【「私はある」それは誰にとっても同じ】出エジプト記3章13−14節

2022年2月20日(日)徳島北教会主日礼拝説き明かし

出エジプト記3章13-14節(旧約聖書:新共同訳p.97、聖書協会共同訳 p.89)

▼強制労働

 今日は『出エジプト記』という本から聖句をお読みしました。

 出エジプト記というのは、創世記でのアブラハム、イサク、ヤコブ、ヨセフの大河ドラマの後に続くドラマです。ヨセフがエジプトに行って、夢を解き明かす能力を使ってファラオのNo.2の権力を持つようになって、父親のヤコブや兄弟たち、そしてその家族をエジプトに呼び寄せて、幸せに暮らしました……ということで創世記は終わるのですけれども、出エジプト記はその後、ヨセフから何世代か後の時代になって、「ヨセフのことを知らない新しい王」(出エジプト1.8)が出てくるんですね。

 そして、ヘブライ人(つまり、後のイスラエルの先祖になる人達ですけれども)があまりに人口が増えすぎたのを見て、恐ろしくなったんでしょうね。このヘブライ人に奴隷労働をさせろと命じるんですね。

 このあたり、古代のエジプトでも現代の日本でも相通じるところはあるなあと思わされますね。日本人も日本に入ってくる外国人から税金は取り立てるけれども、選挙権は与えないし。「出ていけ」とは言うけれども、日本人より安くてキツい労働をさせるためには必要だと言う。

 「技能実習生」の問題もよく報道されるようになりましたね。これ、現代の奴隷制じゃないのかと指摘する声も上がってきました。

 最近、よくニュースで話題になる「佐渡金山を日本政府がユネスコの世界文化遺産に推薦するかしないか」という話にも通じます。「朝鮮の人たちの強制労働の歴史があるのに、なんで文化遺産に登録なんかできるのか」と。

 こんな風に、外国人に強制労働をさせるというのは、つい最近になっても行われていたわけで、人間というのはなんぼ時代を経ても、やっていることは同じなのか、と怒りと悲しみの思いが湧いてきませんか。

▼モーセの物語

 エジプトの話に戻りますが、エジプトの王(ファラオ)はヘブライ人を奴隷にして強制労働を課すわけです。

 ところが重労働を課して虐待しても、「虐待されればされるほど彼らは増え広がった」(1.12)と書いてあります。それでエジプト人はますますヘブライ人を差別して、労働を強化します。「彼らが従事した労働はいずれも過酷を極めた」(1.14)とも書いてあります。

 しかもファラオは、ヘブライ人の人口が増えないようにするために、ヘブライ人の家に「生まれた男の子は、一人残らずナイル川に放り込め」(1.22)と命令します。男の赤ちゃんを皆殺しにするんですね。

 ここでモーセという人物が登場します。

 一人の母親が、自分の赤ん坊の命をなんとか助けたいと思って、赤ん坊をかごに入れてナイル川に流します。その赤ん坊を、水浴びに来たファラオの王女が(王女はヘブライ人の赤ん坊の皆殺しに賛成していなかったんですね)川から拾い上げて「モーセ」と名づけます。

 このあたりはもう皆さんご存知のストーリーだと思います。このモーセの物語もアニメの映画になっていて、『プリンス・オブ・エジプト』と言ってDVDも売られていますけれども、アニメとは思えないほどのすごい迫力でよくできています。

 で、モーセはエジプトの第2王子、つまりファラオの実子の王子の弟として育てられますけれども、何らかのきっかけで自分は本当はヘブライ人であることを知ってしまうんですね。それで、自分の同胞のヘブライ人奴隷を虐待しているエジプト人を殺してしまいます。

 それでモーセは、ミディアン地方というシナイ半島の南部のほうに逃げまして、そこでミディアンの人たちに温かく迎えてもらって、結婚して、そのままのんびり暮らしていたわけです。

