【贖いってなんですか〜苦しみは独りだけのものじゃない】マルコによる福音書10章35−45節

2022年3月20日(日)徳島北教会レント第3主日礼拝説き明かし

マルコによる福音書10章35-45節(ゼベダイの子ヤコブとヨハネの願い)

▼レント第3主日の悔い改め

 レントも3回目の主日を迎えました。

 思えば結構レントという時期は長いですね。それほど長く悔い改めよということでしょうか。私は昨日も安いウィスキーのお湯割りを何杯か飲みましたけれども、レントに何か飲み物や食べ物を我慢するなんてことは、あまり大事なことではないのであって、それよりも、イエス様が亡くなられたというのはどういうことなのか、それが自分にとってどういう意味があるのかということを思い巡らせ、受け止め直す時期だと思います。

 よくレントは「悔い改め」の時であるとも聞きますけれども、「悔い改め」というのはギリシア語では「メタノイア」という言葉で、何か悪いことを反省して「もうしません」というような意味ではなく、「全く別の視点から観てみる」と言いますか、全く逆の方向から観てみる。あるいは1段高いところから別の景色を観てみる、というような意味を持っている言葉です。

 ですから、私たちも、レントに悔い改めるというのは、もちろんイエス様の亡くなったことを思い、喪に服すという面もありますけれども、そのイエス様が何のために亡くなったということを、もう一度捉え直すという意味でのメタノイアの時期を過ごすという面もあるのかなと思うわけです。

▼誰がイエスの左右につくか

 今日お読みいただいた聖書の箇所は、ゼベダイの子ヤコブと、同じくゼベダイの子ヤコブの兄弟がイエス様に、「私をあなた様の右大臣・左大臣にしてください」とお願いする場面です。

 この人達は、他の弟子たちもそうですけれども、イエスは神の子かも知れない、この世の終わりのときには天に登って、雲に乗って再びやってくるような、そんなすごい方なんじゃないかと思い始めているわけです。それで、その雲に乗ってやってくるときには、私たち兄弟を右大臣・左大臣の席につかせてくださいと言っています。

 それを聞いて、他の弟子たちは怒り出して、「何を抜け駆けしとるんや」と言うわけですね。ということは他の弟子たちも、できれば自分たちもイエスが栄光を受けるときには何らかの地位が欲しいと思っているということなんでしょうね。ヤコブとヨハネに嫉妬しているわけです。

 ところがイエス様は言うんですね。

 「おまえらは自分が何を言っているのか、わかっとらへん」と言います。

 なんで「おまえらはわかっとらへん」と言っているのでしょうか?

▼イエスの杯とイエスのバプテスマ

 イエス様は続けて言います。

 「私が飲む杯を飲み、私が受けるバプテスマを受けることができるか」。

 するとヤコブもヨハネも「できます」と言います。自分らが何を言っているのかわかっていないと言われているのに、わからないまま「できます」と言ってしまっていますね。

 するとイエス様は「確かに、おまえらも同じ杯を飲んで、同じバプテスマを受けることになるやろな。でも、わしの右・左に誰が座るかは、俺が決めることやあらへんで」と言います。「それは定められた人に許されるんや」と言います。

 一説によれば、このイエス様の右・左というのは、イエス様の受難の時、十字架につけられたイエス様の右と左に、同じように十字架につけられることになった犯罪人たちのことを、マルコは言っているのだろうと言われています。

 マルコに言わせてみれば、イエス様が栄光を受ける時というのは、雲に乗って光り輝いてやってくる時ではなくて、十字架につけられて、痛みと恥と孤独にまみれて、血と汗と糞尿にまみれて死ぬ時、それがイエスの栄光なんだと言うわけですね。

 そして、イエスと一緒にイエスの左右に十字架につけられて、苦しみ抜いて死ぬこと。それがイエスの杯を飲み、イエスの受けるバプテスマを受けるということなんだということだと、そういう読み方もできるんです。

