【イエスは若いか年寄りか~永遠の青二才】ルカによる福音書3章23節前半

2022年5月29日(日)枚方くずは教会主日礼拝宣教

ルカによる福音書3章23節前半(新約聖書・新共同訳p.106、聖書教会共同訳p.105)

▼イエスが何かを始めた

 今日の聖書の言葉は、「イエスが宣教を始められたときはおよそ三十歳であった」という一言ですね。

 これ実は、日本語訳では「宣教を」という言葉は補足でありまして、この文章には、もともと「イエスが始めた」としか書かれていません。何を始めたのかは実ははっきりとしていないんですね。

 ただ、「イエスご自身が」とあるのは、「イエスご自身もまた」という風にも訳せるので、「イエス自身もまた洗礼者ヨハネのように」と訳すことも可能だとも言います。それなら、イエスもヨハネのように荒れ野で洗礼活動を始めたように受け取ることもできるかもしれません。

 ただ、洗礼者ヨハネと一緒に活動していた時はともかく、その後ヨハネが殺されて、イエスがガリラヤに戻って自分の活動を始めた時は、もう洗礼を授けていたということは語られていないので、洗礼を授けて回るというのが、イエスの活動の本来の目的であったということは考えにくいと思われます。

 とにかく、ここでは単に「始めた」としか書かれていないので、本当のところ、何を30歳のころ始めたのかは、正確にはわからないんですね。

 何を始めたかわからないけれども、とにかくイエスは何かを始められた。そして、それがこの世を決定的に変えてゆく上での重要な転換点であった。それをルカが言いたいことだけは明らかなわけです。

▼30歳

 30歳というのは、聖書の時代においてはどういう年齢だと捉えられていたのでしょうか。

 ヨーロッパなどでは人が年齢というものを強く意識し始めたのは19世紀以降のことで、それまでは自分が何歳なのか、いったい何年に生まれたのかも、はっきり知らない人が多かったと聞いたことがあります。特に貧しい人たちはそうだったようです。人が年齢を意識し始めたのは、役所が人の出生や死亡を記録し始めたからだというんですね。

 しかし、ユダヤではそうではなかったでしょうね。ユダヤ人社会では大昔から「バル・ミツバ」といって12歳になったときには成人式を地域の皆んなでお祝いするという伝統がありますから、子どもが何年に生まれて何歳で、いつから成人したかということは、きっちり数えていたと思われます。

 そのようなユダヤ人にとって、30歳というのは、どういう年齢なのか。

 たとえば創世記41章46節には、こう書いてあります。

 「ヨセフがエジプトの王ファラオの前に立ったのは、三十歳の時であった。」

 これは、ヨセフがファラオの夢を解いて、7年間の大豊作と7年間の大飢饉を予言して、エジプトを治める大臣にしてもらった場面に出てくる言葉です。それまで牢獄に繋がれていたヨセフが、それまでの人生とは全く違って、国を治めるような実力者になる。その大きな変化、成熟した人間になる。それが30歳なんだと描かれているわけですね。

▼大人としての年齢

 ほかにも、サムエル記下5章4節には、こういう言葉があります。

 「ダビデは三十歳で王位につき、四十年間統治した。」

 これも、一介の羊飼いの若者であったダビデが、イスラエル民族の王になった瞬間です。ダビデは後々までイスラエル最高の王として語り伝えられて、やがてイエスの時代には、新しく生まれてくるイスラエルの王は、ダビデの家系から生まれるという伝説まで生まれるようになりました。これも、1人の人間の運命的な人生の転換。人生のある局面が完成したとき。そして新しい局面が始まるとき。そういう特別な年齢なんだと捉えられていることがわかります。

 さらには、民数記4章には、何度も「30歳から50歳までの者」が「会見の幕屋で働く」と書かれています。

 この時代、イスラエル民族の中で人口調査の対象になったのは、兵役につくことのできる男子20歳以上となっていたのですけれども、「会見の幕屋で働く」つまり、祭司の仕事をするということですね。

