
誰もが体験しうる悲劇と苦難に寄り添う
原題は『善良な人々に不幸が起こる時』である。著者は、息子をプロジェリア(早老症)によって幼いまま失った、ユダヤ教のラビである。
本書は、著者自身難病による自分の息子の死に直面し、また1人の聖職者として自分の教区の信徒たちが抱えるさまざまな人生の困難に寄り添うなかで、人間の苦しみの持つ意味を探った考察である。
この本には難しい哲学や神学の論議は一切登場しない。徹底的にわかりやすく、平易な言葉で語られている。
なぜこんなに読みやすく、共感できるのかと考えてみたが、おそらくこの本に書かれている人間の苦しみの事例が、本当に誰でもが経験するような具体性に満ちているからだろう。
それは身近な者の不慮の死、自分自身が遭った事故、障がい、盗難や暴力、争いごと、別離など、それらの事例は悉く具体的だ。
そして、著者はこれらの具体的な苦しみの出来事に対する「普通の」人々の抱きがちな当然な感情にも通じている。その当然な感情に徹底的に寄り添うから、この本は分かり易いのだろう。
神は人間から苦しみを取り去ってはくれない。神にはそんなことはできない。神にできるのは、私たちが苦しみに際して、いかにそれに応答するか、その応答の仕方を導いてくれることだ。
なんとも神とは頼りない存在か。しかし、私たちが人生の苦悩を受け止め、さらに生き続けるためには、神が必要である。
私たちが神を必要とする以上に、神は私たちを必要としている。私たちが互いの苦しみに寄り添い合う時、そこに神がいる。私たちの愛を必要とする神がそこにいることで、私たちも私たちの愛を高めることができ、それによって独りで苦しむことから救われて、生き続けることができる。
著者はユダヤ教のラビであることもあってか、ヘブライ語聖書からの引用が多いが、私がこの本を読んで連想したのはキリスト教のギリシア語聖書の「この人の目が見えなくなったのは、神の愛が現れるためである」という章句である。
神は苦しみを取り去ってはくれない。しかし、人間同士の愛が表れる機会としてくださるのである。
そう考えると、最も恐ろしいのは、その苦しみよりも、苦しみを共有してくれる他者がいないことではないかと思えてくる。孤立こそが最も人を絶望に叩き込む。だから、「誰も独りにはしない」ということが、苦しみに立ち向かう人間にとって最も大切なことなのだろう。