▼身代金

 そしてイエスは話を続けます。

 「地上のあちこちの人たちの間では、偉い人が権力を振るって支配するような世の中になっているわな。でも、お前さんたちの間ではそうやらへんで。偉くなりたい者は仕える者になって、頭になりたい者は奉仕する者になるんやで。人の子はな、奴隷になるために、多くの人の身代金になるために来たんやで」と言います。

 この「身代金」という言葉がどうにも引っかかります。

 なんでイエスの十字架をそういう風に解釈できるのかな、と悩みます。

 最近ぼくは、「義」とか「贖い」とか、そういう割と伝統的にキリスト教で使われてきた言葉を、もっとわかりやすく受け止め直すのにはどうしたらいいのかなということを考えます。

 そういう教義に関する文献を読み漁って、完全に把握して、ということはやっていません。けれども、受け止め直すためのアイデアを練って、皆さんとの分かち合いの中で、さらに色々なアイデアを共有できたらいいかなと思っています。

 そこで、このイエスの十字架は「身代金」なんだという解釈がある。それはなぜかということを、ちょっと考えてみたいと思うんです。

 「身代金」というのは、私達を買い戻すための保釈金みたいなものだということです。そして「買い戻す」ことを「贖う(あがなう)」とも言います。イエスは私達を「贖って」くださったという言い方をするのはそういうことですね。

▼身代わりではなく

 「贖い」というと、イエス様が人間の代わりの神の罰を受けた、という風に解釈する人がいます。こういう考え方はちょっとおかしいと言っている人もいらっしゃいますけれども、ぼくもおかしいと思います。

 自分のYouTubeの動画でも言いましたけれども、これはかなり気持ち悪い考え方ですね。

 あるお父さんがいますと。そして、他の家の子が自分に対して悪さをすると。ところがその他の家の子を赦すために、身代わりとして自分の子を殺すと。それが他の子に対する救いになるというのが、人間の救いなんだと信じている人がいます。

 他の家の子を赦してやるなんだけれども、誰かに罰を与えずにはおれないから、自分の子を罰して、殺してしまう。

 これ、今で言うところのDVですよね。虐待によって我が子を殺してしまう。神さまはDV親父だというのが、この贖罪論の考え方です。

 こういうことを大真面目に信じているクリスチャンの人たちがいます。

 けれども、こういう考え方は実は最初のキリスト教の発想ではなくて、どうもたった500年ほど前のカルヴァンという人が考えた、かなり特異な考えらしいんですね。もともとのキリスト教の発想ではなかったそうです。

 もともとのキリスト教の発想では、イエス様は人間の代わりに神の罰を受けた、という考え方をしてなかったらしいんですね。

 イエス様は「身代わり」ではなくて、「身代金」だったというわけです。「身代わりに罰を受けた」んではなくて、「身代金」だった。

 この違いは、要するに、「罰を受けた」という発想が元々は無かったということです。

 「代わりに罰を受けた」んじゃないんです。神さまは罰を与えないんです。そうではなくて、イエス様は「私たちの代理として苦しんでくれた」ということがポイントです。

▼贖いは代わりに苦しむこと

  世の中には苦しいことがいっぱいいっぱいあるじゃないですか。

 病気になること。死ぬこと。あるいは自分でなくても、自分の愛する人が病気をしたり怪我をしたりすること。自分の大切な人の命が奪われること。

 あるいは、お金や家が無くなってしまう。貧困のつらさ、あるいは、戦争や犯罪や暴力や差別の被害に遭う苦しみ。労働のつらさ。別れのつらさ、孤独のつらさ。

 人間が互いに理解できないつらさ、自分の人生が自分の思い通りにならないつらさ、この先自分はやっていけるのだろうかという未来への不安など……それぞれに私たちはつらさ、苦しみ、悩みを抱えています。

 「贖い」というのは、そのような私たちの苦しみを、私の代わりに苦しんでくれるということです。私たちの代理になって、イエスは苦しみの極限を味わう道を選んだということです。

▼代わってもらえない苦しみ

 でも、やっぱり疑問が残ります。

 イエス様が代わりに苦しんでくれるというけれども、それで自分の苦しみが無くなるわけやないかと。イエスが私の苦しみや悩みを取り去ってくれるわけじゃない。

 もちろん、イエスを信じて信頼することで悩みが消えた! という人もいます。色々悩んでいた、思い煩っていたけれども、そんな悩みは消えた! 全てをイエス様にお委ねして、私は救われたんだ!