 ところが、神さまはヘブライ人の嘆き、「助けてくれ」という叫び声を聞いて、モーセに「おまえは奴隷解放のリーダーとしてエジプトに帰れ」と言うんですね。

 今日読んだ聖書の箇所のちょっと前、3章の10節にはこう書いてあります。

 「今、行きなさい。わたしはあなたをファラオのもとに遣わす。わが民イスラエルの人々をエジプトから連れ出すのだ。」(3.10)

 モーセはびっくりするわけですね。そして、「なんで自分がそんなことをせんといかんのですか!」(3.11)と口答えをします。そして、そのあと、今日の聖書の箇所のセリフを吐くんですね。

 「わたしは、今、イスラエルの人々のところへ参ります。彼らに、『あなたたちの先祖の神が、わたしをここに遣わされたのです』と言えば、『その名は一体何か』と問うにちがいありません。彼らに何と応えるべきでしょうか。」(3.13)

 すると神はモーセに言います。「わたしはある。わたしはあるという者だ』と言われ、また、「イスラエルの人々にこう言うがよい。『わたしはある』という方がわたしをあなたたちに遣わされたのだと。」(3.14)

 モーセの物語はまだまだこの先ずっと続いていくんですけれども、今日はここまでということにして、今日は、この「わたしはある」という言葉について考えてみたいと思います。

▼わたしはある

 「わたしはある」というのは奇妙な名前ですね。これは一体名前と言えるのか。これ、4年前に出た聖書協会共同訳では「私はいる」という言葉に訳されています。「私はただ存在しているものなのだ。」「私はひとつの名前で呼ばれることを拒否する」という態度ですね。

 ちなみに文語訳の聖書で読むと、「我は有りて在る者なり」、「我有りといふ者」(3.14)と書いてあります。英語の聖書の1つには「I am who I am」とも訳されています。

 実は、私たちの聖書では「わたしはあるという者だ」と書いてありますけれども、この「という者だ」に当たる言葉は元のヘブライ語には無いそうです。ある注解書によれば、「わたしはあろうとして、わたしはあろうとするのだ」という風に訳しています。これが直訳だそうです。これは名前ではありませんね。名詞ではないです。

 名前を呼ぶ、名前をつけるというのは、ある対象を把握することにつながります。あるいは名前をつけるというのは、「こいつは何者か」ということを人間の都合で定義づけることにもなります。

 けれども、神さまは自分を定義づけることを拒否するんですね。定義ができない。人間は有限な存在だけど、神さまは無限で、とても人間によって定義できるようなものじゃないから、名前はないんですね。

 神さまはとにかく、ただ「わたしはあろうとして、あろうとする」と言います。存在するということにゆるぎな決意が込められている。とにかく存在している自我、「わたしがここにいる」という強い意志そのものだということです。

 聖書というのは、創世記の天地創造の物語にもあるように、人間は神に似たものとして造られたと書いてあります。ですから、人間の自我、「わたし」という意識そのものが、神に似ている部分なんだと解釈することもできます。

 あるいは、ひょっとしたら「わたし」という意識があることそのものが神から来ている、「わたしがある」ということは神の一部であることを体験しているんじゃないのかとか、そんなことを私は考えたりします。

▼強烈な自我

 私は最近YouTubeで、何年か前の、解剖学者の養老孟司さんと、生物学者の福岡伸一さんの対談を見たことがあります。その対談の中で養老孟司さんはこんな話をしたんですね。

 アメリカの学生100人と日本の学生100人に、「自分で決めたいこと」と「自分で決めたくないこと」をリストアップするという調査をやったそうです。

 すると、アメリカにいる学生は、「自分で決めたいことが多すぎて、書いてる紙の裏側まで行っちゃうけど、日本の学生は「自分で決めたいこと」というのがだいたい2~3行くらいで終わってしまうんだそうです。日本の学生はせいぜい「恋愛とか結婚する人は自分で決めたい」とか、その程度です。

