【疑いながらも信じている】出エジプト記19章1−6節

2022年5月15日(日)日本キリスト教団伊丹教会 主日礼拝 説教

 出エジプト記19章1-6節(旧約聖書・新共同訳p.124-125、聖書協会共同訳p.115)

▼聖書の言葉(聖書協会共同訳)

 イスラエルの人々はエジプトの地を出て、三度目の新月の日にシナイの荒れ野にやってきた。彼らはレフィディムをたってシナイの荒れ野に入り、その荒れ野で宿営した。さて、モーセは神のもとに登って行くと、主が山から呼びかけられた。

 「ヤコブの家に言い、イスラエルの人々にこのように告げなさい。『わたしがエジプト人にしたことと、あなたがたを鷲の翼の上に乗せ、私のもとに連れてきたことをあなたがたは見た。それゆえ、今もし私の声に聞き従い、私の契約を守るならば、あなたがたはあらゆる民にまさって私の宝となる。全地は私のものだからである。そしてあなたがたは、私にとって祭司の王国、聖なる国民となる。』これが、イスラエルの人々に語るべき言葉である。」

▼同窓生

 おはようございます。同志社香里中学校・高等学校というところで、「聖書」という科目の教師をしています、富田正樹と申します。今日、こうして伊丹教会の皆さんと共に礼拝をお献げすることができます恵みを心から感謝しております。

 私、今は同志社で働いてはいますけれども、中学、高校、そして1回目の大学は関西学院でした。

 それから会社員をしばらくやっておりましたけれども、教会の牧師になる志を与えられて、同志社大学の神学部に編入しました。

 伊丹教会にも関学時代の友達もおられまして、ちょっと緊張しているんですけれども、ときどき関学時代の友達に言われるのが、「おまえは関学出身なのに、なんで同志社に行ったんや」ということなんですね。

 「関学にも神学部はあるのに、なんで関学の神学部に行かへんかったんや」と言われることがあります。

 割と理由は単純で、高校時代から通っていた教会(阪急今津駅の近くにある西宮教会ですけれども)、そこが同志社系だったので、教会と言えば同志社と思っていたところがあるんですね。決して関学が嫌で行かなかったわけではありません。

 学生時代から「学校は関学に通い、教会は同志社系に通う」という感覚だったので、いったん就職した会社を辞めて牧師になろうと思った時点で、神学部については同志社に入ろうと思ったのは、自分としては自然な成り行きだったわけです。

 ですから、わたくし的には関学と同志社の両方の学校を卒業できてよかったな……という思いでいます。

▼教会探検隊

 それで、当初教会の牧師になろうとしていたんですが、これもまた不思議な導きによって中学校・高校の学校の聖書の先生になることになったのが25年前です。

 ちょうど25年前に、同志社の学内校で「同志社香里中学校・高等学校」、略して「同志社香里」という学校の聖書科の教師に欠員ができたということで、誰か行かないかという話が神学部であったわけです。

 それで私も悩んだんですけれども、「若い人たちにキリスト教を伝えたいな」「若い人たちと聖書の勉強ができたら楽しいやろな」そして「学校と教会とが一緒に生徒さんにキリスト教を伝える、その橋渡しができたらいいやろな」と思って、応募することに決めたんですね。

 それで学校に就職してから早速始めたのが、「教会探検隊」という名前のレポートです。

 まあ、学校から「教会に行きなさい」と言って、感想文を書かせるというのは、昔からあちこちのキリスト教学校でやっていると思うんですけれども、これに「探検隊」という名前をつけて、いくつもの異なる教会に「行ってごらん」と送り出して、レポートを書いてもらう課題を作ったんですね。

 最近では、もうひとりの聖書の先生のアイデアで、「何か1つ教会の人に質問をしてみよう」という課題も付け加えて、レポートしてもらう形式に発展させています。

 ただ、長らくやっておりましたこの「教会探検隊」ですけれども、残念なことに、コロナが流行ってしまって、この2年間ほどは実際に教会に足を運ぶということができなくなりました。

