【いろんな言葉が話せたらいいだろな】使徒言行録2章1−13節

2022年6月12日(日)徳島北教会ペンテコステ礼拝説き明かし

使徒言行録2章1-13節(新約聖書・新共同訳p.214-215、聖書教会共同訳p.210-211)

▼ペンテコステ

 おはようございます。

 今日は、1週遅れのペンテコステのお話をします。先週は私の平日の勤務先の都合で日曜日に出勤しなくてはいけなくなったので、ペンテコステ礼拝をすることができませんでした。それで、1週間遅れということになりました。

 「ペンテコステ」というのは「50」という意味で、一説によれば、過越祭から50日目の祭日ということらしいですが、細かいことはわかっていないようです。何かしら春か初夏の季節にユダヤ教では祭が行われていたようです。それをギリシア語を話すユダヤ人の間では、ギリシア語で「ペンテコステ」と呼んでいました。

 そして、ちょうどその時期に今日お読みしたような出来事が初代のクリスチャンたちの間で起こったというので、この出来事そのものを「ペンテコステ」と呼ぶようになったというわけです。

 過越祭から50日目の祭日に、弟子たちが1つの場所に集まっていると、突然激しい風が吹いて来るような音がして、家中に響き渡り、炎のような舌が分かれ分かれに現れて、一人一人の上に留まったと。すると、一同は聖霊に満たされて、霊の導くままに、他国の言葉で話しだしたとあります。

 ここで、他国の言葉と書いてあるのは、元の言葉では「舌」と同じ言葉です。ですから、「炎のような舌が現れて、異なる舌で話しだした」という言葉遣いになっているんですね。

 そして、「霊」というのは「風」という意味も持っていますから、まさに神様の霊が風となってゴーゴーと弟子たちに迫ってきたということがわかります。ここでの「霊」は単数形なので、1つの霊が弟子たちみんなを導いたということになりますので、まさにひとりの神の霊が弟子たちを突き動かす力になったということですね。

 弟子たちの心のなかに、「イエスのことを伝えなくては!」という情熱が湧き上がったのだけれども、それは弟子たちの自発的な情熱というわけではなく、神様から否応無く迫ってきたものだということなのであろうと思われます。

▼地元の言葉

 このペンテコステの出来事というのは、面白い話ですよね。ガリラヤ地方出身の、そちらの地方の方言丸出しのイエスの弟子たちが、突然、色々な地方、色々な民族の言葉を喋り始めたというわけですね。

 5節に、「エルサレムには天下のあらゆる国から帰って来た、信心深いユダヤ人が住んでいた」とあります。ここを「信心深い」と訳すか、「真面目な」と訳すかは訳によって分かれていますけれども、いずれにしろ、ユダヤ人の律法、つまりユダヤ人の生き方を定めている掟に忠実な人たちという意味であろうと考えられます。

 この天下のあらゆる地方というのは、ローマ帝国の内外を問わず、あらゆる地方出身のユダヤ人ということですね。9節以降あげられている地名の中には、ローマ帝国のさらに東側の地方(パルティア、メディア、エラムというのは、そのあたりだそうですけれど)も含まれていて、まさにその当時のこの地域の人達が知りうる限りの「天下」のあらゆる地方だったということがわかります。

 それらの人たちは、その当時のローマ帝国の東半分の共通語としてのギリシア語を、仕事上話してはいましたけれども、自分の地元では、地元の言葉で話して、地元の言葉の中で育ってきたんですね。そして、そういう地元の言葉がたくさんたくさんあったようです。これが、この人たちにとっては本来の自分の言葉です。

 その地元の言葉を、やはりガリラヤの地元の言葉で育ったはずの弟子たちがしゃべり始めたというのですから、みんなびっくりしてしまったというお話です。

▼いろんな言葉が話せたらいいだろな

 この物語が実際にあったことだと考える人もいれば、そうではなく創作されたものだろうと考える人もいます。

 しかし、どっちにしても、お互いに通じなくなってしまっている言葉が、通じるようになったというのは、おとぎ話的に見ても、とても楽しいものだと思います。

 この物語を、旧約聖書のバベルの塔の物語と関連付けて理解しようとする人もいます。

 バベルの塔の物語(創世記11.1-9)では、人間たちが天に届く塔を立てて、名を上げようとしますけれども、神様がそれを嫌って、人間が互いに言語が理解できないようにしようとされたとあります。

 そのようにしてバラバラにされてしまった人間が、イエスの福音によって、再び一緒になったのだという理解の仕方ですね。そういう風に考える人がいます。

 それも面白いと思いますけれども、このペンテコステのお話は、再び言葉が1つになったというのではなく、それぞれの言葉はそれぞれのままであったということが大事なことなのではないでしょうか。

