【嫉妬と劣等感から出てしまった罪】創世記4章1−16節

日本キリスト教団 徳島北教会 主日礼拝説き明かし

創世記4章1−16節(カインとアベル)旧約聖書・新共同訳 pp.5-6、聖書協会共同訳 p.5

▼人類最初の殺人 

 おはようございます。今日は人類最初の殺人が行われてしまった場面を聖書で読みました。

 「罪」という言葉が聖書の中で最初に出てくるのも、このカインとアベルの物語からです。

 人類最初の罪が、兄弟殺し。つまり、自分が最も仲良く身近であるはずの者の命を奪ってしまうということから始まっているのだよと、この物語は教えてくれているんですね。そして、この兄弟殺しを生んでしまったのは、嫉妬と劣等感による憎しみです。

 確かに私たちは、自分とはかけ離れた者に対しては、嫉妬したり劣等感を持ったりはしませんよね。ある程度自分と近いからこそ、その相手と自分を比較してしまいます。

 たとえば、自分とモーツァルトを比較して「俺の音楽の才能がモーツァルトに負けている』と言って悔しがる人なんて、そうそういないと思うんですね。少々ピアノやギターが弾けても、最初からモーツァルトなんて天の上の存在なので、比較にならないわけです。

 モーツァルトには、アントニオ・サリエリというライバルがいたそうですね。『アマデウス』という映画(私、観てませんが、公開された当時、かなり話題にはなりました)。この映画では、モーツァルトを殺したとかいう話になっているそうですが、実際には憎み合うほどの関係ではなく、お互いに才能を認め合う良いライバルだったということらしいです。

 けれども、モーツァルトに嫉妬できるとしたら、それはモーツァルトと実力が近いサリエリしかいないわけで、だからこそサリエリがモーツァルトを殺した……という話にした方が、いかにもリアリティを感じさせる物語になるわけです。

 人は、自分に近い者に嫉妬を抱き、劣等感を覚え、憎しみを抱きがちな生き物なのである、ということなのだろうと思います。

▼神様のえこひいき?

 この物語には理不尽に思われる部分がありますよね。

 そもそもなんで主はアベルの献げ物に目を留めて、カインの献げ物に目を留めなかったのか。主はえこひいきしたんじゃないか。だから、カインが怒るのは当たり前じゃないか。そもそも主が目を留めてくれないということ以上の自己否定は無いわけで、そのことに対するカインの怒りや悲しみの方に同情するわ、という見方はあると思います。

 これに対して、ぼくはよく「神様は肉のほうが好きやったんやろう」と言います。

 適当なことを言ってるようですけれども、もう少し丁寧に言うと、これは遊牧民の間で語り伝えられた物語がもとになっているので、神は遊牧民の先祖であったアベルの献げた肉を、カインの献げた農作物よりも好んだということになっているのではないかということです。

 何故かというと、この「アベル」という言葉は「アピル」さらに後の時代には「ヘブル」と言葉が変化して、イスラエル民族の先祖であるヘブル人のことを指しているのではないかという説があるからなんですね。「アピル」というのは、「小さい者」「卑しい者」「虐げられた者」といった意味があって、あちこちの逃亡奴隷たちが集まってイスラエスの12部国連合を作ったのだ、といった歴史にもつながってくるので、この話は街に入ることができない遊牧民のお話なんだなと推測されるわけです。

 だから主が肉を選んだのは、たまたま主が遊牧民の神様だったからで、農作物に目を留めなかったのは、単に好みの問題であって、他意はない。そういうことだろうと思うんですね。けれども、もともとはそういうことなのでしょうけれど、そのような伝説をもとにして、最終的にこの物語を作った人たちは、人間の根源的な愛情と憎しみの物語に仕立て上げました。