 今、人数制限をしたり、色々工夫をしながら礼拝堂で礼拝を行う教会も増えてきましたけれども、正直、感染者の数が下げ止まりの大阪府にある学校の感覚としては、「積極的に教会に行きなさい」とは言いにくい状況です。「無理に行かなくてもいいよ」と言わざるを得ません。

 その代わり、いろんな教会のホームページやYouTubeなどを使った、礼拝のライブ配信や説教の録画などを見て、それでレポートを書いてもいいよ、と言ったんですね。

 そしたら、みんなまた積極的に「教会探検隊」のレポートを書いてくるようになりました。

▼悩ましい授業

 ところで、学校で聖書の授業をやっていて、時々ではありますけれども、困ることがあります。そんなに頻繁なことではないんですけれども、クリスチャンとしては非常に悩ましいところもあるので、そういうことが起こるたびに、当事者の生徒さんのことは強く印象に残ります。

 それは、たとえば小学生まで無邪気に「世界は神さまが6日間で作ったんだよ」とか「ノアの方舟と洪水の出来事は本当に起こったことなんだよ」とか、そういうお子さんが、中学生になって、「それは科学的あるいは歴史的に証明された事実ではないんだよ。その代わり、深い意味を持った神話なんだよ」と授業で教わる時のショックです。

 そもそもクリスチャンのお子さんが入学してくることが非常に珍しいので、そういうことはたまにしか起こらないんですけれども、たまに入学してこられるとそういうことが起こるときがあります。

 それで一度、保護者の方からお叱りの電話をいただいたこともあります。「子どもの信仰を潰された。どうしてくれるんだ!」。それで管理職も困ってしまって、「富田くん、こういう時はどうするんや」と訊かれました。

 私も、「サンタクロースが実際にいるかどうかを、何歳まで信じているかですよね」と答えたので、管理職の先生たちも余計に困ったような顔をしていたのが印象的でした。

 あるいは、「キリスト教は世界で一番正しい宗教で、神さまに愛に満ちた素晴らしい方だ」と信じていた生徒さんが、高校生になって世界史の授業を受けて、キリスト教世界がどんなにひどい戦争を、他の宗教の民族に対しても、クリスチャン同志においても、しかけてきたかを、これでもかというほど思い知らされます。

 私がやっている聖書の授業でも、高校生になると、自由にキリスト教についてネットや書籍、新聞、論文などを使って調べ学習をしてもらったりするので、キリスト教が必ずしもいつも平和的というわけではなかったし、他の宗教にもその宗教なりの真理があるということがわかっています。

 そうすると、これまでキリスト教こそが唯一の真理だという純粋な信仰を持っていたお子さんは、他のお子さんが悩まないようなところで、困惑してしまうんですね。

▼困惑の聖書

 今日の聖書の箇所も、困惑するような言葉が並んでいます。少なくとも私にとってはそうです。

 エジプトの地で奴隷状態にあったイスラエルの人々は、モーセのリーダーシップと神さまの力ある業によって、エジプトから解放され、カナンの約束の地へと旅に出ます。そして、シナイ山の麓までやってきたというのが、今日の聖書の箇所の場面です。モーセは神さまが住んでいるシナイ山に登ってゆきます。

 すると、神さまが言います。今のところ、一番新しい翻訳である『聖書協会共同訳』によれば、こんな風に書いてあります。

 「ヤコブの家に言い、イスラエルの人々にこのように告げなさい。『わたしがエジプト人にしたことと、あなたがたを鷲の翼の上に乗せ、私のもとに連れてきたことをあなたがたは見た。それゆえ、今もし私の声に聞き従い、私の契約を守るならば、あなたがたはあらゆる民にまさって私の宝となる。全地は私のものだからである。そしてあなたがたは、私にとって祭司の王国、聖なる国民となる。』これが、イスラエルの人々に語るべき言葉である。」(出エジプト記19.1-6)

