【来た時よりも美しく天に帰れるか】創世記1章28−31節

2022年1月30日(日)徳島北教会主日礼拝説き明かし

創世記1章28-31節(新約聖書:新共同訳p.2、聖書協会共同訳 p.2)

▼2つの天地創造物語

 皆さん、おはようございます。

 今日は私としては珍しく旧約聖書からの引用で説き明かしのお話をさせていただきます。とは言ってもよく知られている聖書の箇所ではありますけれども、創世記の天地創造の1つめの物語の終わりの部分です。

 創世記には2つの物語があって、1つめが1章の1節から2章の4節の前半。それから2つ目がこの2章の4節後半から25節まで、ということになっています。1つ目の天地創造の物語は、神様が6日間で世界を作って、6日目に男女の人間を作って、最後の1日はお休みになった。2つ目の天地創造の物語は、主なる神がまず土の塵から人間を作られて、それからエデンの園という場所を作って、そこに人間を住ませ、それから男性と女性を分けられた、という筋書きになっています。

 今日引用したのは、この1つ目の方の物語の最後のほうです。28節には、有名な「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ」、人間以外の「生き物をすべて支配せよ」という言葉が収められていますし、31節には「見よ、それは極めて良かった」という言葉も書かれています。

 ここの聖書の箇所は、色々な解釈のされ方をしています。

▼聖書翻訳のSDGs

 特に「産めよ、増えよ、地に満ちよ」、「生き物をすべて支配せよ」という言葉については大きく解釈が二手に分かれていて、割と伝統的な解釈としては、「人間が万物の霊長なのだから、地球上の全ての生物の上に立って支配するのが当然である」というものです。

 これは基本的には、これまで人類がたどってきた道筋の根底にあったものの考え方だと思うんですね。人間が地上の生物の中でも最高の知性と理性を持ち合わせていて、それが他の生物と人間の決定的な違いなんだと。だから、人間は他の生物を育てて食べることもできるし、しつけて道具や乗り物として使ったりということができると。実際そうしてきたわけです。

 もう1つの解釈は、この28節の「支配せよ」という翻訳がちょっと間違っているんじゃないかという解釈が最近になって出てきたんですね。これは特に最近の環境汚染が原因で、気候の変動によって災害が人類に大きな被害を与える時代になってきたということが背景にあって出てきたものだと思います。

 「SDGs(持続可能な開発目標)」という言葉が近年になって叫ばれるようになって、それと歩調を合わせるように「環境神学」という分野がキリスト教倫理の中でも提唱されるようになってきているんですね。

 そして、その影響を受けて、最新の聖書協会共同訳では、この私たちが礼拝で使っている新共同訳で「支配せよ」になっている日本語が「治めよ」に変えられています。つまり、上に立って支配せよという、自然界に対する上から目線ではなくて、上手に管理する、上手にお世話をする、付き合っていくというニュアンスが強められた形になっているということです。

▼農耕革命

 それでは、実際のところ、創世記の天地創造物語を書いた人たちは、どういうつもりでこういう物語を作ったのでしょうか。

 と言いますのは、歴史や考古学の研究の成果によれば、人間:ホモ・サピエンスというのは元々ゴリラやチンパンジーなどのような祖先から引き継いだ採集生活をやっていたことがわかっています。草や木の実を食べたり、集団で狩りをして野生の動物を仕留めてそれを食べたりしていたんですね。

 ところが人類史のある時点で、人間は食物になる、ある種類の草の種を貯めておいて、食料の確保の安定を図るようになります。そしてやがて、それを次の年に土に蒔くと、更に多くの種が手に入るということを学ぶようになります。つまり農業の始まりです。

 この農耕革命が、たとえば人間が一箇所に定住して住むようになったこととか、穀物の出来高やそれをいくらたくさん貯蔵できるかが貧富の差の原因になったとか、炭水化物中心の食事になって、肥満や虫歯の原因になっていったとか……。まあ、安定的に食料を確保するためにやろうとしたことなんでしょうけれども、その一方でいろんな問題の原因になったと言われています。