▼アダムとエバの過ち

 この出来事の背景には、そもそもアダムとエバが善悪の知識の木の実を食べたことから始まっていることがあるのではないかと思っています。

 アダムとエバは、善悪の知識の実を食べることで、自分達が裸であることに気づき、それを恥じて隠したと書かれています。

 ありのままの自分を恥じることなく生きていたのに、そのありのままを恥じてしまう。それが善悪の知識であったという。

 それは、自分という存在の善悪を判定しようとして、自己のありのままを肯定できない、自己否定の出来事であったのかなと思います。

 自分が善い存在なのか、悪い存在なのか、それをあれかこれか考えようとするところに過ちの始まりがあるのではないでしょうか。

 本来はそれは神の領域です。人間は自分の存在の善悪を判定する必要はなく、全てを神に任せてありのままに生きていればよかったのですが、この出来事によって、自分で判定しようとするものになった。そうやって神から離れたんだということなのでしょうね。

▼他人の評価

 このアダムとエバの過ちはこの2人の子育てにも影響を与えたと考えることができます。

 2人は、自分の望ましくないと思われるところは隠してしまうという態度を身につけました。つまりありのままの自分を相手には開かない夫婦となりました。

 そんな2人は、カインとアベルにも、ありのままの自分を愛することを教えることができなかったのではないでしょうか。もしそうだとすれば、カインとアベルにとっては、自分たちが育った家庭は、本当の意味での安全基地にはなってなかったのだろうと思われます。

 望ましい自分と望ましくない自分があるということを学んだカインとアベルは、自分が受け入れられるか受け入れられないかを、他人の評価、特に自分の身近な人の評価によって決めてしまうような子たちに育ったのではないでしょうか。

 そして、主がたまたま片方の献げ物を自分の好みで選んだのに対して、自分の評価が損なわれ、自分を全面的に否定されてしまったように思ってカインは激しく怒ったのではないでしょうか。

▼罪に支配される

 主はカインに言います。

 「どうして怒るのか。どうして顔を伏せるのか。もしお前が正しいのなら、顔を上げられるはずではないか。正しくないなら、罪は戸口で待ち伏せており、お前を求める。お前はそれを支配せねばならない」と言います(創世記4.6-7)。

 つまり、主は「お前は正しくない」とは言っていません。「もしお前が正しいのなら」、自分が正しいと思うことをやっているのなら、自信を持って顔を上げればいいじゃないか。けれども、正しいことを行っていないのなら、罪がお前を支配するだろうと。

 そして、実際カインは、罪に求められて、自分のほうが罪に支配されることになってしまいます。カインは最終的には、「自分は間違ったことをしていない」と自分で肯定することができなかったのでしょうね。

▼呼びかける神

 9節で主はカインに「お前の弟アベルはどこにいるのか」と尋ねています。これはその前の3章9節で、主なる神が「どこにいるのか」とアダムを呼んだのに似ています。神様は、人間がどこでどのようにしているのかを当然ご存知なわけですが、あえて「あなたはどこにいるのか」と尋ねます。

 それは人間に「自分はどこに立っているのか」、「自分は何をしているのか」、「今自分はどのような状態で生きているのか」という問いを投げかけているわけです。「お前の弟アベルはどこにいるのか」。それは、カインに自分のしたことの意味を問うています。

 「何ということをしたのか」(10節)。これも3章の13節にあるように、主なる神が木の実を食べた女に対して「何ということをしたのか」と言ったことと似ています。やはり、人間が自分のしたことの意味を問い直すための質問です。何をやったかという目に見える行いはもうわかっているわけです。そうではなく、やったことの意味を改めて問い直しているわけです。

 人間は自分の存在を認めてくれないと思った時、あるいは、自分を認めてもらうためには、自分の最も近しい者であっても、自分よりも弱い者の命をも奪うほど、他者に攻撃性を抱くものなのだということを示しています。

 これは、単に個人と個人の問題のみならず、社会的な関係でも起こりうることです。自己承認が危うい人ほど、他の集団の人を攻撃し、排斥しようとします。あるいはその攻撃性を自分自身に向けてしまうでしょう。カインの場合は、その攻撃性を自分以外の人間に向けてしまったわけです。