 「私がエジプト人にしたことを、あなたがたは見た。私はあなたがたを鷲の翼の上に乗せて、このシナイ山の麓まで連れてきたのだ」と言っていますね。

 こんな風に、神さまが鷲の翼の上に乗せて連れて行く、とモーセが言ったというのは、旧約聖書の中では、たとえば申命記の32章でも同じように書かれています。

 「鷲がその巣を揺り動かし、雛の上を舞い、羽を広げて雛を取り、翼に乗せて運ぶように」(イザヤ32.11)と書いてあります。

 神さまの力によってイスラエルはエジプトから助け出さたと。その旅の途中には色々なことがありました。

 旅の途中で水が無くなってモーセに文句を言うと、岩から水が出てきたり、腹が減ったとモーセに文句を言うと、不思議な食べ物「マナ」が降ってきたり。そんな風に神さまは、特別のはからいをもってイスラエルを助け、荒れ野の旅を導いていきます。

 その力強いわざこそが「鷲の翼に乗せて」連れてきたというたとえで、出エジプト記の記者たちも申命記の記者たちも、言い聞かせているんですね。

▼復讐の神

 けれども、この「私がエジプト人にしたこと」を、イスラエル側からだけではなく、エジプト側から見たらどうでしょうか。

 エジプト人は確かにひどい奴隷労働でイスラエル人を苦しめました。それに、イスラエルの子どもたちを皆殺しにするという恐ろしい仕打ちもしました。

 お話の中の話だけではなく、今の世の中で、例えばどこかの国が、別のどこかの国に対して、民族浄化作戦で子どもたちを皆殺しにするなんてことが起こったら、どんなに国際世論が非難するでしょうか。

 けれども、そんなエジプトに対して神がやったことはそれに対する復讐です。エジプトがただ手を引けば、それで事は済むといったようなものではなく、ここでイスラエルの神が行ったのは、とことん叩きつぶすような復讐です。報復攻撃です。

 ひょっとしたらこれは、「そこまで報復しないと、エジプトは手を引かないのだ、それが現実というものなのだ」という一種の現実的な感覚を表した物語なのかもしれません。

 エジプトはナイル川の水が血になって飲めなくなり、カエルや虫や疫病が大発生し、そして最後にはエジプト中の初子、人間も家畜もみんなその初子、人間で言えば長男が皆殺しにされます。ここまでやらないとエジプトは手を引かない。そういう現実に立って神は振る舞っただけで、それが民と民の戦争というものなのだということを表しているのかもしれません。

 しかしこれは、私たちが知っている平和の神とは別のものではないかという疑問も浮かんできます。

 それとも、復讐するのが人間ではなく神だからいいのだという理屈が成立するのでしょうか。

 ローマの信徒への手紙12章19節には、文語体で読むと「復讐するは我にあり、我これを報いん」という言葉も収められています。

 「復讐するは我にあり」という映画が昔ありましたけれども、これは「自分で復讐するな。神がご自身で復讐すると言っておられるのだから」という意味になります。ということは、人間が復讐しなくても、神さまが復讐してくださるのだから、ということになります。

 しかし、復讐は復讐、報復は報復です。

 私たちの神さまは、愛と平和の神ではなかったのでしょうか。

▼エクソダス

 『エクソダス』という映画があります。皆様はご存知でしょうか。

 映画ファンならリドリー・スコットという監督の名前はよくご存知かもしれません。懐かしいところでは『ブレード・ランナー』や『エイリアン』、日本を舞台にした、松田優作が出演していた『ブラック・レイン』、そして『グラディエーター』など、有名な作品がたくさんあります。

 そのリドリー・スコットが監督した作品に『エクソダス』という映画があります。「エクソダス」とは「脱出」、つまり「出エジプト」のことです。モーセと神によるイスラエルのエジプト脱出物語で、モーセとエジプトの王(ファラオ)であるラメセスとの対立、そして特殊効果をふんだんに使った、十の災いの映像が見どころでもあります。

 この映画の中でも、モーセに現れる神はモーセ以上に攻撃的で残酷です。最初はモーセにエジプトに対する反乱戦争をやらせようとするのですけれども、それが物足りない、手ぬるいと思うと、今度は自分が手をくだしてエジプトを叩こうとするのですね。

 そして、先程も申し上げましたように、ナイル川が血の川になり、カエルやイナゴやブヨやアブが大発生し、疫病が大流行し、最後はエジプト中の初子の命が奪われるという惨劇を引き起こします。