▼農耕社会の正当化

 で、そういう観点から今日の聖書の箇所を読み直しますと、たとえば29節で「見よ、全地に生える、『種』を持つ草と『種』を持つ実をつける木を、すべてあなたたちに与えよう。それがあなたたちの食べ物となる」というのは、これは農業の理屈だと読めるんですね。

 「種を持つ草」と「種を持つ実をつける木」に注意が向いているということは、要するに「種」が大事だということです。種があれば、次の年も収穫が見込めますからね。

 種を持つ草というのは、これは穀物のことですよね。種そのものを食べることができて、それを蒔くこともできる。そして、種を持つ実をつける木というのは果樹園を作って、その種は翌年畑に蒔けということなんですね。「種」にこだわっているということは、これは採集社会ではなくて農耕社会です。

 となると、この物語は天地創造、つまり神様が最初にこの世を作ったという物語になっているけれども、本当がホモ・サピエンスはもともと狩猟採集社会だったんだけれども、それを忘れて、「最初から農耕生活をすることが神様の御心なんですよ」という主張といいますか、そうやって庶民を教育するような話だという風に読めるわけです。

 実際この物語は割と新しい、旧約聖書の中では後の方の時代にできたと言われています。実際の歴史を記した物語じゃなくて、後付けで、「あなたがたは農耕に励みなさいよ」「神様が7日目に休まれたように、あなたがたも6日働いて1日休みなさいよ」ということを教えるための話だったんですね。

▼労働は神の罰

 これ、ちょっと面白いのはですね(というか、面白いと思っているのはぼくだけかもしれませんけれど)、2章から始まっている2つ目の天地創造の物語、こっちのほうが古い、始めにできた創造物語だと言われておりますけれども、これが3章まで続いていくと、アダムとエバが「食べてはいけない」と言われていた木の実を食べて神様に罰せられますよね。その罰というのが、エバに対しては出産の苦しみ、アダムに対しては農業労働の苦しみを与えられることになっている点です。

 女の人の出産の苦しみが神の与えた罰だというのは、これも色々論議は分かれるところだと思いますけれども、今日はここには触れないことにしますね、すいません。

 農耕生活ということに関して言えば、アダムの方に主なる神がこう言います。

 「お前のゆえに、土は呪われるものとなった。お前は生涯食べ物を得ようと苦しむ。お前に対して、土は茨とあざみを生えいでさせる、野の草を食べようとするお前に。お前は顔に汗を流してパンを得る、土に返る時まで。お前がそこから取られた土に。塵にすぎないお前は塵に返る」(創世記3.17-19)。

 つまり、死ぬまで汗を流して畑を耕して、食べ物を得るために苦労するだろうと。それが神の呪いなんだと言っているんですね。

 1つ目の天地創造物語を書いた人たちは、農業というのは神が与えた人間の本来のあり方なんだと言うわけですけれども、2つ目の物語を書いた人たちは、この農業の労働のしんどさが神の与えた罰なんだという考え方をしているわけです。この考え方の違いを皆さんはどのように受け止められるでしょうか。

 この2つ目の方の創造物語のほうが古い、つまり先にできたわけですから、まずは「農業の労働はつらいんだ、これは神の呪いに違いない」という庶民の声が反映された物語が語られていて、その後の時代になって、どちらかというと権力者寄りの立場の人たちから、「農業こそが神が与えた本来の人間の仕事だ」という物語が語り直されたんだということになります。

 どうもこの聖書の物語で語られているのは、権力者寄りの地主が「農業こそ神のご意志だ」と言って労働させようとしている一方で、それに雇われて、自分が食べる分以上に生産することを求められ、収穫を搾り取られる小作農の話が対照的に書かれているといった状況なのではないかと思われるのですね。

▼地球の資源を使い尽くす

 創世記を更に読み進んで9章まで行くと、今度はノアの箱舟の物語の終わりに、これはまた1つ目の物語を書いた人たちが、もう一度「産めよ、増えよ、地に満ちよ」(9.1)という言葉を書いています。そしてそこでは「動いている命あるものは、すべてあなたたちの食糧とするがよい」(9.3)という言葉も出てきます。つまり「動物も食べてよい」と。「土を耕す農業に加えて、牧畜もやりなさい」と言っているんですね。