▼土の中から叫ぶ声

 その結果、命を奪われた者の叫びは、本人が死んでしまったとしても絶対に収まることはないのだ、と10節には書いてあります。「お前の弟の血が土の中からわたしに向かって叫んでいる」(創世記4.10)。理不尽に命を奪われてしまった者の嘆き、悲しみ、痛みは絶対に忘れ去ってはならないものなのだということが言われています。

 と同時に、このようなことを起こってしまう前に、神でさえもカインを止めることはできなかったのかなと、私は改めて思います。人間のやることに神はもはや介入できないんですね。ただ、その嘆き、悲しみ、痛みに耳を傾けるだけです。そして、「何ということをしたのか」と人間に問いを投げかけるのみです。その問いを人間は自分で考え続けてゆくしかありません。

 神は、私たちの嘆きを知ってくれている。しかし、その嘆きを生み出さないようにすることは、人間自身の努力に託されているということではないかと思われます。

▼カインを守る神

 そして、主はカインに呪いをかけて追放します。カインは14節で「わたしが御顔から隠されて」と言っていますが、神の顔から隠されるということは、いよいよカインが神から離れてゆく、つまり「神に背を向ける」すなわり「罪」の状態に置かれてしまうということになります。

 しかし、最終的に主は、自分の命が狙われてしまうことを恐れたカインにしるしを付けて、彼が殺されることにないようにします。カインは自分は殺されても仕方がないような存在だと知っているわけですが、そんな彼が殺されることのないように、神は守ろうとしてくれるわけです。人を殺したからと言って、その加害者を殺してもよいというわけではないのだということではないでしょうか。

▼さすらう人間

 『なぜ私だけが苦しむのか』という本を書いたハロルド・クシュナーという方は、その本の中で「人類最初の罪、殺人は、嫉妬が原因だった。嫉妬というものが、いかに殺人的な感情の原因になっているのかを説いている。/それは心理学的には、親の愛情を得るための競争に根ざしている。ただ愛されることを求めるのではなく、より多く愛されることを求めるのである。/そして人間は嫉妬によって、自分が幸福になるよりも、他人の不幸を喜んでしまうという罪を犯してしまうこともある。/また、他人が自分よりも苦しみや痛み、悲しみが少ないように見えた時、、人は強烈な嫉妬を覚えてしまうのである。」(クシュナー、斎藤武訳『なぜ私だけが苦しむのか』岩波、2008、p.173-174参考)と言っています。

 自分の存在が肯定されない人間ほど、他者の存在が承認されないことを望み、攻撃してしまうものではないでしょうか。そして、自分よりも弱いと思われる人間、あるいは人間集団を攻撃してしまうものなのではないでしょうか。

 しかし、本当に癒やされなくてはならないのは、人を妬み、排斥してしまう加害者のほうかもしれません。本当の意味で愛されることなく育ったカインを愛する人こそが必要とされているのかもしれません。

 そのような愛がなければ、本当の意味でこの社会から暴力や差別やヘイトが無くなることはないでしょう。愛されなかった人が愛されるような社会を作ってゆきたいものです。

 祈ります。

▼祈り

 神様。カインとアベルの物語によって、人の妬みがいかに人と人の関係を破壊してゆくのかを私たちは知らされます。

 この世で、本当の意味で愛されていない。全く人に顧みられてはいない人々が、さらに弱い立場の人を痛めつけ、排斥している社会の現実を見るにつけ、全ての人が真実の愛を受けなくてはならないということを、改めて思い知らされます。

 神様、どうか私たちを愛してください。あなたの愛が形をとったイエス様へと私たちを近づけてください。そして願わくば、その愛を人に伝えることのできる私たちになれるように導き、私たちをこの世へと送り出してください。

 イエス様の御名によって祈ります。アーメン。

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