 これは、西洋人は何でも自分で決めていかないと生きていけない環境があって、そういう生き方が身についてるからなんだろうとおっしゃっていましたけれども、それぐらい自我というものが強い。これは日本とはだいぶ文化が違うとおっしゃっていました。

 私はその話を聞いていて、そういう文化の背景に、神はただ「ある」あるいは「いる」というもので、人間もただ「ある/いる」ものとして造られた。人間にとって、この自我が造られたということが一番大事なことなんだという感覚が、昔から根付いていたからそうなったんじゃないか。

 そう聖書に書いてあるから、そういう感覚が育ったのか。あるいは、そういう感覚や文化がもともと強いから、こういうことを聖書に書いたのか。そこは鶏と卵みたいなもので、よくはわかりませんけれども、とにかくあの向こうの人達の自我の強さというものは、このような、神とは「あろうとしてあろうとする」という感覚に相通じるものがあるのではないかと私は推測しています。

▼我思う、故に我あり

 さて、その同じ対談で、お相手の生物学者の福岡伸一さんはこんなことを言っていました。

 我々の体を作っている細胞というのは、全部食べたもので構成されていると。食べ物というのは、分子レベルというと、炭素とか窒素とか、そういったものでできている物質で、それが食べることによって体内に取り込まれて、やがて出ていきます。私達の体は今から食べるものがそのまま自分の体になるんですね。

 それは、例えば胃や腸といった消化管の細胞だったら2~3日で入れ替わってしまうそうです。筋肉は2~3週間。そして、脳細胞なんかはもっとゆっくりなんですが、それでもやがては入れ替わるそうです。

 つまり、1年前の自分と今の自分は物質的には、全く別の存在であると。「1年前の自分は今の自分とは別人だから、皆さんは借金払わなくていい」とおっしゃっていました。

 じゃあ生命とは一体何なのかというと、それは環境と一体のもので、ただ分子レベルでは流れ流れて動いているもので、その流れの中で一時的に淀んで滞留しているのが生物に過ぎない、それだけの存在なんだとおっしゃっていました。

 そうすると、「わたし」とは何なのか。自我とか意識とは何なのかということが問題になるんですね。ここから先はもちろん私は学者ではないのでわかりません。

 脳科学者の茂木健一郎さんという方は、専門は脳と意識の研究だそうですけれども、それでも意識の問題はまだまだ解けないとおっしゃっています。

 フランスの哲学者でデカルトという人は「コギト・エルゴ・スム」つまり「我思う、故に我あり」とおっしゃったそうですけれども、それが何故なのかということは、まだ解明されていないんですね。

 私達は分子レベルでは、1年も経てば完全に入れ替わってしまう。心の在り処ではないかと言われている脳でさえも完全に入れ替わってしまう。すると私たちの自我は一体なんなのか……。

▼神さまのインプットとアウトプット

 ただ、今日の出エジプト記に書かれている神さまは、非常に感情豊かな神さまですよね。私たち人間に似ている。人間的な神さま。というか、聖書によれば人間の方が神に似ているということになっているんですけれども、神さまが「わたしはある」すなわち「我あり」と言っているということと、私たちが「わたしはある」と感じていることはすごく似ています。

 つまりは神さまは、私たちが喜んだり、悲しんだりするのと同じように、喜んだり、悲しんだりする存在として、ここでは描かれています。

 そして、神さまはそんな人間の喜び、悲しみといったような心の動きを感じ取ってくださって、それを自分のことのように思ってくださるということなんですね。

 今日読んだところの少し前、2章の23節から25節には、このように書かれています。

 「イスラエルの人々は労働のゆえにうめき、叫んだ。労働のゆえに助けを求める彼らの叫び声は神に届いた。神はその嘆きを聞き、アブラハム、イサク、ヤコブとの契約を思い起こされた。神はイスラエルの人々を顧み、御心に留められた。」(2.23-25)

 「わたしはある」と言う神さまが、「うめき」や「叫び」を聞き、その叫び声が神に届いた。イスラエルの人々を顧み、心の留められたとあります。神さまは人のうめき、叫びを聞いて、そして今度はそれに対する応答をしなければと、強い意志をもって自分の存在を示そうとします。

 しかし、その人間のうめきや叫びに応答したいという強い意志を形にするのは誰なのでしょうか?