 そして後の人類は、何千年にも渡って、こういう「人類以外の生物も土地も、その他の資源も、人類のために利用してもよい」という考え方で進んできましたし、この発想がずっと変わらないで、地球の資源を無限に使えるかのような姿勢でやってきました。

 もちろん、自然と共存する農業、酪農のやり方が定着した地域もあったけれども、次第に資本主義的な土地の囲い込みなんかもあいまって、人類が地球の資源を食い尽くすという方向性に大きな流れとしてはなってきたと思います。

 そして、特に近年になって、といいますか、私が読んだ本で知ったところによれば、1970年ごろから急激に地球の資源の浪費、とくに石炭や石油などの消費が激しくなり、「これはまずいぞ、二酸化炭素が増えすぎて、地球が温暖化して、自然災害が増えたり、海面が上昇して沿岸地帯が水没してゆくぞ」という危機感が最近になってようやく高まって、2015年にSDGs(持続可能な開発目標)というものが国連で定められて、2030年までに何とかしなくちゃ、大変なことになるよということになってきたわけです。

 2030年というとあと8年しかないわけですけれども、その時までに二酸化炭素を吐き出す量を、少なくともこれ以上の温暖化を止めることができるかどうか。それが勝負のしどころになっているということなんですね。

 こういったことの全ての発端となったのは、この聖書の言葉を、地上のものは全て人間が「支配」していいんだと解釈してきたこと。それが全ての発端だったんだということが言えるのではないかと、私は思っています。

 つまり、聖書の解釈が人類の未来を閉ざす大元になってしまったかもしれないよというお話です。

▼次世代への悔い改め

 「聖書に書いてあることは何でも正しい」と思い込んでいるクリスチャンもいますが、こうしてちょっと歴史的、批判的に読んでみると、聖書に書いてあることも、その解釈も、全く問題がないとは言えないということがあります。

 現に今日の聖書の箇所を「私たちは自然界を支配してよい」という意味で読んできたことが、自然を破壊して、結局私たちの生活にしっぺ返しが来ているという状況につながっている可能性があります。

 今、私たちにできることは何なのか、何とかしないと被害を被るのは私たち自身であり、更にひどい目に合うのは次の時代を担う世代です。あるいは大人の世代自身も、もう既に大きな被害を味わうことになるかもしれない。気候現象の変化という意味ではもう既に被害を受け始めていますよね。

 私達は、この世に生まれてきてはみたものの、次の世代の人たちに美しい地球を残さずには、悔いなく世を去ることができるでしょうか。「来た時よりも美しく」ということわざがありますが、私達は「来た時よりも美しく」してから世を去ってゆくということができるのだろうかと思うと、後ろめたい思いがしないでもない。

 せっかく神様に、地球という素晴らしい星を与えていただいたのに。今日お読みした聖書の箇所、創世記の1章31節には「見よ、それは極めて良かった」と書いてあります。本来この地球は「良いもの」として造られ、与えられたのに、それをこんなに汚して、消耗させてしまったことを、神様に対して悔い改めないといけない。

 そして、次の世代に美しいままで残すことができないならば、そのことを、子どもたち、孫たちに対して悔い改めないといけない。

 しかし、悔い改めると言っても、「悔いる」ことはできるけれども、「改める」ということはできるのでしょうか。次の世代に禍根を残すことにないようにするために、私たちにできることは何なのでしょうか。

 私は、実はそのことを日々悩みながら過ごしていたりするんです。「ああ、子どもたちに美しい地球を残せない自分たちって、なんて罪深いんだろう」と罪意識を覚えていたりもします。

 このあと、分かち合いの時間を持ちますが、私はこの自分の悩みを分かち合いの場で皆さんに投げてしまおうと思っています。私のこの悩みにどなたかが応答してくださらないか。そんなことを期待しながら、今日の説き明かしを終わりたいと思います。

 祈りましょう。

 

 

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