 そして、イスラエルはエジプトを脱出することになるわけですが、海を渡る奇跡によってエジプト軍から逃げ切って、対岸に到着したイスラエルの人々を眺めながら、リーダーであるはずのモーセが、「これからが大変だ」と漏らすシーンがあるのですね。

 イスラエルがこれからカナンの地に入っていこうとすれば、先住民にとっては明らかに侵略となるだろう。これは大変なことになる。「なにしろ1つの国を作れるくらい大きいのだからな」とモーセは言うのですね。

 1つの国を作れるくらいの大人数がカナンの地、すなわちパレスティナに侵攻するというセリフが、現在のイスラエルがパレスティナ人に対して行っている圧迫と暴力を批判していることは明らかです。

 こんな風に、イスラエルの側から見れば「神が我らを救った。神が我らをここまで導いた」という論理も、そして今日の聖書の箇所にも書いてあるように、「我々は神の宝の民である。聖なる国民である」と言う喜びの言葉も、逆の立場から見れば、とんでもない暴力になりうるということから、目を背けるわけにはいかないんですね。

▼聖書を疑う

 これは、聖書に書いてあることを疑うという読み方です。そんな読み方をしてもいいのか、自分でも戸惑います。困惑します。果たして神はこんなに残虐な報復をし、また侵略をさせることまでして、イスラエルを守り、導き、特別な民とするのか。

 それは、イスラエルにとって都合の良い神を想像して書かれた物語ではないのか。いや、そもそも聖書というのは、そうやってある集団の人間によって、自分たちに都合よく書いた物語の集大成に過ぎないのではないか。そういう疑問を持ってしまう人が出てきてもおかしくありません。

 実際、私が担当している高校2年生のキリスト教に対する自由研究の中では、こういうことに似た疑問。つまり、ある一方の側から見て正しいと思われることも、もう一方から見ればとんでもない話ではないかということですね。そういう疑問が教師である私にぶつけられることも時にはありますし、それに対して、聖書が人間の願望の投影によって書かれた可能性を否定しきれない自分もここにいます。

 少なくとも、今日読んだ聖書の箇所に関してはそうです。

 私たちはこのような聖書の箇所にぶつかってしまった時に、どういう態度を取ればよいのでしょうか。

▼敵を愛せ

 私は思います。たとえ聖書であろうとも、物語を語り継いだ人たち、そしてそれを書き記した人たちの、神さまに対する「解釈」であるとしか言いようがないのではないか。

 紀元前1200年前後の、エジプトから逃げることに成功したイスラエルの人たちにとっては、「神さまが私たちを救い出してくださった。私たちが受けた仕打ちに対して、神さまが復讐してくださった。そして、私たちは神さまの宝の民となったのだ」という、神さまに対する「解釈」が唯一の信じられる真実だったのでしょう。

 そしておそらく、それが1200年間イスラエルの中で支配的な解釈だったのでしょう。

 けれども、今からおよそ2000年ほど前に、この神解釈に真っ向から対決した人物が現れます。

 その人物は、「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」(マタイ5.44)と人を教えました。また「もし人に右の頬を打たれたら、左の頬をも差し出せ」(マタイ5.39)とも言いました。

 当時のユダヤ人の間では、「隣人を愛せ」と言った場合、この時の「隣人」は「同胞」のこと、つまり同じユダヤ人のことを指します。我々は同胞なのだから、互いにしっかり愛し合おうということになります。しごく真っ当といいますか、非常にわかりやすい教えです。

 特に、数多くの敵と戦いながら、自分たちのアイデンティティと土地を守ってきたイスラエル人にとっては、自分たちの生活を奪おうとするような敵は憎み、同胞を愛せ」というのは、とても大切な教えだったんだと簡単に推測できます。

 そこにもってきて、「隣人を愛したところで、何になる。そんなことは誰でもしていることだ。むしろ敵を愛せ」などと教え始めたら、そりゃあ多くの人に憎まれるのは当然でしょう。そんな教えを同胞の間に広められたりしたら、同胞の民族的団結が壊れます。

 ですから、こういう危険な教えを広めようとする人物は消さなくてはなりません。この人物は激しい論争を巻き起こしましたが、最終的には実際、自分の暴力に対する復讐を弟子たちに指示するでもなく、十字架につけられ、命を奪われてゆきました。