 この民数記に書かれている時代には、まだ神殿というのは無くて、移動式の祭壇のようなもので神さまを礼拝していて、それを囲う、他の空間とは違う特別な場所を造るためのテントのようなもの。その囲われた場所のことを「会見の幕屋」、つまり、神と人が会見する、神と人が出会う場所としたんですね。

 その「会見の幕屋」で働くということは、神と人間の仲介をする役割、つまり祭司ということなんですが、その祭司の仕事は20歳以上ではダメだと。兵隊になるのは20歳以上でいいんだけれど、祭司の仕事は若くても30歳以上でないとダメというんですね。

 このことからも、30歳というのは、イスラエルにおいても、成熟した人間という捉え方をされていたのでしょうね。12歳でバル・ミツバを迎えて成人するけれども、それでも成熟した人間としては扱われず、30歳になったら一人前という感覚だったのではないでしょうか。

▼イエスは高齢者

 もっとも、イエスが生きていた時代の人間の平均寿命は、貧富の差に伴って随分違っていたようで、王様や宮廷に仕えたり、神殿に仕えたりするような豊かな人たちは、病気とかにならなければ、70歳~80歳と生きることもあったようですけれども、イエスが一緒に生きた貧しい人たちは、栄養失調の人もいたでしょうし、まともに医者にお世話になることもなかったでしょうし、一説によれば、貧しい人々にとっては、30歳を超えることができれば良し。30歳を超えたら十分高齢者という扱いだったとも言います。

 ですから、イエスを取り囲む貧しい人々の間ではイエスは結構いい年で、彼の話を聴いた人たちも、彼の弟子たちも、みんなイエスより若かった可能性が高い。彼らにとってはイエスはじゅうぶんベテランで、話に耳を傾けるべきおじいさん。

 でも、長生きをするのが当たり前の金持ちや権力者たちから見れば、まあまあ一人前になったばかりの青年。そんな風に、受け止められていたのではないでしょうか。

 イスラエルの聖書の伝統から言えば、30歳というのは、いちばん脂の乗った頃。これまでの人生に見切りをつけ、新たに重要な役割を果たし始めるのにふさわしい年齢だと言えるでしょう。イエスもこのあたりの年齢から、新しい人生、いわゆる「公生涯」(公に人前に出た活動をする生涯)を始めたわけです。

 というわけで、彼の周りの人たちから見ると、ある人達からは人生の大ベテラン、ある人達から見ればまだまだ若造。そんな風に、人によって違う見方をされていた、彼は微妙な年齢であったと言えるのではないかと思われます。

▼イエスは若いか年寄りか

 しかし、私は思うんですね。地上に生きていた時のイエス様って、そんなに精神年齢高いんだろうか、と。あまり落ち着いた感じがしないんですね、イエス様。

 たとえばイエスの律法学者やファリサイ派の人たちに対してのものの言い方は、ちょっと大人げないと思いませんでしょうか?

 マタイによる福音書の23章には、律法学者やファリサイ派の人たちに対する呪いの言葉が並んでいます。

 「律法学者とファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ」と何度も繰り返して、人を攻撃します。そして「先祖の始めた悪事を仕上げたらどうだ」(マタイ23.32)とまで罵ります。イエスの口の悪さと言ったらないです。

 有名なのは、いちじくの木を呪って枯らしてしまう話ですね。マルコによる福音書の10章に載っていますけれども、お腹が空いたイエスがいちじくの木に近寄ってみると、実がなってなかったと。そこで、イエスは「今から後、いつまでも、お前から実を食べる者がないように」と言って、枯らしてしまうんですね。

 5000人を満腹させる力があるんだったら、自分の分のいちじく1個か2個くらいならせるようにしたらええやん、と思いませんか? こういうイエスの振る舞いを見ていると、大人げないところもあったのかなと思わされる時もあるわけです。

 これに比べたら、使徒言行録に出てくる、たとえばガマリエルというファリサイ派の律法学者の方がよほど大人です。

 使徒言行録5章38節でガマリエルは、まだ興ってきたばかりのキリスト教に対して、「こいつら滅ぼしてやらないと!」と血気盛んなユダヤ人の仲間たちに対して、「ほうっておくがよい」(使徒5.38)と言っています。

 「あの計画や行動が人間から出たものなら、自滅するだろうし、神から出たものであれば、彼らを滅ぼすことはできない」(同38-39)と言います。要するに「冷静になれ」ということです。これが大人の態度というものではないでしょうか。

 イエスは違います。ライバルに対しては遠慮なく「災いだ」と呪いの言葉を吐き、モラルに反していると思ったら、「体の一部がなくなっても、全身が投げ込まれない方がましだ」(マタイ5.29)と罵倒し、挙げ句の果てには、実のなる季節ではない木に向かって、「枯れてしまえ」です。

▼永遠の青二才

 ということは、イエスは青二才なのでしょうか……。

 ……そうなんです。イエスは青二才なのです。キリスト教会は、この青二才の言葉を永遠の神の言葉だと受け取って、聖書に書き込んだのです。

 つまり、神は青二才のように若い。永遠に若いのです。

 青二才の若者は、世界のおかしなところ、間違っているところ、歪んでいるところ、矛盾しているところを見ていて、放っておくことができません。

 若さの勢いで、遠慮なく批判し、おかしなところを指摘し、何とかして真っ当な姿に改革してゆく。そういうことは、若い力で無くてはできません。

 大抵の人間は歳をとるごとにくたびれてきて、「寛容になる」と言えば聞こえはいいですが、要するになんでもどうでもよくなってきてしまったりすることはありませんか。「寛容」と言いながら、実は「妥協」している。「寛容」と「妥協」は隣り合わせではないでしょうか。歳をとると妥協に慣れてしまうのではないでしょうか。

 しかし、それではダメなんだとイエスは言います。ダメなものはダメ、いいものはいい。そこはハッキリさせていこうじゃないか。そんなエネルギーに溢れているのがイエスであり、神なのです。

 つまり、言うなれば、永遠の神は私たちより若いのです。神は永遠の若者です。神は永遠に青二才、永遠の30歳なのです。

▼永遠の命に参加する

 でも、「永遠の30歳」なんて、素晴らしい響きがあると思いませんか?

 ちょっと30歳のころを思い出してみてください。もちろん若い頃に苦しい思い出しかないという方もいらっしゃるかも知れません。若い頃の自分は愚かだったと後悔している方もいらっしゃるかも知れません。しかし、生きるエネルギーという意味では、はるかに今より力強さに満ちていたのではないでしょうか。

 30歳はまだ青二才だけど、それでも子どもというわけでもない。ある程度の分別もついてきて、判断力もある。いい具合に大人です。そして、希望と理想と潔癖さを持ち合わせることができる。まだそれらを失ってはいないのです。

 私は神を信じて生きるということは、永遠の青二才であるイエスとつながって生きる、永遠に若いイエスと共に生きるということだと思います。永遠の若者イエスにつながることが、永遠の命に触れるということになるのではないかと思っています。

 私たちは永久に生きることはできません。しかし、地上で生きているこの束の間、永遠の命の流れに参加することができます。

 そして、この青年のような永遠の命に参加してゆくことで、私たちの魂は息を吹き返すのではないかと思っています。

 イエスを信じて、イエスに触れて、イエスの永遠の命に参加することが本当にできた時、私たちも永遠の若さの中に生きるということができるのではないでしょうか。

 イエスを信じるということは、イエスの若さを自らのうちに取り入れ、イエスの若さをイエスと共に生きるということなのだろうと思います。

 祈りましょう。

▼祈り

 愛する神さま。

 今日もあなたに与えられたこの体と命を生きることができますことを心から感謝します。

 とはいえ神さま。私たちの肉体は歳を経るごとにすり減って、疲れてゆきます。それに従って、心も老いて、くたびれてゆきます。

 しかし神さま。今一度、あなたの御子、イエス・キリストにつながらせてください。若いあなたの命に触れさせてください。そして、私たちの心を若返らせてください。元気を与えてください。

 私たちを、あなたの永遠の命に触れさせてください。

 イエス・キリストのお名前によって祈ります。

 アーメン。

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