 ……そういう人はそういう人で幸せなんだと思います。

 けれども、やっぱりそれで病気が治るわけじゃない。死んだ人は戻って来ない。呪いたくなるような過去は消せない。無いはずのお金が儲かるようなうまい話が飛び込んでくるわけでもない。

 イエスが代わりに私たちの苦しみを担ってくれるなんて、嘘じゃないか。いや嘘とまでは言わないまでも、何の意味もないじゃないかと。そういう疑問が湧いても仕方がないと思います。

 ……それに対して、私自身は答を持っていません。

 ただ、イエスは私に代わろうとしてくれたんだな、とは思います。

▼代わってあげたいと思う愛

 私たちは、自分の本当に大切な人が苦しんでいる時、「できれば、この人に代わって自分がその苦しみを引き取りたい。この人の苦しみを私に与えてください」と思うことはないでしょうか。

 私は、イエスがそんな思いで、一緒に私たちの苦しみを苦しんでくれようとしたのではないかと思います。

 イエスは私たちの死、苦しみ、悩み、不安を一緒に負おうとしてくれたんじゃないかなと。

 それで私たちの苦しみが魔法のように消えるわけではありません。

 けれども、「できることなら代わってあげたいんだ」という思いで私たちのために苦しんでくれようとした。そこまで私のことを大切にしてくれている。その愛は、信頼できるんじゃないかと思うのですが、いかがでしょうか。

 そんな愛を実行できる人は、この世にはそうそういないと思います。私だってそんなことを実行できるかどうか。たぶん無理だと思います。

 この世の人間にできることではないことをやったから、イエス様は神の子ではないかと言われるようになったのではないでしょうか。人間だけれども、人間以上の存在ではないかと言われるようになったのではないでしょうか。

▼完結していない贖い

 「あなたの苦しみを代わってあげられたらいいのに!」という切ない思いで、私を愛してくれている。そんなこと無理なのに、あえてそういうことをやろうとして、どんな人間よりも苦しい思いを引き受けてくださった。

 私の代わりに苦しもうとしてくれた。つまり、私の苦しみを贖おうとしてくださった。それがイエスの「贖い」ではないか。

 そういう意味では、この「贖い」は不完全です。イエスは私たちの苦しみを「贖おう」としてくださってけれども、私たちの苦しみは消えません。こんなことを言うと、自分たちを正統派だと思っている人たちには袋叩きにあうか、あるいは「バカ」と言われて終わりかも知れませんが、イエス様の「贖い」は完結していないと思います。

 けれども、この「贖い」について、ルカによる福音書は、もう少しハッキリと書いているのではないかと思います。

 ご記憶の方もおられるのでないかと思いますが、ルカによる福音書の23章43節には、イエス様が自分と一緒に苦しんでいる犯罪人に対して、「あなたは今日、私と一緒に楽園にいる」と言います。

 「あなたは今日、私と一緒に楽園にいる」。

 イエスと一緒に苦しむということが、楽園にいることになるというんですね。これは、イエスが「あなたと一緒に苦しむことができるのは、私にとって嬉しいことなんだよ」と言っているのではないかと、私には思えます。

 私の苦しみを魔法のように取り去ってはくれないけれども、私の代わりに苦しんでくれようとしてくれた。少なくとも私と一緒に苦しんでくれた。実際、私の苦しみと同じか、それ以上の苦しみを引き受けようとしてくれた。そこまでして自分を愛そうとしてくれた。その愛は信用に値する。そう思うのですが、いかがでしょうか。

 祈りましょう。

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