▼大義のない暴力に対して

 私は、この人物はイスラエルの中に、新しい神解釈を持ち込んだのだと思います。それは革命的な神解釈です。同胞がそれを聞いて怒りに燃えるような解釈です。けれども、それが無ければ永遠の平和が訪れることはないような、偉大な解釈です。

 彼は「平和を造り出す人々は幸いである」(マタイ5.9)と語りました。また、「剣を取る者は剣で滅びる」(マタイ26.52)とも語りました。

 ご自身が語るこういう言葉が、一時的には同胞に怒りを巻き起こすかもしれないけれども、この信念が無かったら、私たち人間は平和を造り出すことができないのだと、彼は私達に語りかけているのではないでしょうか。

 現実の世の中を見ると、この言葉を実践するのは、大変難しいと思わざるを得ません。どう考えても大義の無い集団的な殺害が始まってしまった時、それに対して丸腰の非暴力で対応するのが、果たして正しいことなのか。そんなことは絶対に許されないと思う人がほとんどでしょう。

 ごくたまに、責められた側であっても、無条件降伏をするべきだ、それが最も平和に近い解決方法だと主張する論を見かけることも無いではありません。しかし、多くの人が「それは本当に道徳的な解決方法なのか。それで先に戦いを始めた方が攻撃を止めなかったらどうするのか」と言うでしょう。

 私達は、このような世界の危機に対して、どう聖書を読むべきなのでしょうか。そして、どういう発言と行動をするべきなのでしょうか。

 これは2000年前のイスラエル人同胞だけではなく、現代の私達に対する挑戦でもあると思います。

▼疑いながらも信じている

 私は、この革命的な神解釈を唱え始めた人物、すなわちイエス・キリストを信じたいと思います。

 たとえ人間が人間に対して一方的に暴力を奮っても、そしてその暴力に対して応戦せざるを得なくなっても、その結果どんなに絶望的な状況が繰り広げられようとも、神はどの人間も同じように、神の子どもとして愛しておられるのだということを、信じたいと思います。

 世界の緊張はどんどんと高まっています。敵と味方がはっきりと分かれ、この戦いに乗っかっていこうとする国々も増えてきました。私たちの国も例外ではありません。

 どこに住んでいる人間も、みな神に愛された、神の作品なのだということを誰も認識していないと、この世はこんなに悲惨な場所になってしまいます。

 聖書の神解釈は、書かれた時代、書いた人たちによって変ってゆきます。出エジプト記を書いた人たちは、「自分たちだけが神さまに選ばれた民族なのだ、私たちを選んだのが神さまなのだ」という神解釈をしていました。しかし、イエスという人物は、「そうではない。神は愛なのだ。敵をも愛せというのが神のご意志なのだ」という神解釈を示しました。

 神解釈は変ってゆきます。

 ですから私たちは、聖書に書かれてあることを、それがどこに書いてあることでも、すべて字義通りに正しいと思い込むことはやめておいたほうが良いのではないかと思います。

 むしろ、疑うべきところは疑ったほうが良い。そして、私たちを本当に幸福にするのは、そのような神解釈なのかということを、真剣に考えたほうがよいと思うのですがいかがでしょうか。

 私は、時には聖書の記事を疑います。けれども、イエスが示してくれた神の分け隔てない愛は信じています。皆さんはどのように思われますでしょうか。

 祈りましょう。

▼祈り

 愛する神さま。私たちひとりひとりにかけがえのない命を与え、この世に送り出してくださったあなたに、心から感謝いたします。

 あなたが私たち人類全ての者を愛してくださっていることを信じます。この世の生きとし生けるものを愛して造ってくださったことを信じます。

 しかし、私たちはそのようなあなたの愛を裏切り、互いに傷つけ合い、命を奪い合っています。大きな戦いも起こしたり、小さな命を踏みにじったりします。

 神さま、どうかこのような私たちを赦してください。全ての命が、あなたに愛された大切なものであることを、今一度全ての人に気づかせてください。

 絶望の中に希望を見いださせてください。

 尊いイエス様のお名前によって、ここにおられるお一人お一人の願いと共に、この祈りをどうかお聴きください。アーメン。

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