 また脳の話になりますけれども、これも養老孟司さんがおっしゃっていたことですけれども、脳というのはそれだけでは何も感じることもできないし、何を表現することもできません。

 手で触れ、耳で聞き、目で見、口で味わい、鼻でかいで、初めてものを感じたり、言葉を認識したりします。それがインプットです。

 そして、手や足を使って動き回り、口で言葉を発し、目や顔や全身で表現することで、脳はアウトプットします。

 つまり、「わたし」はそれだけでは何もできず、肉体というものを手に入れて、初めて何かを感じ取り、意志を表して、行動することができます。「わたし」には肉体が必要なんですね。

 ですから私は、神さまは「わたしはあろうとして、わたしはあろうとする」と言っているけれども、神さまだけでは何もできないんじゃないかなぁと思ったりします。神さまには肉体が無いからです。

 では、誰が神さまの肉体になるのか……。

 それが実はキリストであると。神さまが肉体を持つ人間となって現れたのがキリストだ、というのがキリスト教の信仰です。

 けれども、まだこの出エジプト記の時点では、キリストは登場しません。キリスト教の誕生から1000年以上も昔の話です。神さまがご自分の意志を行うしもべとして任命したのはモーセです。そこで、この聖書の箇所では、一生懸命神さまは「私の体になりなさいよ」とモーセを説得しているんですね。

▼人は神の一部であり、神そのものでもある

 エジプトにいる多くのヘブライ人が神さまの感覚神経です。そこで感じ取られたヘブライ人の痛み、嘆きに対して、今度は神さまはモーセを運動神経と筋肉として用いて、行動に表そうとします。

 モーセは「なんで私がそんなことをしなくてはいけないんですか」と尻込みしています。けれども、神さまはこの3章の12節にも書いてあるように、「わたしは必ずあなたと共にいる」と言います。ここでもさっきと同じ言葉が使われていて、「わたしはあなたと共にあろうとする」です。神さまはモーセと一体化して、ヘブライ人の解放をなんとしてでもやり遂げるぞ、と決意しています。

 神さまにインプットする感覚神経は人間の感じていることであり、神さまの思いをアウトプットする運動神経と筋肉も人間の働きなんですね。

 これは、新約聖書に「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である」(ヨハネ福音書15.5)と書いてあったり、「体のすべての部分の数は多くても、体は一つであるように、キリストの場合も同様である」(1コリント12.12)、「一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が喜ぶのです」(1コリント12.26)と書いてあるのと、相通じる話です。

 私たちは皆んな、「わたしはある」という存在です。ですから喜んだり、悲しんだり、怒ったり、欲望を抱いたりします。この地上に生きているいくつもの「わたし」が感じている喜び、悲しみ、怒り、欲望、そしてそれ以外の諸々の感情は実は神さまの感情と重なっているのではないだろうかと。

 私たちの目の耳と鼻と口の皮膚の感覚、この五感は神さまの五感の延長であり、私たちの言葉と行いは神さまの言葉と行いに重なってくるのではないか。

 だから、私たちが自分にとって本当に良いもの、良いことを見極めて、それを自分に取り入れたり、行ったりすれば、自分の喜びが神の喜びとなり、自分にとって悪いものを取り入れたり、悪いことを行ったりすれば、自分が損なわれると同時に神が損なわれることになり、神を悲しませることになることになるのではないか。

 そのように思うのが今の私の宗教心なのですが、皆さんはどのように受け止めてくださるでしょうか。

 いささか抽象的な話になったかもしれませんが、大切なことは「わたしはある」という、みんなが持っている感覚は神さまと共有しているものなんだということ。それを大事に守ってゆきましょうというお話でございました。

 祈りましょう。

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