 この物語は、弟子たちがなんとかして、色々な地方の言葉を話して、天下のあらゆる地方の人々にイエスのことを良い広めたいという願いから生まれてきた話でしょうね。

 天下のあらゆる国の人々に伝えたい。そのために、私たちはあらゆる言葉を話せるようになりたい。そういう願い、そういう情熱がこもったお話ですけれども、その際に、全ての言葉が再び1つになった……というのではなく、それぞれの地元の言葉を守る形で、その人たちに分かる形でイエスのことを知らせたいということが大事なのではないかと私は思います。

▼バビロン捕囚の記憶

 それぞれのオリジナルな言語を大事にしたいということは、「平和を造る人々は、幸いである」(マタイ5.9)と通じる考え方です。

 色々な言語を話す人達が住んでいるのに、それを1つの言語に統一しようとするのは、大抵、政治的、軍事的に強い立場にいる国なのではないでしょうか。

 バベルの塔の物語の「バベル」というのは、「バビロニア」と暗示する言葉であると言われています。ユダヤ人は紀元前6世紀に、新バビロニア帝国に強制移住させられました。これを「バビロン捕囚」と言いますけれども、このバビロン捕囚のときに、ユダヤ人は自分たちの言葉や宗教儀式を行う神殿を奪われるという目に遭いました。

 そして、その時に「動く神殿」「持ち運べる神の言葉」として、そして自分たちの言葉であるヘブライ語を保存するためにも、「聖書」という書物を編纂しなければならないという契機が生まれたという話を聞いたことがあります。

 バベルの塔の物語には、その時の記憶が反映していて、1つの言葉であることの弊害、1つの言葉によって名を上げようとする人たちに対して、神はこれを嫌われた。そして言葉をバラバラにした。これは本来の人間のあり方に戻されたということになるのでしょうね。

▼名を上げるために言葉を奪う

 たとえば、日本はアジアの色々な国に、日本語を学ぶことを強制しました。大日本帝国という国を広げて、大東亜共栄圏という構想をもとに、自分たちの名を上げようとしました。

 もうだいぶご年配になって、そんなに人数が多くではないと聞きますが、ある年齢以上のアジア人は日本語が普通に話せるということらしいですね。これも、それぞれの国の人に対して、日本が日本語を強制した結果です。

 私は同志社という学校に勤めていて、尹東柱(ユン・ドンジュ)という詩人の名前をよく耳にします。尹東柱は太平洋戦争中に朝鮮から日本の立教大学、そして同志社大学に留学して来られた方で、独立運動に加わった容疑で逮捕され、最終的には福岡の刑務所で獄死されています。

 この尹東柱の詩を刻んだ石碑が、京都の同志社大学の礼拝堂の横に設置されています。

 1940年代に、日本の弾圧のせいで、一切の文学活動が禁止されていた中で、朝鮮語で詩を書き続けた尹東柱という人がいたのだということを思うと、他の民族に日本語を強制し、また強制連行(すなわち捕囚)を行ったことの罪深さを思ってしまいます。

 そのようなことを思いながら、今日のペンテコステの物語を読むと、強大な軍事力を持って、「パックス・ロマーナ」(ローマの平和)と言いながら、天下のあらゆる国々を抑えつけていき、ギリシア語やラテン語といったローマ帝国の言葉を世界共通語としていったローマ帝国に対して、どういう思いでこの福音書を書いたルカは、それぞれの地元の言葉を弟子たちが話せることを理想としたのか、考えさせられませんでしょうか。

▼平和を造り出すもの幸いなり

 これは、新約聖書がギリシア語で書かれていることと矛盾してはいます。新約聖書がギリシア語で書かれたのは、世界の全ての人に広げるためには、当時の現実としては当時の世界共通語であるギリシア語で書かないといけないということだったのでしょう。そして、実際、初代のクリスチャンたちの宣教活動も、エルサレムから離れた各地ではギリシア語で進められていったのでしょう。

 けれども、今日のペンテコステの物語では、それぞれの地元の言葉を大切にするということが描かれています。それは、それぞれの地元の生活を大事にするということにつながるのではないでしょうか。それぞれの言葉を大事にするということの中にも、平和を造り出すということにつながるものがあるのではないかと、私は思うのですが、皆さんはいかがお考えになりますでしょうか。

 本日の説き明かしを終わります。祈りましょう。

▼祈り

 愛する神様。

 あなたに与えられたこの体と心、そして命を生きることができます恵みを感謝いたします。

 そして、こうして愛する教友の皆さんと共にあなたに礼拝を捧げ、あなたに触れることができますことを感謝いたします。

 私たちは1週遅れでペンテコステの聖書の箇所を読みました。

 イエス様の弟子たちが、たくさんの人々の故郷の言葉を話せるようになったと書かれてありました。

 そこに、たくさんの国々、たくさんの民が持っている文化を尊ぶ、あなたの思いが表れているのではないでしょうか。

 私たちの多くは、そのような様々な言葉を巧みに操る能力はありませんが、それぞれの言葉を話す人を大切にすることができますように。

 そして、どうか私たちの思いを平和を造り出すものへと導いてください。平和の使いとして私たちをこの世に送り出してください。

 イエス・キリストの御名によって祈ります。

 アーメン。

 

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