっている自分が無宗教者、無神論者になってしまったような感覚に襲われます。

 彼らにしてみれば、なんと亡くなった方の霊を大事にしない、無節操な人間だというふうに思われているのかもしれません。この違和感は、初期のクリスチャンたちが皇帝崇拝や神々への礼拝を関わらないことについて、周囲から疎まれたということとも相通じるものがあると思います。

▼生き方の研究所、生かし合う研究所

 もちろん私たちは亡くなった方々の霊について無関心であるわけではなく、その方々が神様のもとで憩っておられることをいつも覚えているわけです。ただ、位牌だ戒名だと騒いでいるのは、この世の人の気持ちの問題ですから、気の済むようにやっておられればいいと思いますけれども、そういうことにクリスチャンは本気にはなれない。むしろ私たちにとっては、生きている今が大切なわけです。

 マタイ福音書の8章、ルカ福音書の9章にもありますが、「死んでいる者たちに、自分たちの死者を葬らせなさい」(マタイ8.22、ルカ9.60)という言葉があります。イエス様の言い方はやや過激で、「葬式なんかやる意味はないんだ」とまで言っているように聞こえます。私たちはそうは言っても、イエス様の言うように、全く葬式をやらないというのもどうか。そこはケースバイケースで、という判断で良いと思うのですけれども、イエス様の言いたいことを汲めば、「死者のことよりも、生きている今をどう生きるかということが大事なんだ」と受け止めることができると思います。

 キリスト教会がこの世で存在し続ける意義があるとすれば、それはまさに、いま生きている人間がどう生きるか、またどう生かし合うかということを研究してゆくことだと思うんですね。

▼クロノスとカイロス

 そして、その生き方研究のひとつのキーワードとして、この新しい歳の初めに心に留めておきたいと私が思うのが「エピファニー」なんですね。これが私たちのヒントになります、

 最初に申し上げましたように、エピファニーというのは、私たち人間が初めてキリストと出会った、そのことによって私たちの人生が変わったということ。そこから転じて、私たちの人生を変えるような決定的で大きな人との出会い、あるいは出来事との出会いのことを指すと言いました。

 クリスチャンとして生きるということの一つには、自分の人生の中で、このような決定的な出会いを与えてくださる神様の「時」というものを待つ、タイミングを待つということになるのではないかと思います。

 よく知られている話かもしれませんが、ギリシア語には「時」を示す言葉に「クロノス」という言葉と「カイロス」という言葉があります。

 「クロノス」は私たちの普段暮らしている時間の流れのことを指します。「クロック」すなわち時計で計ることのできる時間です。

 これに対して「カイロス」というのは、この「クロノス」の中に神が介入してくる決定的な「時」。神の方から思いがけず私たちの暮らしの中に、切り込んでくる特別な「時」のことを指します。

 エピファニーというのは、この神による「カイロス」の時と私たちが出会うことでもあるのですね。

▼エピファニーを待ちながら

 私たちは時に、「神も仏もあるものか」という気持ちに陥ってしまって、この世の人生に落胆し、失望しきってしまう、神の介入など無いのではないかと疑いながら生きてしまうということもあるでしょう。

 しかしそれでも、生きている限り、心のどこかで神が与えてくれる「時:カイロス」というものを待ち望んでいるのがクリスチャンという種類の人間ではないかと思うのです。また、何か自分を変える出来事と出会った時、それを神の導きなのかもしれないな、と感じる感性を持っているのがクリスチャンと言えるのではないでしょうか……。

 そして、自分がそのようなエピファニーの出来事など無いんだと決めつけてしまえば、そのようなエピファニーとの出会いはやってこないのではないかと思います。

 ……新しい歳を迎えました。問題だらけの世の中が良くなるのに期待できそうにないような気がする時もありますし、人間の力だけでは如何ともし難いように思われることもあるでしょう。しかし、私たちは一人ひとりの人生に起こるエピファニーを待ち望みたいと思うんですね。

 それは私一人の人生に起こるエピファニーではなく、自分以外の人にも、自分とは敵対する人に対しても、それが起こることを願う気持ちです。

 そうやってあらゆる人に起こる小さなエピファニーが、その一人ひとりの人生が良い方向に変えることによって、世の中が良い方向に変わってゆくことを諦めたくない。そんな一人ひとりの小さなエピファニーが増し加わって、やがて大人数の大きなエピファニーが世の中に次第に起こってゆくことを願いたいと思うのですが、いかがでしょうか。

 皆さんにも私にも、何か素敵なエピファニーが起こる1年であることを祈りたいと思います。

 祈りましょう。

▼祈り

 愛と恵みに満ちた主なる神様。
 明るい話題が聞こえる予感も無い人の世ではあります。人のやることは何と愚かで醜いものでしょうか。
 しかし、私たちはあなたが与えてくださる、何か素敵なものを期待したいと思います。
 あなたの導きを信じて、この新しい1年をあなたと共に歩みたいです。
 どうか、私たちにあなたのエピファニーをお与えください。
 そして、この1年もこの世で生きてゆこうとする私たちの背中を押し、いつも私たちのそばにいて、共に歩んでください。
 イエス様の御名によって祈ります。アーメン。

 

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください