【愛するという抵抗】ローマの信徒への手紙12章9−21節

2022年5月22日(日)徳島北教会主日礼拝説教

ローマの信徒への手紙12章9-21節(新約聖書・新共同訳p.292、聖書教会共同訳p.286-287)

▼生活の指針?

 おはようございます。今日は、聖書の小見出しでは「キリスト教的生活の規範」となっている箇所ですね。今の最新の訳である「聖書協会共同訳」では「キリスト者の生活指針」という小見出しになっています。

 この小見出しというのは、もともとの聖書のギリシア語原典には無いもので、あとからつけられたものなのですけれども、聖書を翻訳した人たちは、「これがクリスチャンの生き方のお手本なのだ」と受け止めて、こういう小見出しをつけたんでしょうし、実際ここに書かれているような生き方を実践しながら、クリスチャンとしての良い証を立てている方もおられます。

 けれども、そもそもパウロがそういう、「クリスチャンの生き方のお手本というのは、こういうものなんですよ」というつもりでこの箇所を書いたのだろうか? それが今日の説き明かしのテーマです。

▼偽りのない愛

 まず、「愛には偽りがあってはなりません」(ローマ12.9)とあります。ここは直訳すると、「愛、偽りの無い」という短い文です。「偽りの無い愛!」「偽善でない愛!」「見せかけだけではない愛!」と言い切っています。パウロの激しい口調が感じられるようです。「嘘のない愛!」とまず力強く、短く言い切るところからパウロは後の文章に続けていっています。

 そして「悪を憎み、善から離れず」とリズムのある文章が続きます。

 「悪を憎め」と言っています。この「悪」というのは、「邪悪なこと」「やくざなこと」「腐ってる」というような意味があり、そのような腐ったような邪悪なことを憎みなさいと言っているのですね。悪に対して、寛容に赦してあげなさいというのではなくて、悪を嫌いなさい、憎みなさいと言っています。

 そして「善から離れず」というのは、「離れず」というより、糊か何かでぴったり密着しているようなイメージ。善にぴったりくっついて、ということです。「悪を憎んで、善にくっついて」と、言葉にリズムをつけて言っている感じ。

▼きょうだい愛

 そして、これに続いて「兄弟愛」とあるのは、「フィラデルフィア」という言葉です。

 「フィラデルフィア」というのは、アメリカにもそういう名前の街があって、英語みたいになっていますが、元はここに出てくる「フィラデルフィア」というギリシア語です。

 「フィラ」は「フィリア」つまり「友愛」という言葉から来ています。そして後半の「アデルフィア」は「アデルフォイ」つまり「兄弟たち」という言葉から来ています。

 この「アデルフォイ」は男性形の複数形で、この言葉は男たちに対してだけ語られたのだと思われそうなところですけれども、当時は女性も男性も混じっている教会の共同体全体を、こんな風に「兄弟たち」と呼びかけていたようなんですね。

 これはたとえば、日本語でも子どもたちの間に女の子が混じっていても、「きょうだい」と呼ぶ場合がありますよね、「兄」と「妹」と書いて「きょうだい」と読ませる場合もあります。また、最近の印刷物では、ひらかなで「きょうだい」と表記する場合も増えてきました。

 そういうわけで、とにかくここでの「きょうだい愛」は、ひらかなでの「きょうだい」どうしでの友愛。それによってお互いに愛し合いなさいと言っています。

 そしてここでも「お互いに」ということばが2回繰り返されて、「お互いにきょうだい愛で愛し合い、お互いに尊敬で優れた者と思い……」という風に、やはりリズムをつけた言い方です。まるで、歌うようにパウロはこういった言葉でたたみかけているんですね。

▼ホスピタリティを追求せよ

 続いて、「怠らず励み」は、もうちょっとわかりやすく言い換えると、「めんどくさがることなく熱心に努力し」ということになりますでしょうか。めんどくさがりでものぐさの私には耳が痛い言葉です。

 「霊に燃えて」というのは、霊がぐらぐらと沸騰している感じ。そして「主に仕えなさい」は「主の奴隷になりなさい」という感じ。

 そして日本語の聖書ではここで一旦「。」がついて文章が切れていますけれども、パウロは実はここで文章を切っていません。同じような言葉のリズムで一気に長い文章を書いていきます。

 ここのところは、聖書の文面を目で追いながら、聴いていただければありがたいんですけれども、こんな風に言っています。

 「めんどくさがらないでしっかり努力し、霊をぐらぐら煮立たせて、主の奴隷になり、希望をもって心から喜んで、苦しみ悩みがあってもそこから逃げないで、祈りに専念し、聖なる者たち(ここではおそらく、宣教に専従している使徒たちのことを言っているのだと思いますけれども)そういう人たちの困窮を共有し、つまり、一緒に貧しさを味わい、見知らぬ人を接待するようなホスピタリティを必死になって追い求めなさい」……ここまでパウロは一気に言葉を続けています。彼の必死の勢いが感じられます。

▼喜ぶ者と共に喜び、泣く者と共に泣け

 続いて、14節でもリズミカルに、「迫害する者を祝福せよ、呪うのではなく祝福せよ」。15節も「喜ぶ者と共に喜び、泣く者と共に泣け」。

 そして16節、「お互いに同じ考えを持って」あるいは「お互いに配慮して」。ここを英語の辞書では「ハーモニー」と説明しているものもあるので、「お互いにハーモニーを鳴らすように調和して」と訳してもいいかもしれません。

 そして、「自分を高い者だと考えるのではなく、低い者と一緒になりなさい」。「自分を賢い者だと思うなんて、とんでもない!」。

 17節、「誰に対しても悪で返すのではなく、すべての人の見ている前で、良いこと、美しいこと、あるいはためになることを心がけなさい」。

▼できることなら復讐せず、平和に過ごせ

 そして、これに続いて、「可能なら、せめてあなたがたは、全ての人と平和に過ごしなさい」(18節)。

 「できれば」とここでは訳されていますけれども、この「できれば」「可能なら」というのは、「力」という言葉とつながる言葉で、「もしできるんだったら」というようなニュアンスでしょうか。ですから、実はこのローマの人にとっては、すべての人たちと平和にやっていくということが難しい状況だったのかもしれません。「平和にやってゆく」というのは、かなり「力」が要ることだったのかもしれない。ローマの教会の人たちの周りには、これまで出てきたような「迫害する者」がいて、教会は敵に取り囲まれていたのかもしれません。

 そう考えると、次に続く言葉も不自然な流れではなくなります。

 19節、「自分で仕返しをしてはいけない、愛する者たち」。そして、これは「神の怒りに任せなさい」と私たちの聖書ではなっていますけれども、私がギリシア語で見る限りでは、「神の怒りに任せよ」ではなくて、直訳すると「怒りの機会を手放しなさい」と書いてあるように読めます。「怒りの機会を手放しなさい」。

▼復讐の神?

 そして、「というのは、こう書いてあるからだ。『復讐は私のもの。私が仕返しをする、と主が言われる』」。これは旧約聖書の申命記32章35節に書いてある言葉の引用なんですね。申命記には、この新共同訳だと「わたしが報復し、報いをする」(申命記32.35)と確かに書いてあります。

 これは、前にもKさんがおっしゃっていたように、文語訳では「復讐するは我にあり」という言葉で、この言葉が題名になった映画がありましたね、緒形拳さんが主役でしたでしょうか。

 この「復讐の神」というのは、ちょっと私たち戸惑ってしまいますね。私たちが知っている愛と平和の神さまとはちょっと違う感性なのかもしれません。

 パウロもイエスが、自分に振るわれた暴力に対して、復讐することなく、自分を殺そうとしている人たちが赦されるようにと願いながら亡くなっていったことを知っていたはずですから、どういうロジックでパウロがここに書いてあるように「復讐するは神にあり」ということを言い出したのか、よくわかりません。

 ただ、こういうことを言い出すのは、それほどローマの教会の人々の間で、自分たちを迫害する敵に対して「復讐したい」という怒りが高まっていた。それをパウロが察知していたと考えられるのでないかと思います。

 ローマの人たちは、もう我慢がならない。復讐したい。怒りのボルテージが高まっている。それに対して、「復讐など考えることもなりません」とまでは言えなかったのではないか。だから、パウロは「復讐は神に任せなさい」となだめるしかなかったのではないかな……と推測します。

▼イエスを正しく継承するパウロ

 そして更に読み進めましょう。

 「あなたの敵が飢えていたら食べさせ、渇いていたら飲ませよ。そうすれば、燃える炭火を彼の頭に積むことになる」(ローマ12.20)。

 「敵が飢えていたら食べさせ、渇いていたら飲ませよ」というのは、マタイによる福音書25章の後半に書かれている、「お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ」(マタイ25.35)というイエスの言葉を踏まえていることは明らかですね。

 これは、今日読んだパウロの言葉の中でも、13節の「旅人をもてなすよう努めなさい」と言っているところにもつながってきます。パウロは、イエスがマタイの25章で「わたしの兄弟であるこの最も小さい者にしたのは、わたしにしてくれたことなのである」(マタイ25.40)と言っている言葉をちゃんと踏まえた上で、今日の聖書の箇所を語っているんですね。

 しかもパウロはそれを、「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」(マタイ5.44)というイエスの言葉とも結びつけているんですね。先程も確かめたように、14節でパウロは、迫害する者を祝福しなさいと言っています。

 ですから、パウロは今日の聖書の箇所で、イエスのメッセージをギュッと凝縮して伝えようとしているんですね。「自分たちを迫害する敵が飢えていたら食べさせ、渇いていたら飲ませてやりなさい」と言っているわけです。

▼燃える炭火を頭に積む?

 しかし、謎めいているのは、それに続く「そうすれば、燃える炭火を彼の頭に積むことになる」という言葉です。これは何を意味しているのか、正直言ってわかりません。

 いろんな人がいろんな解釈を披露しています。たとえば、これは「頭がカーっとなることを意味しているのだ」とか。自分たちを迫害するような奴らに、こちらから逆に愛してあげると、相手は恥ずかしさのあまり頭がカーっと熱くなると。そういう解釈をする人もいます。

 あるいは、炭火というのは、熱によってものを清めたり、金属を溶かして不純物を取り除くために使われるので、相手の心の中の不順な思いが清められるように、という意味なのだとか。いろんな人がいろんなことを言うので、たぶん誰もわかっていないのでしょうね。

 謎の言葉は謎のままにしておいてもいいのではないかな、とも思います。2000年前の人がどういう文化的背景でこういうことを言ったのか、完全にはわからないこともありますので、わからないことをわかったように言う必要はないのではないかなと思います……と言って、私が不勉強なのを正当化しているみたいですけどね。

▼愛による抵抗

 この「燃える炭火を頭に乗せる」ということの意味がわからなかったとしても、パウロが言わんとしているのは、「敵を愛しなさい。自分を迫害する者を祝福し、食べさせたり飲ませたりしてあげなさい」ということなんです。これは、相手の暴力に対する無抵抗ではなく、一種の抵抗の形なのかもしれません。

 イエスは、「右の頬を打たれたら、左の頬をも向けなさい」(マタイ5.39)と言いました。これは、自分に痛みや侮辱を与える者に対して、「もっとやってみろ」という、ある意味挑発的な、挑戦的な抵抗の態度とも受け取れるわけですが、パウロはこれも踏まえて、「自分たちを叩く者を、あえてもてなしてやれ」という、愛による抵抗を呼びかけているのではないでしょうか。

 そしてパウロは、このひとまとまりの勧めを、21節の「悪に負けることなく、善をもって悪に勝ちなさい」と言ってしめくくります。直訳すると、「悪に対して、悪で打ち負かすのではなく、善で打ち負かしなさい」という言い方をしています。「善で打ち負かしなさい」。これも、非常に挑戦的な物言いです。 

▼毅然として敵を愛す

 というわけで、こうしてちょっと細かめに今日の聖書の箇所を読み込んでゆくと、パウロがものすごい勢いで、乗りに乗って語りかけている調子とかを読み取ることができますし、その背景には、ローマの教会の人たちが、自分たちを迫害する、あるいは自分たちに悪意のある仕打ちをしてくる人々に対して「なんとかして復讐してやりたい」と思っている、その思いを察知したパウロが、「そうではない。あなたがたは怒りに任せて自分で復讐するのではなく、むしろ敵を愛するのだ。愛するという抵抗をするのだ」と必死に励ましている様子が感じられるように思います。

 一見、さらっと読むと、穏やかな愛の生活の勧めのように読める箇所ですが、実は、周囲の人々によって迫害され、悪意にさらされ、非常に苦しい思いをしているクリスチャン・コミュニティに対して、「むしろ愛と善意によって抵抗するんだ」と勧めている、力のこもった言葉なのだということがわかってきます。

 パウロが訴えかけているのは、「愛による抵抗」「愛するという抵抗」です。

 私たちが誰かに苦しみを与えられるということがあったとして、その苦しみを与える相手に対して、仕返しをするのでなく、そしてその悪をただ赦すのではなく、その敵を愛するという形で抵抗ができますでしょうか。

 その場合、愛するというのは、ただ悪を見過ごして、いつもニコニコと笑っているだけの態度ではなさそうです。

 愛することによって、自分は悪には負けない。復讐心には負けないのだ。そういうはっきりとした態度表明を示す。そういう愛し方をしなさいと、パウロは勧めているのではないかと思われます。

 毅然として敵を愛す。そのような生き方が自分にできるだろうか。居住まいを正される思いです。

 祈りましょう。

▼祈り

 神さま。

 この敵意と憎しみ、不安と恐怖が満ちている世の中を救ってください。これらが私たちの罪であることは承知しています。私たちは私たち自身の力で、自分を救うことができていません。どうかあなたの救いが、あなたの希望を与えてくださいますように、お願いをいたします。

 できれば、とパウロは言っています。できれば、私たちが全ての人と平和に暮らすことができれば、どんなに素晴らしいことでしょう。それを可能にするために、どうか私たちに恐怖と不安を乗り越えさせてください。

 そして、あなたの愛と平和を信じ、この世を変えてゆく勇気を与えてください。

 国と国の争い、民族と民族の争いだけでなく、私たちの身の回りにおいても、私たちが憎しみによって戦うのではなく、無抵抗に泣き寝入りするのでもなく、愛するという抵抗をなすことができますように、どうか力を与えてください。

 すべてのことを愛でもってこれをなすということができますように、私たちがあなたのことをいつも思い出しながら、今週も私たちをこの世の生活に送り出してください。

 私たちの主、イエス・キリストの御名によって祈ります。

 アーメン。

 

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